and She said... 最終話(1)
 
『あなた、大丈夫?』
『……ああ、おかまいなく。ちょっとドジっただけなんで』
『そんなわけにはいかないわ。ちょっと待ってて』
 
 
 
 人生初のデートを終えたその日の夜、わたしは自室で携帯電話を眺めていた。
 もっと正確に言えば、見ていたのはそこにつけたストラップ――今日行った遊園地のマスコットキャラがついたベルトストラップだ。端末を目線の高さに持っていってストラップを垂らしてみたり、机の上にまるでカタログの写真のように置いてみたり。
 この深紅のベルトストラップは、藤間くんがわたしに買ってくれたもの。
 彼からのプレゼント。
 代わりに、わたしは彼に黒いストラップを買ってあげた。
 つまり、色違いのおそろい。
 値段が同じだから収支は同じ。自分で自分のものを買ったとも言えるけど、わたしはそう思わない。これはあくまでも藤間くんがわたしのために買ってくれたもの。それ以外の何ものでもない。
「……」
 我ながらずいぶんとロマンチックになったものだ。今までずっと自分はリアリストだと思っていたのに。
 ふと、思い出した。
 そういえば藤間くんの端末に買ったばかりのストラップを取りつけたとき、彼は頑なに中を見られることを嫌がった。あれはなんだったのだろう。
 実は女の子のアドレスがたくさん入っている?
 ありそうななさそうなだけど、それなら操作をしているわたしの手から見られる前に奪い取ればいいだけのこと。データフォルダやメモ機能、スケジューラも同じだ。
 いや、違う。
 
『待ち受けを見られたくない』
 
 そう。彼はそう言っていた。
 でも、以前拝借したときに待ち受け画面を見たけど、確かプリインストールされていたらしい無難な画像だったはず。
 ということは、あれから今日までに変わったことになる。そして、それは彼の態度からして、人には見せたくないもの……。
 例えば、アニメやゲームのキャラクタイラスト?
 確かにそれは見られたくないだろうけど、藤間くんのイメージには合わない気がする。似合わないと自覚しているからこそ、イメージを崩したくないからこそ、見られたくないとも解釈できるけど。
 例えば、もっといやらしいもの?
 そこまでいくともはや常識を疑うレベルだ。それに彼自身も自分の常識と照らし合わせて、そんなことはしないだろう。
 じゃあ、好きな女の子?
 うん、これはありそうだと思った。男の子なのだからそういうことがあってもおかしくない。もしそうだとしたら、それは同じ学年の女の子だろうか。それとも古河さんや三枝さん? あの藤間くんが想いを寄せる女の子の写真をこっそり撮ったり、友達から譲ってもらっているのを想像したら、思わず頬が緩んでくる。
 そう言えば、彼の端末にはわたしの写真も入っているのだった。
 アドレスを転送するついでに、いたずら半分で撮ったもの。藤間くんはあれをどうしただろう? もうとっくに消してしまっただろうか。
 と、考えた瞬間、
「あ、れ……?」
 そのふたつが妙な具合にリンクしてしまった。
 まさか、と思った。
 あの子がそんなことをするわけがない。でも、もしそうだとすれば、わたしに預けることを躊躇ったのもうなずける。わたしにだけは見られたくないだろう。そんなことになればつけ込む隙を与えるのと同じなのだから。
 まさかあれを消さずに……?
「ん、んんっ」
 誰が聞いているわけでもないのに、無意味な咳払いをひとつ。
 これ以上考えないほうがいい。
 あまりにも短絡的な思考。これは論理的な過程を経て導き出した結論ではなく、単なる思いつき以外の何ものでもないのだから。思いつきと閃きは似て非なるもの。
 兎に角、わたしはもう何があっても、絶対に彼の端末を開かない。
 だって、見るなと言われたから。
 だって、もし本当にそれがそこにあったなら、いったいどれほど微妙な空気になるか。彼は消えてしまいたいほど恥ずかしい思いをするだろうし、わたしだって……。
 ふと、机の上の鏡を見た。
 そこにはさっき以上に頬の緩んだわたしの顔が映っていた。それはもう、にやけていると言ってもいいくらいの。
 わたしは静かに鏡を伏せた。
 
