and She said... (2) わたしはすぐに藤間くんに近づくことを決めた。 でも、普通に「こんにちは」と声をかけるのはダメ。彼にはきっと『槙坂涼』のブランドは通用しない。もっと一瞬で惹きつけるような方法じゃないと。 学生食堂で偶然に目当ての人物を見つけ、わたしは一緒にいた友達に「ちょっとごめんなさい」と断ると、彼女に近づいていった。 「古河さん、少しいい?」 「あン?」 自販機に向かい、何を買おうか考えていたらしい彼女は、わたしの声で振り返った。 古河美沙希(こが・みさき)さん。 きれいなアーモンドのかたちをした目と、男っぽいウルフカットが特徴的な――そして、後にわたしの親友となる女の子だ。 「槙坂か。アタシみたいなのに何の用?」 「頼みたいことがあるの」 「ふうん」 彼女は興味深げににわたしを眺めると、 「いいよ。あっちで話そうか」 そうしてからわたしたちは、それぞれ飲みものを買ってから食堂の隅の席に移った。 さっそく古河さんは切り出してくる。 「それで、槙坂ともあろうものが何を知りたいんだ?」 「え、ええ」 少し緊張する。 彼女に頼みごとをするためには藤間くんの名前を出さなくてはいけない。わたしの口から男子生徒の名前が出ることに古河さんはどう思うだろう。 「2年生の藤間くんっていう子のことなんだけど」 瞬間、ぐふっ、と喉を詰まらせ、飲んでいる最中だったコーヒーで咽た。 そして、「し……」と、何かを言いかけてそれを飲み込み(し?)、改めて口を開く。 「……藤間?」 「ええ」 と、答えておいてから――彼のことをすでに知っているふうな古河さんの口振りが気になった。 「ねぇ、もしかして藤間くんって、実は有名だったりする?」 「いや、そんなことないと思うぞ」 「そ、そうよね」 わたしはほっと胸を撫で下ろした。 よかった。本当はわたしが知らないだけで密かに人気があったりするのかと心配したけど、彼女がそう言うならそうなのだろう。彼が本当は女の子なら誰もがほうっておかない男の子だということは、わたしだけが気づいたわたしだけの秘密にしておきたい。 「本題に入ろうぜ。あいつの何が知りたいんだ?」 古河さんがまるでマフィアの取り引きのようにこう聞いてくるのにはわけがある。彼女は一部では有名な"情報屋"なのだという。頼めばこっそり知りたい情報を調べてくれるという話だ。 「彼の――藤間くんの電話番号なんだけど」 「電話番号?」 彼女はわずかに目を丸くしてから、「うーん……」と考え込みはじめた。 「やっぱり難しいかしら?」 「いんにゃ。そういうんじゃなくて、もっと別ンとこに問題が……。いや、ま、いっか。いいよ」 「本当? 助かるわ」 どうやら彼女が何でも調べてくれるというのは本当らしい。 喜ぶわたしの前で、古河さんは取り出したスマートフォンを操作する。 「何か書くものある? メモとか紙とかのほう」 「ええ」 わたしは言われるままブレザーのポケットから、掌ほどの小さなメモ帳を取り出した。古河さんはそこから一枚切り離すと、ポケットに裸で突っ込んでいたらしいボールペンで何やら書きはじめ――それが終わると、人差し指と中指ではさんでこちらに差し出してきた。 「ほら」 「えっ? これって……」 「そ。ご所望のものだよ」 確かに紙には携帯電話の番号らしき11個の数字が並んでいる。てっきりこれから調べるのだと思っていた。つまり……。 「あなた、藤間くんの電話番号を知っていたの?」 「チョイと別件でね」 別件? 前に誰かが同じ依頼をしたということ? 「んで、それ何に使うんだ?」 「え? それは……」 古河さんの問いに我に返り、口ごもる。 勿論、電話番号なんて電話をかける以外の使い道はない。そう、わたしは彼と接触するためのツールとして電話を選んだ。『槙坂涼』からのいきなりの電話に、彼はきっと驚くに違いない。 「ま、いいか」 しかし、彼女はあっさりと追求の手を引っ込めた。 「ところで、いちおー情報提供料をもらうことになってんだけど。日本銀行券以外の、商品券とかそんな感じのンでさ」 「そうね……」 財布の中に今何が入っているかを思い出してみる。 「今は使いかけの図書カードくらいしかないわ。ごめんなさい、明日必ず――」 「ああ、それでいいよ」 「え、でも」 確かもう残高はあまり残っていなかったはず。