and She said... (3)
 
 藤間くんには仲のいい女の子がふたりほどいるようだった。
 どちらも本人から直接聞いた。
 ひとりは今年度に入って急に一緒にいる場面をよく見かけるようになった。それもそのはず、彼女は一年生で、名前は三枝小枝(さえぐさ・さえだ)さん。小枝と書いて『さえだ』と読むのだという。藤間くんがよくちょっかいを出しては蹴られている。
 もうひとりは、なんとあの古河美沙希(こが・みさき)さんだった。
 思い返せば何度かふたりが言葉を交わしている場面を見たような覚えがあるけど、古河さんがああいうフレンドリィな性格で誰にでも同じようにしているせいか、気にも留めていなかった。まさか同じ中学の先輩後輩だったとは。藤間くんははっきりとは言わなかったけど、どうも彼は古河さんを追ってこの明慧大附属にきた節がある。
 どちらとも特別な関係ではないと否定していたけど、知ってしまうと気になって仕方がなかった。
 
 幸いふたりとはすぐに、しかも、同じ日に話す機会が巡ってきた。
 
 
 ある日のある授業、そこにあるはずの藤間くんの姿がなかった。
 いつも彼は休み時間の中ごろには教室に入っている。けれど、今日はもう間もなく始業のチャイムが鳴ろうとしているのに、未だに姿を見せていなかった。珍しいと思いつつ不安を覚える。やがて本当にチャイムが鳴り、先生がやってくるまでわたしは彼のことを気にしていたが、結局、藤間くんは現れなかった。
 授業がはじまった。
 わたしも彼も、座る場所はだいたいいつも同じ。わたしは前のほうで、彼は真ん中よりも少し後ろ。おかげで途中入室してきたとしてもわからない。もしかしたら遅刻してきて今ごろは空いている手近な席に座っているかもしれない――そう思うと授業中何度も後ろを振り返りたい衝動に駆られた。
 長い長い授業が終わる。
 改めて教室を見回してみるけど、やっぱり彼の姿はなかった。何かあったのだろうか。思い切って彼の友達だという子たちに聞いてみようと思ったとき、わたしの視界にとある女の子が映った。
 三枝さんだ。
 藤間くんが気に入っている、かわいがっているとはっきり言った子。
 いい機会だし、ちょうど口実もあるので、わたしは彼女に声をかけてみることにした。
「ちょっといい? 三枝さん、よね?」
 後ろから近づくようなかたちで声をかけると、三枝さんはテキスト類をまとめる手を止めて振り返った。
「うわ、槙坂さんだっ」
 わたしの顔を見るなり驚いてイスから飛び上がり、体ごと向き直った。
 間近で見る彼女は、ショートの髪を耳の上辺りでヘアピンで留めた、ちょっとおでこちゃんで愛らしい子だった。容姿も仕種も小動物を思わせる。藤間くんがこの子を気に入る気持ちもわからなくない。
「驚かせてしまってごめんなさい。藤間くんのことを聞きたいと思ってきたの」
「え、真?」
 真? 呼び捨て?
「ええ。藤間くん、この授業に出てなかったみたいなんだけど、あなた何か聞いてない?」
「真だったら今日は風邪で休んでますよ。朝、電話がありましたから」
「風邪?」
 わたしが繰り返すと、「はい」と三枝さんはうなずいた。
 ふとあることを思い出す。
「ねぇ、確か彼、ひとり暮らしって言ってなかった?」
「あ、そういえばそうですね。今ごろひとりでうんうん唸ってるかもしれませんね」
 などと笑っているけど、ぜんぜん笑いごとじゃない気がする。そんな心配がわたしの顔にも出ていたらしい。
「嘘です。大丈夫だと思いますよ。電話の声を聞いた限りじゃ、そこまで辛そうじゃなかったし」
「そう」
 それでも気がかりなことには変わりない。
「気になるんだったら、お見舞いにいってみたらいいんじゃないですか?」
「……」
 じっとわたしを見る三枝さん。その視線がこちらの心の内を探るようであり、挑戦的にも感じたのは気のせいではないだろうと思う。
「そう、ね。でも、やめておくわ」
 なぜだかそう答えていた。
 この子に遠慮したのかもしれないし、自分から心の中を見せるようなことはしたくなかったのかもしれない。
 本当はもうどうするか決めていたのに。
 