 そんなことよりももっと考えないといけないことがある。
 
 今日、ようやくわたしは藤間真という少年との本当の出会いを思い出した。
 やはりあれはわたしが1年生で、藤間くんがまだ中学3年生――つまり、彼が明慧大附属に入学する前のことだった。
 出会いとも呼べないような出会い。
 交わした言葉はひと言ふた言。
 そして、少し目を離した隙にあの子は消えていた。
 問題はそれを彼が覚えているのか、覚えていて明慧に入ってきたのか、だ。――確かめなくてはいけない。
「そろそろ終わりにしましょうか、真」
 
 
 翌、月曜日。
 昨日のデートは楽しかった。でも、せっかくだからもっと楽しまないともったいない。
 朝のうちにいくつかの教室の机に落書きをしておく。
 他愛ないおしゃべりの中で昨日友達と出かけたことに触れておく。
 程なくこのふたつの布石が合流し、昼休みになるころには『槙坂涼』についてのひとつの噂が学校中に広まっていた。――曰く「昨日、槙坂涼が遊園地で男とデートしていた」。
 当初の予定では実名報道をしてもらうはずだったのだけど、その役目に当たったのが話好き噂好きの唯子ではスタートの段階から尾ひれ背びれがつく心配があった。そのためひとまず彼女には口止めし、自ら噂を流すことにした。さらにその中で、わたしはひとつの実験を試みる。
 今までは流れる噂に周りが右往左往するのを見て満足していたけど、今回大事なのはそこではなかった。
 すぐに普段から気軽に声をかけてくれる子たちが確かめにきた。
「涼さん涼さん、聞いたよ、例の話」
 午前最後の授業を終えて、ロッカーへと向かうわたしに後ろから追いついてきた女の子3人組。
「デートの相手ってやっぱり藤間くん?」
「さぁ、どうかしら。想像にお任せするわ」
 いつものようにそう返すわたしは、いつもより自然に笑顔をつくっていた。
 勿論、心の中では会心の笑み。
 どうやらわたしと藤間くんの仲は、彼よりも先に世間が認めてくれそうだった。
 
 古河さんに聞いておきたいことがあったので、放課後、ロッカーで彼女をつかまえる。彼女は早々に帰るつもりだったらしく、わたしが声をかけたときにはすでに荷物をまとめていた。
「あン? 真の好きなもの?」
「ええ。明日、藤間くんにお弁当を作ろうと思うの。それであの子、何が好きかと思って」
 ついでに古河さんの様子を窺う。
 彼女が藤間くんをどのように見ているのか知りたかったのだけど、わたしがこういうことを言い出しても特に何の反応も示さなかった。どうやら本当に異性としてではなく、彼女の言うところの舎弟としか見ていないのかもしれない。そういう関係もそれはそれで羨ましく思うけど。
「ンなもん本人から直接聞きゃあいいんじゃねーの? さっき会ったら図書室に行くって言ってたぞ」
「また? 好きね、あの子」
 わたしは彼ほど図書室に足を運ぶ子を知らない。話していて図書室――図書館という施設に対する並々ならない思いを感じたこともあった。
 