財布から抜き出して見てみれば案の定。 「やっぱり。190円しか残っていないわよ?」 「じゅーぶんじゅーぶん」 笑って言いながら、古河さんはわたしの手から文庫本の一冊も買えない図書カードをすっと引き抜いた。 「どうやらこれから面白いものが見れそうだしな。それでチャラにしとくよ」 「え、それはどういう……?」 「おっと、それはこっちの話。じゃあな」 そうして情報提供料としてもらったそれを指ではさんだままひらひら振って、テーブルを離れていった。 「……」 最後のひと言が気になるところだけれど、わたしの望むものを手に入れたことは確かだ。 ずいぶんと簡単に、安く手に入ったものだけど。 「ゼロ・ハチ・ゼロ、の……」 わたしは部屋の勉強机に両肘を突き、メモを目の高さに合わせて、そこに書いてある数字を口に出して読む。本当はメモなどなくてもそらで唱えられる。今日一日、人の目を盗むようにしながらずっとこれを眺めて過ごしていたので、すっかり覚えてしまった。 ――結局、その日は電話をかけなかった。 これは魔法の道具。 三角をふたつ重ねて丸で囲んで……じゃないけれど、これを使えば藤間くんにつながる。きっと最初の一回は特別なものになるに違いない。だから、勿体なくてまだ使っていない。 そこでふと思った。今は夜。今電話をかければ、もしかしたら彼とゆっくり話ができるかもしれない。友達同士が――あるいは恋人同士が楽しくおしゃべりするように。 でも、わたしはそれをすぐに否定した。 これは大きなインパクトをもって藤間くんに接触するためのツール。彼と再会するためのステージはここじゃない。 本番は明日だ。 ところが、翌日。 中庭の木の下で電話をかけてみたら、期待に反して彼は出てくれなかった。知らない番号からの電話には出ない主義のよう。警戒心が強いのか、それとも面倒なことが嫌いなのか。 どちらにしても"突然の電話"作戦は失敗してしまった。 「さぁて、次はどうしようかしら?」 わたしは端末を折りたたみ、つぶやく。 どうしてだろう。まるで絶好のコンディションのときに得意科目の難問に挑んでいるみたいに楽しかった。 そして――。 今、わたしの手の中には彼の携帯電話があった。 勿論、無断借用してきたものだ。 これにわたしのアドレスを転送する。これで電話をかけてもわたしの名前が表示されることになり、正体不明でない相手なら藤間くんも応じるはずだ。後はこれを落しものとして学務課に届けて、彼に返すだけ。 途中、階段の踊り場で、気まぐれに彼の端末のカメラ機能を使って自画撮りしてみた。撮れた写真を見てみれば、そこには自分でも驚くほどの笑顔の――まるでいたずらが成功した子どものように笑うわたしがいた。 いつも大人びた微笑を浮かべている『槙坂涼』も、こんな笑い方ができるらしい。 そう、これは最初にこれを見るであろう彼に向けられた笑顔だ。 『2年の藤間真さん。お伝えしたいことがありますので、学務課までお越しください。繰り返します――』 その放送が流れたのは昼休みになってすぐのこと。 いつもならさっきまでの授業を一緒に受けていた子たちと学生食堂にいくのだけど、 「ごめんなさい。今から人と約束があるの。たぶんお昼もその子と食べることになると思うから」 「あ、そうなんだ。じゃあ、また今度ね」 手を振って彼女たちと別れる。 わたしはゆっくりテキスト類をまとめてから教室を出た。頃合いを見計らい、また中庭の木の下で彼に電話をかけた。 『……もしもし』 警戒の色の濃い彼の声。 当然だろう。落として返ってきた自分の携帯電話のメモリィに、入れた覚えのないアドレスが入っていたのだから。だけどこれでようやく彼をステージに引っ張り出すことができる。 「よかった。今度はちゃんと出てくれたのね」 『……聞きたいことがあるのですが』 案の定、彼は喰いついてきた。 こうしてついにわたしは彼と再会を果たすことができた。 彼は思った通りの子だった。 頭の回転が速くて――。 『槙坂涼』の前でも動じなくて――。 去年の春に見せた人懐っこい笑顔などどこにもなくて――。 笑顔の仮面を脱いでもまだ韜晦してばかりで――。 すぐにわたしはそんな彼に興味以上のものを抱いた。 