「古河さん」
 昼休み、わたしは学生食堂へ向かう古河美沙希さんを見かけ、声をかけた。
「おう、槙坂か」
「今いい?」
 わたしも彼女も、一緒にいた友達から離れ、ふたりで歩き出す。
「あなた、藤間くんと知り合いだったのね」
「おっと、もうバレたか」
 古河さんは悪ガキのように苦笑いした。
 種がわかってしまえば、彼女が藤間くんの存在や電話番号を知っていたのも納得できる。
「そ。真のやつとは同じ中学の先輩と後輩。ま、言わばアタシの舎弟だな。よく一緒にいろんなことやらかしながら遊び回ってたよ」
「ふうん」
 努めてフラットに返事をする。それはそれで気になるところだけど、今は後回し。
「その藤間くん、今日は風邪で休んでるわ」
「ああ、そうらしいな。朝サエから聞いた」
 サエ? 一瞬、誰だろうと首を傾げたけど、すぐに三枝さんのことだと思い至った。
「お見舞いに行こうと思うの。あの子ひとり暮らしでしょ? 困ってるんじゃないかしら」
「それでアタシにあいつがどこに住んでるか聞きにきたってわけだ」
 古河さんはすぐにこちらの意図を察し、そう言い当てる。
「住所、ね。うーん……」
 何やら考え込む彼女。
 わたしたちの足は学務棟前の掲示板へと向かっていた。そこで新しい連絡事項や休講がないかを確認する。今は特になし。
 そうしながら隣で同じように掲示板に目を向けていた古河さんに重ねて訊く。
「やっぱり個人情報はダメかしら?」
 聞くところによると、彼女は知る人ぞ知る情報屋だけど、高度な個人情報は扱わない主義なのだという。前に藤間くんの電話番号をおしえてくれたのは、古河さんが彼と仲がよかった上に、その状況を面白がっての特例中の特例だったらしい。
「それもあるけど、真から言われてんだよな。槙坂には絶対におしえるなって」
「……」
 まったく、あの子は……。
「心配なのか?」
「……え、ええ」
 今一瞬もうどうでもいいかと思いかけたけど。
「しゃーない。んじゃ、アタシが行くか」
「そうね。それしかないわね」
 自分で行きたいところだけど、住んでいる場所がわからないのではどうしようもない。本当は藤間くんと古河さんが彼の家でふたりっきりというのも抵抗があった。でも、病気の彼がひとりきりよりはマシだ。それにふたりは何年も前から知り合いなのだから、今さらという気もする。
 再び食堂方面に歩を進めた。
「じゃあ、藤間くんの様子がわかったらおしえてくれる?」
「あン? なに言ってんだ? 槙坂も行くんだよ」
「え?」
「アタシが真のところに行く。槙坂は勝手にこっそりついてくる。アタシは別に何かをおしえたわけじゃないから、ま、これで義理は果たしてんだろ。頭いいな、アタシは。オンナ一休さんと呼んでくれ」
「……」
 いいのだろうか、そんなことで。
 