「『地域社会の百科事典』に『民衆の大学』に……、『安上がりの警察』?」
 あれは少し前、図書室に行くという藤間くんについていったときのこと。
「前ふたつはわかるわ。図書館のことよね? でも、『安上がりの警察』って?」
「それも図書館のことさ」
 隣を歩く藤間くんは、知識をひけらかすわけでもなく当たり前のように言う。
 図書室がある研究棟には他にもたくさんの特別教室があり、放課後である今はそこを活動場所としている文化部員の姿で思った以上に賑やかだった。
「昔から図書館は市民の不満を解消する場として機能してきたんだ。まだ黒人への差別意識が強かったころのアメリカで、図書館がスラムへアウトリーチサービスを行ったところ、暴動がかなり減ったという」
 そして、まともな教育を受けられなかった黒人たちは、そこで知識と教養を身につけたのだと藤間くんは言う。
「だから『安上がりの警察』?」
「そう。どこの自治体でもどんな施設がほしいかアンケートをとれば、たいてい図書館とスポーツジムが1位を争うことになる。とは言え、スポーツジムは体を鍛えたい人も健康のために泳ぎたい人も、レクリエーションとしてスカッシュや3on3を楽しみたい人もひっくるめてだから、実質図書館が一番人気だろうな。だから図書館を作ったり拡充したりして不満解消の場を与えれば治安はよくなる」
「警察が威圧的に目を光らせるよりは、よっぽど効果的で平和的かもしれないわね」
「でも、僕に言わせれば、それは不満の解消というよりは欲求の充足だ。『図書館の自由に関する宣言』で図書館は、"基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供すること"が任務だと述べているが、"知る自由"なんてついさっき作られたような言葉を使う必要はない。人間には根源的に知識欲があるんだから」
「あなたが言うと説得力があるわね」
 思わず小さく笑ってしまう。
 藤間くんはちょっと読書好きなだけの普通の高校生を装っているが、一見してわからないくらい勤勉なことをわたしは知っている。その範囲は学業だけにとどまらず、とても広い。まさに知識欲だ。
「なんなら好奇心と言い換えてもいい」
 そこで一拍おいてから、彼は続ける。
「ここで問題だ。世界で最初の図書館はいつごろできたと思う?」
「世界で最初? 確か中世にはすでに修道院図書館があったのよね?」
「確かに。きっと山上にあるベネディクト派の僧院には確実にあっただろうな」
 今度は藤間くんが笑みを見せる。わたしが何を思い浮かべたかすぐにわかったらしい。こういうちょっとした思考の共有は思ったよりも嬉しい。
「最も古いとされているのは紀元前7世紀、アッシリア帝国の首都ニネヴェにあったアッシュルパニパルの図書館だ」
「紀元前……」
 14世紀どころの話ではない。
「アッシュルパニパルの図書館には粘土板のかたちで約5千点の蔵書があったと思われている。あの有名なギルガメッシュ叙事詩もこの遺跡から見つかったものだ。とは言え、これは最古というだけで、実際には王宮の一室に設けられた文書庫だ。図書館じゃない。古代最大の図書館は紀元前300年ごろのエジプトにあった、アレクサンドリア大図書館だろう」
「そのころだとプトレマイオス朝かしら?」
「そう。まさしくそのプトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によって建造された図書館だ。巻子本70万巻を所蔵していて、古代エジプト王朝最後の女王クレオパトラ7世もここで学んだという。――と、まぁ、それだけ図書館の歴史は古く、人間の知識欲も根源的だということさ」
 因みに、アレクサンドリア大図書館はムセイオンと呼ばれ、今でいうミュージアム(博物館)の語源となったのだそうだ。
「ただ、そんなに歴史が古いにも拘らず、近代日本の図書館は遅れてると言わざるを得ない」
 そう言った藤間くんの口調は少し苛立たしげだった。
 しかも、このときすでに目的地に辿り着いていたのだけど、彼はまだ語り足りないらしく、私語厳禁の図書室には入らず廊下で足を止めてしまった。わたしもそんな彼の様子と話す内容に興味があり、喜んでつき合うことにした。
「アメリカで世界最初の公共図書館、ボストン公共図書館がはじまったのが1854年。対して日本は1872年だ。しかも、無料の原則を記した図書館法がまだ成立していなかったから、当時はまだ有料公開だった」
「図書館が有料? そんな時代があったの?」
 無料が当たり前と思っていたわたしには、そんな歴史があったとは露ほども知らなかった。
「次第に無料公開になっていくのはもっと後。資料の貸出サービスがはじまるのはさらに後だ。兵庫県の県立図書館が本の貸出をするようになったのはいつだと思う? 2001年だ」
「……つい最近ね」
 有料にも驚いたけど、本の貸出をしない図書館もなかなか衝撃的だ。
「きっと日本の図書館は欧米と比べて100年は遅れてるな」
 と、鼻で笑う藤間くん。でも、そこで知らず知らず熱が入っていたことに気づいたのか、ばつが悪そうにぱったりと話すのをやめてしまった。
「あら、図書館の歴史についての講義はもう終わり? 次回はいつ、何について?」
「グーテンベルクの活版印刷を語らずに図書館の歴史とは片腹痛いね。……次回の講義は未定。内容は日本と欧米の図書館の違いについてだろうね。暇なら予習でもしておくといい」
 さっきまでとは一転、軽い口調で返してくる。
「実際、そういう研究に図書館はもってこいだ。便利だよ。教養を身につけられるし、暇つぶしの読書もできる。ついでに言うと、意外と待ち合わせにも適していたりもする」
「じゃあ、いつかデートするときは、待ち合わせは図書館ね」
「ああ、それは名案だ。ぜひそうするといい。誰とするのかは知らないが」
 彼は器用にもにこやかに、且つ、素っ気なくそう言い、踵を返して図書室の出入り口へ向かった。
「……」
 えいっ
 藤間くんの靴のかかとを踏みつける。彼はつんのめりながらも上手くバランスをとって、辛うじて転びはしなかった。
「何をする」
「あのね藤間くん、まだ図書室の外だけど、入り口で騒ぐと迷惑よ?」
 これはまだデートの前の出来事。このときわたしは、やはり彼をデートに誘うべきだと思った。
 