『わたしとつき合ってみる気はない?』 『ないね』 いや――、 まったくと言っていいほど思い通りにならない辺り、思った以上かもしれない。 嬉しい誤算。 わたしはまた難題を差し出され、わくわくしている。 彼との会話はとても刺激的だった。 思えば『槙坂涼』は会話をしていなかった。求められるのはいつも「その通りね」と頷いて同意するだけの聞き役か、皆を同意させる鶴のひと声。けれど彼は違っていた。年下のくせに敬語も使わない生意気な子だけど、同じ目線で話をしてくれた。 それに――わたしの周りで彼ほど知的な子もいなかった。 例えば、ある日のこと。 午前の授業が終わって昼休みに入り、お昼を一緒に食べようと藤間くんに電話をかけてみた。 『悪い。調べたいことがあって図書室に行く。他をあたってくれ』 あっさりと切られてしまった。 「もう。ぜんぜん懐かない猫みたいな子」 『槙坂涼』のお誘いを断るのは、きっと彼くらいのものだろう。でも、怒るよりも先に口もとが緩んでしまう。 藤間くんが何を調べているのか気になり、わたしも食堂ではなく図書室へと足を向けた。 図書室へ入って見回してみれば、彼は一般資料の書架ではなく参考図書のコーナーの大型本架のところにいた。 大型本架は百科事典のような大きくて重い本を収める書架で、高さは1メートル強。上下に2段しかない。このように低く作られているのは重い本を高い場所から取り出す危険の回避と、閲覧席まで持っていかなくてもその場で読めるようにするため。よいものになると天板の部分に角度がついていて閲覧台になっている――というのは彼からの受け売りだ。 藤間くんは大型本架を正しくその通りの使い方をしていた。どうやら百科事典を見ているらしかった。 「何を調べてるの?」 横から声をかけると、彼は事典に目を落としたままわずかに意識だけをこちらに向け、答えた。 「ケッヘル番号。さっき読んでいた本にそういう単語があったんだ。本筋に関係ないものだから説明もなくさらっと流されていてね。気になったんだ」 「ケッヘル番号? それなら――」 幸いわたしはそれを知っていたのでおしえてあげようとしたら、彼はそれを手で制した。 「いい。自分で調べる」 「そう」 それなら邪魔はしないでおこう。 ふと見れば脇には使い込まれたふうのメモ帳が置いてあって、そこには『ケッヘル番号とは何か?』と書かれていた。 「せっかくだから問題を追加してあげましょうか?」 「うん?」 藤間くんがようやく顔を上げた。端整でちょっと薄情そうな相貌がこちらを向く。 「ケッヘル番号K.525が指しているものは何でしょう?」 「……」 彼の目がわずかに知的好奇心に光り、 「わかった。それも調べてみよう」 そう言うと先ほどのメモに一文を書き加えた。『また、K.525は何を指すか?』。どうやら調べる問題は単語ではなく文章で表すことにしているらしい。 藤間くんは再び百科事典に目を戻した。 その目と横顔は真剣そのもので、なかなかヤラレてしまいそうな感じだった。 「世界大百科事典に『ケッヘル番号』の項目はなし。ただし『ケッヘル』の項目がある。ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル……『<ケッヘル番号>で名を残したモーツァルト研究家』、か」 そこで一旦、調べた資料の名前やわかったことをメモにまとめ、百科事典を書架に戻した。 大型本架を離れ、次へ向かう。わたしも後をついていこうとすると、彼は不満そうにこちらを見た。「ついてくるのか」と言いたげな目。 「おかまいなく」 「……あなたがそばにいて平気な、そんな豪胆なやつがいたら見てみたいね」 と、踵を返して向かった先は、同じく参考図書のコーナーの芸術分野の書架だった。まずは『音楽用語事典』を手に取ってページをめくり、先ほどと同じように資料の名前とわかったことをメモ。次に『モーツァルト全作品事典』を取り出して、またも調査結果を書き留めた。 そうして藤間くんは改めてわたしに向き直る。 「K.525は、アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 「ええ、その通りよ。正解」 よくできました。 