階段状になった大教室の中、空いた席に僕らは固まって陣取り、先生がくるまで無駄話を続ける。
「お前ね、友達と一緒にいるときくらい本読むのやめたら?」
「ちゃんと話には参加してるさ」
 僕こと藤間真(ふじま・しん)は、読んでいる本から顔も上げずに答えた。
「それに丁度おもしろいところなんだ。今日中に読んでしまいたい」
「あいかわらず活字中毒だねぇ」
 友人はため息混じりにそう零す。
 本好きは否定しないが、僕としてはそこまで中毒ではないつもりなのだが――そう思いながらページをめくる。
 と、
「見ろよ。きたぞ」
 友人のひとりが話の流れを切り、ひかえめなボリュームの声で皆に告げた。
 別に僕は周りを無視して本に没頭したいわけでもないので、見ろと言われれば見る。顔を上げれば、教室中央の扉から女子生徒のグループが入ってきたところだった。
(そうか。この授業は、あの人がいたんだったな)
 注目すべきは、その中心にいる人物。
 長い黒髪を揺らして歩く彼女の名は、槙坂涼(まきさか・りょう)という。学年は僕よりひとつ上の3年生だが、ブレザーの制服を脱いで私服を着れば大学のほうに紛れ込んでも違和感がないくらい大人っぽい。そして、何よりも美人であった。
 ここ、明慧学院大学附属高校は単位制が導入されていて、生徒がそれぞれ前期と後期のはじめに履修する授業を好きに選ぶことができる。なので、科目によってはこれからはじまる授業のように、別の学年でも一緒に受けたりすることもある。
 そして、槙坂涼が受ける授業は、決まって大教室になるのだという。なぜなら、彼女目当てで同じ授業を希望する生徒が、性別を問わず、学年も問わず、腐るほどいるからだ。おかげで各学期の最初には、彼女がどの科目を希望しているのかを知ろうと皆躍起になり、嘘、本当、ダミー含めていろんな情報が飛び交う。直筆の履修届けのコピーともなると、ン万円で取り引きされるとか何とか。……ご苦労なことだ。
「今日も素敵だなぁ、槙坂さん」
「そうだね」
 僕は友人の夢見心地の感想に、テキトーに相槌を打つ。
 気がつけば教室内の喧騒のトーンが落ちていた。皆、僕たちと同じようにそれまでのおしゃべりをやめ、そちらに注目して何ごとかを囁き合っているのだろう。
 この教室は前半分が平面で、後ろ半分が階段状になっている。真ん中の扉から入ってきた槙坂先輩は教室の中央を横断する広い通路を歩くことになり、さながらファッションショーのモデルのように視線を集めていた。後ろ寄りに座っている僕も、数段下を歩く彼女を目で追っている。
「相変わらず無関心丸出しの返事だな。ああいうお姉様とつき合いたいと思わないわけ?」
「思わないね。聞いた話、勉強もできるんだろ? そんな完璧人間とつき合っても大変なだけさ。それに僕たちみたいな年下を相手にすると思うか?」
 少なくとも女の子を見て騒いでいるような子どもなど相手にしないだろう。すでに大学生とつき合ってるなんて噂もあるし。
「確かになさそうだな」
「だろ? よって、僕はあの人に興味はないね」
 そう言い切って、再び本に目を落とす。
 ――と、そのときだった。
 槙坂先輩がこちらを見た気がした。誰も気づかない、向けられた僕にしかわからない、目だけを動かした視線。僕は思わず、一度は伏せた顔をまた上げる。だが、そのときにはもう彼女はこちらを見てはいなかった。いや、もとより本当に『気がした』だけだったのかもしれない。
 槙坂先輩はすでに僕と最接近する座標を過ぎ、遠ざかっていく運動に入っていた。
「……」
 僕はその背中を黙って見送る。
 やがて彼女を含めたグループが空いた席に座ると、もっと関係を深めたい男どもがゴアイサツに群がりはじめた。……熱心なものだな。
 僕はしばらく遠目からその様子を眺めていた。
 
