and She said... (1) 『槙坂涼』。 この学校でその名前を知らない生徒はいない。 明慧学院大学附属高校はじまって以来の成績優秀者で、いつも微笑みを絶やさない大人びた美貌は、男女問わず誰もが憧れ、どこへ行っても注目を浴びる。 そんな完璧人間。 それが――『槙坂涼』。 おかげでわたし、槙坂涼の毎日はとても退屈で、だからこそいつも何かを探していた。 さて、何から話そう。 やっぱり去年の春のことから話すのがいいように思う。 この学校は単位制を導入していて、必修科目以外は好きに授業を選択できる。よって、わたしたち生徒の新年度最初の仕事は、受けたい授業を決めて、期日までに学生課に履修届を出すこと。 ところがこの履修届の書き方が少しばかり複雑で、新入生泣かせなのは当然のこと、期間中は2年生3年生でも頭を突き合わせて大騒ぎしている光景が校内のあちこちで見られる。毎年恒例の風景らしい。 幸い、去年のわたしは一年生で初見ながらいち早く理解し、友人たちにおしえる立場に回った。後期にも書き方を忘れてしまった子におしえていた。今年もそう。……それはいいのだけど、毎回おしえている子の顔ぶれが同じなのはどういうことだろう。半年に一回しかやらないことだから身につかないのはわかるけど、少しは覚える努力をしてほしいと思う。 そうしながら数日かけて履修届を書き終え、何人かの友達と一緒に学生課に出しに行こうとしたときのことだった。 わたしは学生課の窓口の前で呼び止められた。 「槙坂先輩ですよね?」 声のしたほうを見れば、そこに男の子がひとりいた。 「ええ。あなたは新入生?」 ネクタイの色を見ればそれはすぐにわかる。 同時に、わたしは少しうんざりしていた。どうやらもう『槙坂涼』の名前は新入生に知られているらしい。 「先輩はどんな授業をとられたんですか? よかったら履修届を見せてもらえますか?」 が、その発言を聞いて、一転、思わず感心した。 『槙坂涼』は高嶺の花であり、ましてや一年生にとっては不可侵。誰もが同じ教室で一緒に授業を受けたいと思うけど、直接本人にどんな授業をとるのか聞くことはできない。してはいけない。 にも拘らず、この子は声をかけてきた。 なかなかの度胸だと思う。 「どうぞ」 急に彼に興味を持ったわたしは、持っていた履修届を快く差し出した。隣では「ちょ、ちょっと涼さん!?」と友達が慌てていたけれど。 誰もが喉から手が出るほど欲しがるその一枚の紙を、彼は仔細に見る。 間、わたしはその彼を改めて観察した。この勇気ある行動に相応しい、物怖じしないどこか薄情そうな面立ちだ。 「書き方はわかる?」 「難しいですね。でも、実物を見せてもらってわかりました。ここの欄は上が科目の名前で、下がコードなんですね」 そう言って浮かべる笑みは意外や意外、なかなかに人懐っこい。私はそれを見てなぜか、上手な笑みだと思った(そう思った理由は後になって判るのだけれど)。 「ありがとうございます。『よくわかりました』」 履修届をわたしに返すと、彼は軽く頭を下げてから去っていった。 「見せちゃってよかったの?」 彼が離れると、すかさず友達がそう言ってきた。不満そうだ。きっと彼女にとって『槙坂涼』はそんなサービスをしてはいけないのだろう。 「いいんじゃない?」 あれくらい頼まれればいつだって見せるのだから。 少し楽しみだった。 もし"偶然"同じ授業が多かったら、今度はこちらから声をかけてあげようと思う。 そう、これが藤間くんだった。 やがて前期授業が正式にはじまった。 「最近の涼さん、なんかむすっとしてない?」 「え? そ、そう?」 友達のその指摘にわたしは慌てる。 でも、確かにそうだろう。 履修する授業が確定した後、最初の授業はどこもわたしが現れた途端、教室中がおおいに沸いた。 「おっしゃー。槙坂さんと一緒だ! これで半年この授業はがんばれる!」 「やっぱあっちはガセだったな。俺は賭けに勝った!」 みんな『槙坂涼』と一緒になって嬉しいらしい。 だけど、ほとんどの場合、その湧き上がる生徒の中に藤間くんはいなかった。いてもいつも周りの興奮など我関せずとばかりに本を読んでいた。 結局、あけてみれば彼と同じ授業は週にふたつだけ。一年生も受けられる授業も多かったのに。 これでは本当に"偶然"だ。 わたしはなんだか裏切られたような気分だった。 「それにしても、今年の新入生はカッコいいコがいないよね」 不意に一緒にいた友達のひとりが愚痴のようにこぼした。 「そうなの?」 「そうそう。残念ながら不作ね」 わたしは気まぐれに教室を見回してみる。藤間くんがいた。そう言えばこの授業は彼と一緒だったのを思い出す。相変わらず本を読んでいて、そうしながらもちゃんと友達と話しているようだった。 (あれ……?) ふと――気づいた。 藤間くんがよく見れば意外に端整な顔をしていることに。本を読む姿は知的美少年といったふう。