ケッヘル番号は、モーツァルト研究家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが、膨大な量のモーツァルトの作品を時系列的に整理して、付与した番号のこと。K.xやKV.xで表される。その中でK.525は、あの有名なアイネ・クライネ・ナハトムジークに振られた番号だ。 「ご褒美は何がいい? デートにでも行く?」 「……それはいったい何の罰ゲームだ」 「失礼ね」 さすがにこれには頬を膨らませる。 と、そこで藤間くんは何やら迷う様子を見せてから、 「僕はこれから学食に行くけど、どうする?」 「……」 わたしは思わずため息。 一緒に行くに決まってるでしょ。もっと素直に誘いなさい、天邪鬼さん。 「さっきみたいなことはよくするの?」 ピークを過ぎた学生食堂で、わたしたちは向かい合って昼食をとる。わたしはいつもの通りお弁当を、藤間くんは今日はカツカレーだった。 「まぁね。昔からわからないことがあると自分で調べないと気がすまない質なんだ」 道理で調べ慣れていると思った。 「特に百科事典は知識の宝庫さ」 後になってわたしは、彼の寝室で扉つきの書架に収められた日本大百科全書と世界大百科事典を見つけている。少し乱雑に並んでいる様が、よくそれを使っていることを示しているようだった。 「百科事典は革命だって起こすよ」 「どういうこと? 興味があるわ」 百科事典が革命を起こす? 「じゃあ、かいつまんで話そうか」 そう言うと藤間くんはカレーと一緒にトレイに乗っていた水を飲んだ。わたしも食べる手を休める。 「ことの発端は1746年、先に完成していたイギリスの百科事典に触発されるかたちで、フランスの出版業者ル・ブルトンが思想家で作家のディドロにフランス百科全書の作成を依頼したんだ。編集・編纂にあたって執筆者の対立や当局からの出版弾圧があったが、その辺りは端折るとして――完成した百科全書は1751年から20年以上もかけて順次刊行されていった。書式は、今では珍しい大項目主義。各項目にはヴォルテールやモンテスキュー、ルソーといった、僕たちもよく知る思想家も寄稿している。知の集大成を目指したそれには当時の最先端の科学技術や絶対王政以外の政治形態、キリスト教以外の宗教についても触れられていた。つまり百科全書というのはある種の学術雑誌でもあり、啓蒙書でもあったわけだ。そして、1789年――」 「フランス革命ね」 「そう。ルソーら思想家が説いた社会契約論に影響を受けた知識人や、それに共感した市民により革命が勃発する。かくして王政と旧体制は倒され、フランスに民主主義の土台が築かれることとなった。この革命に発行部数4250部の百科全書が少なからず貢献していたと考えるのは、それほどむりがある話でもないと僕は思うね」 「それで"百科事典が革命を起こす”なのね?」 「そういうこと」 そう話を締めくくると、藤間くんは食事を再開した。 こんなふうに時折さらりと見せる彼の教養に、わたしは大きな魅力を感じる。周りにはいないタイプだ。 不意に彼の動きが鈍くなり――顔を上げた。何やら複雑な表情をしている。 「そうじっと見られると食べにくいんだが」 「あ、ごめんなさい」 気がついたらわたしは彼を見つめていた。 「何か言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」 「素敵、抱いて」 「断る」 相変わらずの即答。 「あのね藤間くん、少しは考えましょうね。というか、この場合飛びつくべきじゃないかしら?」 「考える? 何を?」 彼はわざとらしく驚き、いちいち言葉を区切る。 「あなただってアルカンの名前くらい考えずに暗唱できるだろう?」 「メタン、エタン、プロパン、ブタン……。ええ、確かにそうね。そう。わたしの女の子としての価値は、それくらい考える必要がないということなのね」 わたしはにっこり笑い、彼も不敵な笑みでそれを受けた。 ちょうど近くを通りかかった生徒が、見つめ合って笑うわたしたちを二度見した後、これを見なかったことにして早足で遠ざかっていった。 その女、小悪魔につき――。 2011年10月06日公開 |
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