 放課後、掲示板前で古河さんと待ち合わせして、さっそく藤間くんの家に向かうことに。
「んじゃ、行くか」
「ちょっと待って。確かわたしがあなたに勝手についていくのよね?」
 どう見ても肩を並べて一緒に歩き出す流れだ。
「あいつが見てるわけでもないのに、そこまでかたちに拘ったって仕方ないだろ。メンドくさいやつだな」
「……」
 オンナ一休さんは細部のディテールは気にしないようだ。いよいよ藤間くんの頼みは聞く気がないらしい。とは言え、おかげでわたしは彼のお見舞いにいけるのだし、感謝しこそすれ文句を言うつもりはない。
 そうして辿り着いたのは明慧の最寄り駅から電車でいくつかいったところの、複数の線が交差する大きなターミナル駅だった。
 ここは一昨年からはじまった再開発で高級志向の商業施設や文化施設がまとめてつくられ、住宅地として人気が高い場所でもある。乗車客もこの辺りでは最多のはずだ。
 ここからバスにでも乗るかと思ったら、どうやら徒歩でいける範囲らしい。
「ねぇ、中学のころの藤間くんってどんな子だったの?」
 道中の雑談がてら聞いてみる。
「真? かわいくないガキだったぞ。いったい何回ブン殴ったか」
「殴ろうと思ったじゃなくて、殴ったのね……」
 どれほどかわいくない子だったのだろう。それとも彼女が単にスパルタだっただけか。そう言えば藤間くんは三枝さんにもよく蹴られている。もしかしてわざと自分からそうされにいっているのだろうか。だとしたら、わたしも隙があれば踏みつけるくらいしたほうがいいのかもしれない。冗談だけど。
「着いた。ここだ」
 5分と歩かなかった。そこはようやく駅周辺の喧騒が遠くなったくらいのところで、
「え?」
 目の前には高級感のあるエントランスを構えたマンションが聳え立っていた。確か駅のホームに降りたときから見えていた超高層のマンションだ。
「ここ、なの?」
「おう」
 あまりに予想外で呆けているわたしを置いて、古河さんは先に進んでいく。慌てて後を追おうとすると、「槙坂はそこでストップ」と止められた。
 エントランスは途中でガラスの壁に阻まれていて、その中央には自動ドアがあった。勿論、前に立てば開くようなものではなく、オートロックのドア。古河さんが脇にあるパネルに指を走らせると、インターホンチャイムが鳴った。
『はい』
 機械を通したその声は、紛れもなく藤間くんのものだった。
「おう、アタシだ。風邪ひいたんだって? サエから聞いた。見舞いにきたから開けてくれ」
 そう言うと彼女は斜め上に顔を向ける。わたしもつられてそちらに目をやると、そこにはカメラが備えつけられていた。マンションの住人が来訪者の顔を確認するためのカメラのようだ。なるほど、わたしをここで待たせたのは、カメラに映らせないようにするためだったらしい。
『少し待ってください。……どうぞ』
 音もなくドアが開いた。
 中に這入ると、ふたつのシャンデリアがエントランス全体を照らしていた。光量は少なめだけど、暗いというよりは上品で神秘的な印象を受けた。床は大理石。閉じた空間だけあって、学校指定のローファーでも足音がよく響いた。わたしが毎日履いていた靴はこんなにもいい音が出せたのかと少し驚く。
 2基あるエレベータのうち1基は地上階にあったので、ボタンを押すとすぐに開いた。
 行き先階は28階。寄り道もせずにそこまで一気に向かっているはずなのに、こんなに長くエレベータに乗っていたのは初めてだった。
「中に入ったらもっと驚くぞ」
「え、ええ……」
 さっきからひと言も声を出せないでいるわたしを見て、古河さんはそんなことを言った。わたしはそれだけを返すのがやっとだった。
 エレベータを降りて、また驚いた。足が沈み込む。床に絨毯が敷かれていたのだ。ここに入って以降、遊園地のホラーハウスよりも驚きっぱなしだ。高級ホテルと見まがうばかりの廊下に制服姿の女子高生は場違いな気がして仕方なかった。
 やがてひとつのドアの前に辿り着き、古河さんは迷わずドアチャイムを鳴らした。
「はーい」
 ドアの向こうから藤間くんの声。間をおかず出てきた彼を見て、わたしは思わず頬が緩んだ。濃紺のパジャマ姿だったのだ。
 