「あの子に聞くのがいちばん早いのでしょうけど、今はちょっと、ね」
 なにせ午後の休み時間に会ったときにインパクトの強いメールを送ったばかりだ。
「なんだ、そりゃ?」
「それにいきなり持っていって驚かせたいじゃない?」
 あんなメールを送っておいて、明日普通に会いにいったらどんな顔をするだろうか。ちょっと意地悪だけど、見てみたい気もする。
「ていうか、たまに一緒に喰ってるんだから、あいつがどんなやつかわかるだろ」
「そうね。だいたい日替わりランチだから、基本的に好き嫌いはないということかしらね」
「だろ? カツ丼とかラーメンとか、そのときの気分でテキトーに決めてんだから、何でもいいんだよ」
「……」
「……」
 結論は同じだけど、判断材料に大きな違いがあった。わたしたちは黙って顔を見合う。
「……わたしの前じゃそんなの食べたことないわよ?」
「……マジか?」
 何だろう、この違いは。
 わたしが首を傾げる一方で、古河さんはすぐに理解したらしい。
「あいつ、槙坂の前だからってカッコつけてんだろうな。ラーメンとか丼モンとか、そーゆー庶民全開なのはやめてさ」
「そ、そうなのかしら……?」
 意識してもらえるのは喜ぶべきなのだろうけど、わたしとしては気がおけない相手として見てほしいところだ。だいたいもうパジャマ姿も寝顔も見ているのだから。
「とりあえずサンドイッチとかでいいんじゃないの? 仲良く一緒に喰うには丁度いいだろ」
「いいわね。そのアイデアいただくわ」
「好きにしな。……んじゃな」
 古河さんはロッカーに鍵がかかっていることを確かめてから、わたしの横をすり抜けた。
「あ、そうそう」
 わたしはあえて一拍おいてから、その背中に声をかける。
「わたし、初めて藤間くんと会ったときのことを思い出したの。わたしがまだ1年で、あの子は中学生」
 古河さんは足を止めていた。
 
「確かあなたともすれ違ったわよね、古河さん」
 
「さーて、どうだったかな。悪いね、覚えてねーわ」
 しかし、そう短く言って、すぐにまた歩を進めた。背中を向けたまま手をひらひら振って去っていく。
 まったく焦った様子はなし。
 それは誤魔化すのが上手というよりは、彼女にとってこんなものは瑣末なことなのだろう。多少揺さぶったところで、その身を揺れるに任せるだけ。
「まぁ、いいわ」
 わたしが撃ち抜くべき標的は藤間くんだもの。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2012年1月10日公開

 


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