この前は珍しさばかりが先に立って、そこに目がいかなかったらしい。 「ねぇ、本当にいない?」 「いないいない」 再度聞くと、彼女は掌をひらひら振ってそう答えた。 「ふうん。そうなんだ……」 やはりそうだ。誰も気がついていない。いつもまるで気配を消して隠れるみたいにして本に視線を落としているからだろう。まだ誰も彼があんなにきれいな顔をしているのを知らないのだ。 気づいたのはわたしだけ。 思いがけず素敵な秘密を見つけてしまった。 本当は女の子なら誰もがほっておかないカッコいい男のコ。 それをわたしだけが知っている。 わたしだけの秘密。 その日を境にわたしはよく藤間くんを見るようになった。 けれど『槙坂涼』が誰かひとりの男の子を注視なんかしたら一大事だ。だからちょっとした小技を使う。視界の端で捉えるように見たり、鏡で前髪を整える振りをしながら見たり。 それは悪戯めいていて楽しかった。 彼に気づかれないように、友達にも気がつかれないように、こっそり彼を見る。 退屈な毎日の中で見つけた小さな楽しみだった。 ふたつわかった。 ひとつは彼がいつも退屈そうだということ。 藤間くんがもつ本来の笑みはとてもシニカルで、彼の端整な相貌によく似合っていたけれど、変わり映えのない日常に退屈しているように見えた。 そして、もうひとつ。 わたしが彼を見ているように、彼もまたわたしを見ているということ。 でも、それは入学してすぐにわたしに声をかけてきた大胆さとはちぐはぐなように思えた。 そして、これは錯覚と――少しばかりの希望が入っているかもしれないけれど、彼のわたしを見る目には、男子生徒なら誰もがもつ『槙坂涼』への憧れ以外の何かがあるような気がした。 ささやかな楽しみと優越感と、小さな謎とを胸に時間は流れ――、 それは暑さも一段落した初秋のある日のこと。 学生食堂で友達と一緒にお弁当を食べていると、藤間くんが何人かの友達と連れ立ってやってきた。わたしは視界の端で彼を見る。すでに"目立たない平凡な生徒"の立場をまんまと確立してしまった彼に注目するのは、きっとわたしくらいのものだろう。 ふと、彼が足を止めた。 学生食堂の一角にある自動販売機コーナーの前。そこで藤間くんは小さな動作で自販機を順番に指さしていく。いや、数をかぞえているようだ。その数6つ。 「おーい、藤間。何やってんの?」 「ああ、悪い」 短く答え、再び歩を進める。 いったい今の行動に何の意味があったのだろう。わたしがそれを知るのは翌日のことだった。 翌日。 朝からはじまった騒ぎは昼休みにピークを迎えた。 今日は朝からずっと自販機がぜんぶ故障中らしい。 わたしは『故障中』の貼り紙が貼られたそれを見ながら考える。昨日藤間くんが数をかぞえていた自販機が、今日にはこんなことになっている。これは偶然? そこにその藤間くんがやってきた。 「今日は朝からこうなんだってよ」 「らしいな」 友達の言葉にまるで他人事のように答える。 が。 「浮田」 通り過ぎようとした彼は、昨日と同じように足を止め、友達を呼び止めた。 「これ、どこも異状ないんじゃないか?」 「え、まさか?」 浮田と呼ばれた彼は、半信半疑に自販機に近寄っていった。 「特にそれらしい表示はなし。売切中のランプもなし、か」 かくして、ギャラリィの見守る中、硬貨を入れてボタンを押すと、何の問題もなく商品が出てきた。場は騒然となり、少なくない生徒が自販機に詰めかけた。 結局、故障している機械はひとつもなかった。 「くそ、騙された」 「なんで誰も確かめなかったんだよ」 「誰だ、こんな悪戯したやつ」 わたしははっとして藤間くんを見る。 彼はいつも通りにシニカルな笑みで自販機コーナーの騒ぎを見ていた。 いつも通り? いや……。 ああ、なるほど。そういうことか。 なんと面白い子だろう。 わたしはいっそう彼に興味を持った。 ひとつ確信があった。 それはきっと彼はほかにもまだ何かやっているという確信。 藤間くんはだいたいいつも同じ場所に座る。大教室だと後ろ半分の階段席の通路側。あるときわたしは思いついてその席を見にいったことがある。 ……やっぱりあった。 机の上に落書きがひとつ。日本史のテストについての真偽不明の情報だった。広まったら日本史を取っている生徒が右往左往しそうな、それでいて先生のひと言で鎮火しそうな情報。 わたしはそれを見て口許を緩める。 わたしと同じだ。 『槙坂涼』の毎日は退屈で、だからそれを面白くするためにいつしか『槙坂涼』で遊ぶことにした。 わたしもよく同じことをする。 例えば、『槙坂涼は医学部の大学生とつき合っている』。そんな落書きを机に書いておけば、意外なほどよく広まる。やがて誰かがことの真相を尋ねにくるけれど、わたしは「ごめんなさい。それはプライベートなことだから」「想像に任せるわ」と答えを曖昧にして反応を楽しむ。だけど、見ていればわかる。