「パジャマの藤間くんもかわいいわね」
 
 それを口にした直後、ドアが閉まった。鍵が下ろされ、ドアチェーンをかける音まで聞こえた。……なぜ?
「なんで閉めんだ。開けろ、真」
「すみません、先に着替えたいのですが。僕の予想が正しければ、その必要があるかと」
「待てるか、バカ。開けねーなら壊す。そして、その後お前も壊す」
 そんなやり取りの後、ようやく部屋に上がった。
 トイレやバスルームと思われるドアが並んだ短い廊下を抜けると、そこには畳に換算して20畳はありそうなフローリングのリビングが広がっていた。脇にはカウンターダイニングとキッチン。2面ある壁には他の部屋へ続くドアがふたつとひとつで、間取りは3LDKのよう。ひとり暮らしの高校生には不釣合いな豪壮さ。彼はいったいどういう家柄の子なのだろう。
 呆気にとられるわたしを見て、古河さんが「な、すごいだろ」と言っていた。
 その後、お昼を抜いたという藤間くんのために食事を作り――そして、わたしは今日、ここに泊まることになった。
 
 藤間くんに怒られてまでわたしがそうしたいと強く主張したのは、当然、病気の彼を心配してのことだった。
 だけど、同時に古河さんへの嫉妬心があったのも確かだ。
 彼女の勝手知ったる他人の家と言わんばかりの様子は、過去に何度もここにきていることを如実に示していて、それが悔しかった。
 
 彼は少し眠ると言って寝室へと入った。
 その間にわたしもエネルギィの補給をしておこうと思う。キッチンのものは自由に使っていいと言ってくれているので、パスタと生野菜のサラダを作って簡単な食事にした。
 それからお風呂の用意をする。
 バスタブにお湯を溜め、その間、言われた通りに脱衣所の戸棚を見てみれば、そこに新品のタオルとトラベルセットがあった。トラベルセットは男性用と女性用がそれぞれふたつずつ。
「……いつでも女の子を泊められるように、じゃないでしょうね」
 勝手な想像をして勝手に頬をふくらませる。
 次に家へ電話。
 母に友達の家に泊まると告げると、特に心配も咎められもしなかった。信用されているといえば聞こえはいいけど……。思わず苦笑。男の子の家だと言ったらどんな反応を示すのだろうか。
 程なくお湯が満たされ――家にいるときよりも早い時間だけど、お風呂に入った。楽に足が伸ばせるほど広いバスタブで湯船に浸かり、ふとそれを口にする。
 
「不思議。ひとり暮らしの男の子の家でお風呂に入ってる……」
 
「……」
 足を引き寄せ、両膝を抱える。
 顔が熱い。あまり考えすぎて気持ちがのぼせてしまわないうちに上がろう。
 お風呂から上がってまた同じものを着るのは抵抗があったけど、朝には家に帰るのでそれまでのことと思って我慢することにした。次にくるときはもっといろんな用意をしてこようと思う。
 リビングに戻り、ホームシアターかと思うような大きな壁掛けの薄型テレビを点ける。ボリュームを絞ったのは寝室で藤間くんが寝ていることもあるけど、考えごとをしたいのもあった。
 そう、考えごと。
 実は藤間くんと積極的に関わるようになってから、わたしの心に引っかかっていることがある。
 
 わたしは去年の春よりももっと前に、彼と会っているかもしれない――。
 
 かろうじて耳に届くくらいのテレビの声を、さらに右から左に流しながら考える。
 いつ?
 どこで?
 思い出そうとしても思い出せない。
 最初は気のせいかとも思ったけど、日に日にその思いは強くなって、今では確信に変わっている。わたしと彼は絶対にどこかで会っている。
 去年の春のこと、藤間くんが忘れているなら思い出させてあげる。わたしもちゃんと覚えていることを思い知らせてあげる――そう思って彼に近づいたのに、わたしのほうが埋もれている記憶に気づくことになるとは思いもよらなかった。
 彼との本当の出会い。
 わたしたちはいつどこで出会ったのだろう。早く思い出したかった。
 
 ドア一枚隔てた電話での会話から2時間ほどが経って、藤間くんが起きてきた。
 力の入っていない、ふらふらした足取りでリビングに出てきて、
「うわっ」
 わたしの顔を見るや、また引っ込んでしまった。
「ちょっと藤間くん、どうして隠れるの?」
 何かとてつもなく失礼な態度を見せられた気がする。少しの間があって、覚悟を決めたような様子で再度出てくる。
「いや、うっかり先輩がきてるのを忘れてたんだ。正直、着替えたい気分だ」
 そういう彼はさっき一瞬だけ見たときに比べて、乱れていたパジャマも跳ねていた髪も心なしか整えられていた。ドアの向こうで慌てて直したのだろう。
 藤間くんが向かいのソファに腰を下ろした。
「いいじゃない。かわいいわよ」
「……くそ、制服に着替えてくる」
 そして、またすぐに立ち上がった。
「今から制服を着てどうするつもり。ごめんなさい。ちょっとからかいすぎたわ」
 そう謝って彼を座らせ、入れ違いにわたしが立った。パジャマ姿がかわいいのと、その格好で不貞腐れたように肘掛けに肘を突いているのを見ていると、またからかいたくなりそうだった。
「コーヒーでも入れる?」
 さっきキッチンを見たときにコーヒーメーカーもインスタントコーヒーも確認ずみだった。
「遠慮しておく。一日の半分を寝て過ごしたんだ。そんなもの飲んだら夜が寝られなくなりそうだ」
「そのときは朝までつき合うわよ。お話しでもそれ以外でも」
「そっちも遠慮」
 それは残念。
「冷蔵庫にスポーツドリンクがあるはずだから、それを」
「わかったわ」
 言われた通り冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、戸棚から出してきたグラスに注いだ。コースターも一緒にリビングにもっていき、彼の前に置く。
「どうぞ。……わたしも烏龍茶をもらうわね」
 もう一度キッチンに戻り、今度は自分のための烏龍茶を用意した。
「まるで我が家だな」
「機能的なキッチンほど合理的に最適化されてるものよ。少し見ただけでものの配置はだいたいわかるわ」
 特にこういう高級マンションだと、最初から使いやすさを追求しているのでわかりやすい。
「具合はどう?」
 彼と向かい合って座り、尋ねる。
「おかげさまでずいぶんよくなった。明日には学校にいけると思う」
「むりはしないほうがいいわ。わたしのことは気にしないで。あなたが治るまで何日でも通うから」
「そんなこと言われたら這ってでも行きたくなる」
 この子の天邪鬼は少々の風邪も関係ないらしい。
 馬鹿な言い合いはここまでで、藤間くんの瞼が硬いこともあって、この後しばらくはふたりで他愛もない話をしていた。
 
「ねぇ、気になっているんだけど。あれは何?」
 わたしが視線で示したのは、リビングの壁にかけてある額だった。
 中には紙が一枚。英字新聞の見出しに使われるようなフォントのアルファベットらしき文字が並び、原色が多く使われた絵も添えられていた。古い本のように見える。
「ああ、それは装飾写本の1ページだ」
 わたしの印象は正しかったらしい。
「たまたま手に入れたんだ」
「どういうものなの?」
「要するに、まだ印刷技術が安定的に確立されていなかった時代、よい書物を広めるために手書きで複製したものだと考えればいい」
 そう言いながら藤間くんは額を壁から外し、わたしに手渡した。
「読めないわ。何が書かれてるの?」
「さぁ?」
 と、彼。
「ラテン語だからね。僕だって読めないよ。ただ、写本が盛んだったのは14〜15世紀のキリスト教の世界。当時いちばん多く書き写されたのは聖書だから、たぶんそれもそのうちのひとつだろう。ベテランの写字生がふたりいれば、7日で1冊の聖書を書き写したそうだ」
 少なくとも歴史がひっくり返るようなものではないだろう、と藤間くんは笑う。
「すごいと思わないか? そんな古いものなのに字も絵も未だに鮮やかなままだ。今じゃ電子書籍なんていう質量ゼロの本が溢れ返ってるけど、これはその対極だ。一字一字、一色一色すべてが人の手で紙の上に乗せられていった。その紙だって大量生産できず貴重だっただろう。そう思えばここにあるこの質量は決して軽いものではないし、力そのものだと僕は思うね」
 このときの藤間くんは、知識を披露するときのような淡々とした口調ではなく、もっと情熱的な語り口でとても印象的だった。後に彼は高校を卒業すると同時にアメリカに渡るのだけど、思えばこのときにはすでにその決意を固めつつあったのかもしれない。
 