それはある意味ではとても『槙坂涼』らしい答えで、イエス・ノーをはっきりさせるよりも望まれているのだと。 彼も同じなのだろう。 他にもいくつかあったけど、そのうちのひとつ――4階の語学教室の窓の外側につけられた小人だか宇宙人だかの足跡を、試しに発覚前に消してみたことがある。だけど彼は特にそれを不思議と思う素振りもなく、改めて仕掛けることもなかった。成功に固執はしないらしい。 「ねぇ、あの足跡ってどうやってつけるの?」 ずいぶん後になって、わたしは藤間くんに聞いてみた。彼のマンションで食事をしているときだった。 「ああ、あれ? あれは拳を握ってそれをこうやって――」 藤間くんは握り拳の小指側を、朝食が並べられたテーブルの上にゆっくりとスタンプするように置いた。 「後はその上に2つか3つ、親指で点をつけてやればできあがり。チョークの粉でもつけるか、埃の積もったところででもどうぞというところさ」 「なるほど。確かにそういうかたちになるわ」 わたしも同じようにやってみて、完成形をイメージしてみた。 「勘違いしないでくれよ。だからといって語学教室の件が僕の仕業だと言ってるわけじゃない」 彼はこの手の悪事に関しては、絶対に認める発言をしない。 さらに美沙希に聞いたところ、「あれな、中学んとき真と一緒に3階のぜんぶの教室につけてやった。次の日、学校中が大騒ぎになったな」と笑って言っていた。 彼女は彼女で悪びれた素振りもないのだから質が悪い。 早いもので気がつけばわたしも3年生に進級していた。 そしてまた半年に一回のイベント、今期の時間割りを決めるときがきた。その期間中――履修届提出の締め切りまでまだ十分に余裕のあるある日のこと、 「あ、あの、槙坂さん」 車椅子の唯子と一緒に歩いていたわたしに声をかけてきたのは、同じ授業のときに時々言葉を交わす程度の女子生徒ふたり組だった。その程度だから教室ではないこの場では、勇気を出して話しかけてきたふうだった。 「前期は芸術科目を中心に取るって聞いたんだけど本当?」 瞬間、わたしはこの発言が生まれるまでの経緯について考えを巡らせる。 『聞いた』。つまりは伝聞。けれど、わたしは芸術科目なんて取るつもりはないし、そもそも自分が何を履修しようと思っているか誰にも話していない。ということは、これは嘘の情報だ。 どうやら嘘の情報が出回っているらしい。 思えば昨年度の前期からこの手の出所不明の怪情報が行き交っていたように思う。人を惑わずデマゴギー。……なるほど。今度はこれなのね。 『槙坂涼』は微笑む。 「さぁ、どうしようかしら。まだ決めてないの。あけてみてのお楽しみね」 「えぇー」 そんなひらりとかわすような返事に、彼女たちはユニゾンで不満とも歓声ともつかない声を上げた。 「また一緒の授業があるといいわね」 そう言ってふたりと手を振りながら別れる。 と。 「さっきの話、本当なの? あたしは演習科目と情報系だって聞いたけど?」 唯子がこちらを見上げながら訊いてきた。 そういう説も流れているらしい。こうやってみんなが振り回されているのを横目で見て、あのコは楽しんでいるのだろうか。 「どうかしら? 唯子の想像に任せるわ」 「涼さんはすぐそうやってはぐらかす」 唯子は怒ったような素振りもなく、むしろ笑う。 偽情報はこのままほうっておこうと思う。これからも彼女たちのようにある程度親しい生徒が、噂の真偽を確かめにくるだろうから。きっといろんな反応を見せてくれるに違いない。 利害の一致。 わたしの中の退屈という怪物を押し潰すピストルとして利用させてもらおう。 そうしてあの日がきた――。 藤間くんが一緒の授業のとき、わたしが教室に入ってまず最初にすることは彼を見つけること。そのときも教室中央の扉から入り、仲のいい友達と話しながら、横目で彼の姿を認めた。いつもの席に座り、本から顔を上げてこちらを見ている。いつもそう。冷めた様子で、シニカルなくせに誰よりもよくわたしを見ている。 わたしは大教室を前後に二分する大きな通路を通って席へと向かう。彼の目の前を横切る軌道。 定点と動点の最接近。 そこで彼の声が耳に入った。 「よって、僕はあの人に興味はないね」 結論するような口調の言葉。 きっと後になって彼は自分の迂闊さを呪ったに違いない。 そして、わたしも迂闊だった。 わたしは思わず目だけで彼を見、ほんの刹那、彼と視線が交錯した。 すぐに目を逸らす。 だけど、もう遅かった。すでにわたしの心には決意が芽生えていた。忘れたの、藤間くん? 去年、あなたはわたしに興味をもって声をかけてきたんだよ? そう、忘れたのね。だったら思い出させてあげる。 そのとき、わたしはこの一年間我慢したのが不思議なほど、彼を知りたいと思った。 その女、小悪魔につき――。 2011年08月31日公開 |
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