 やがて時計の針が23時を回るころ。
「本当にそこでいいのか?」
 寝室から来客用らしい毛布を一枚持ってきた藤間くんは、改めてわたしに確認した。
「ええ。さっきも言ったでしょ? わたし案外どこでも寝られるのよ?」
「だからって僕がベッドに寝て、先輩がソファというのもな……」
 でも、お互いの寝場所についてまだ納得していないらしく、毛布をなかなか寄越さない。
「シーツもカバーもぜんぶ取り替えるから、ベッドに寝てくれないか」
「だーめ」
 こちらも梃子でも動かない決意で、さっきからソファに座ったままだ。わたしだって病人をソファに寝かせる趣味はない。彼のこういう口は悪いくせに紳士なところも好きだけど、こればかりは譲れない。
「そんなにわたしをベッドに寝かせたいなら、方法はなくもないわよ?」
「わかった。僕が悪かった。もうソファでも床でも好きなところに寝てくれ。因みに、僕のオススメはあなたの部屋にある使い慣れたベッドだ」
 そう言うと藤間くんはようやく毛布を渡してくれた。が、まだ渋い顔でソファを見ている。
 わたしは「あ」と何かを思い出したように発音し、
「スカートがしわになる困るから脱がないと」
 ダメ押し。
 藤間くんは突風のように寝室に逃げていった。
 
 
 真夜中。
 わたしはぱちりと目を開けた。
 一瞬、なんでこんな時間に目が覚めたのだろうと思ったけど、すぐにここがどこかを理解して納得した。やっぱり人の家で、しかもソファで寝ていると眠りが浅かったようだった。
 ソファから立ち上がり――向かったのは藤間くんの寝室だった。
 ドアのレバーに触れると、それは軽く力を入れるだけで角度を変えた。鍵はかかっていないらしい。
(無用心よ、藤間くん)
 静かにドアを開け、中に這入る。睡眠の妨げにならないように光量を絞り込まれた間接照明のおかげで、中の様子はすぐに把握できた。ダブルベッドと扉付きの書棚、それにライティングデスクがある。
 わたしはゆっくりとベッドに歩み寄った。
 彼が眠っている。穏やかで規則的な寝息で、特に苦しそうな様子はない。ほっと胸を撫で下ろす。夜中になって熱が上がったりはしていないようだ。
 わたしは手を伸ばし、彼の額にかかっていた前髪を払った。その口から「ん……」と悩ましげな声がもれたけど、目を覚ます様子はない。
 彼の寝顔をじっと見る。
 
「ねぇ。初めて会ったときのこと覚えてる?」
 
 気がつけば我知らず問いかけていた。
「わたしはまだ思い出せないの」
 あなたはそれを知っていてわたしに近づいてきたの……?
 
 
 朝になって一緒に朝食を食べた後、わたしは早々に彼の部屋を出てきた。学校に行く前に一度家に帰らないと。着替えもしたいし、鞄の中は昨日の時間割りのままだ。
 早朝のマンションの前で「うーん」と伸びをする。
「朝帰り。気持ちいい」
 新鮮な気分だった。
 ちょうど通りかかったサラリーマンらしき男の人がこちらを見てぎょっとしていたけど、わたしは笑顔で返しておいた。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2011年10月29日公開

 


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