 さて、そんな起きたか起こらなかったかもわからないような出来事も忘れた数日後のこと。
 机の上に置いた携帯電話が振動し、低い音を鳴らした。
 本を読むのをやめ、それを手に取る。サブディスプレィを見れば、090ではじまる知らない番号が表示されていた。僕のアドレス帳にはない番号。よって送信者の名前もなし。誰かが僕の番号を勝手に人におしえたのだろうか。
 僕は無慈悲にHLDボタンを押して、静かになった端末を机の上に戻した。
「出なくていいのかよ?」
 ここは小教室。普通の高校のように机が40ほど並べられていて、並んで座った友人が言う。
「知らない番号だったからね。3回かかってきたら出てやるさ」
「三顧の礼かよ」
 そんなにいいものじゃない。単に誰からかかってきたかわからない電話に出たくないだけ。そう言おうとしたが、ちょうど先生が入ってきて、僕たちの会話は中断を余儀なくされた。
 
「次の授業は、と……」
 見なくても覚えているのだが、念のためロッカーの扉の裏に貼りつけた時間割り表を確認する。
 3102教室。
 講義棟3の1階、2号室。
 大教室、つまり次は槙坂先輩のいる授業か。例の如く騒がしいのだろうな。
 平和と退屈と本を愛する僕は、ため息をひとつ。それからテキストとノートを取り出し、ロッカーに鍵をかけてから目的の場所へと向かった。
 教室に入ると、すでに槙坂先輩がきていることはひと目でわかった。
 前のほうの一角で人だかりができている。いつものようにゴアイサツしたい人たちが群がっているのだろう。本人の姿は見えないが、あの人垣の向こうに槙坂先輩がいるに違いない。聞いたところによると、そんな状況でも彼女は微笑みを絶やさず、誰とでも話をしてくれるのだという。
 僕はそれを横目で見ながら逆方向、すなわち教室の後ろへ足を向ける。
 歩幅の合わない階段を数段上がって、4列目の通路側に座った。この授業は一緒に受ける知り合いがおらず、遠慮なく本が読める。そう思ってテキストとともに持ってきた文庫本を開こうとしたとき、例の人だかりに動きがあった。
 中から槙坂先輩が出てくる。申し訳なさそうに皆に謝りながら輪を抜け、向かう先は――、
(こっちにくる、のか……?)
 まさか。
 だが、予想通り、且つ、思いもよらないことに、彼女は僕のもとへとやってきた。先輩が僕のそばに立った瞬間、教室内が静まり返る。
「こんにちは。藤間真くんよね?」
 発する言葉も見つからず、ただ見上げるだけの僕に、槙坂先輩は大人っぽく微笑みながら問うた。落ち着いた感じの声だ。
「……」
 警戒。
 なぜあの槙坂涼が?
「違った? できれば何か言ってほしいのだけど」
「あ、ああ……」
 僕はようやく我に返った。
「僕に何か用でしょうか」
 だがしかし、槙坂先輩はその質問には答えない。
 
「あなた、意外と用心深いのね」
 
「……」
 警戒心が顔に出たのだろうか、代わりにそんなことを言われてしまう。
 と、そこで教室内にチャイムの音が鳴り響いた。休み時間終了。
「残念、時間切れだわ。じゃあ、またね」
 そうして彼女はくるりと踵を返し、優雅に去っていった。
 これが槙坂涼と僕の、ファーストコンタクト。さっぱりわけがわからなかった。
 なお、この後の授業は四方八方から視線を感じる、非常に居心地の悪いものだったことをつけ加えておく。
 
 翌日、
「ケータイがない……」
 そう気がついたのは、3限目が終わった直後のことだった。
「どうした?」
 スラックスのポケットを探りまくっている僕を見て、友人が聞いてくる。彼はすでにテキスト類をまとめていた。これから昼休み、早く食堂に行きたいのだろう。
「いや、ケータイがないんだ」
「失くしたのか?」
「みたいだ」
 家から持って出たのは確かだ。その記憶はある。だが、どの時点まであって、いつからなかったか、その境が定かではない。
「まずいな……」
 つぶやく。
 多機能すぎて半分も使いこなせていない機能の中には、金の代わりになるようなものもある。まずは学務課に行ってみるか。落としものとして届けられているかもしれない。
 そう方針を決めたとき、
『2年の藤間真さん。お伝えしたいことがありますので、学務課までお越しください。繰り返します――』
 校内放送だった。
 その丁寧、且つ、事務的な口調は、先生のものではなく、学校事務の人のものだろう。お伝えしたいことというのが方便なのはすぐにわかった。どうやら僕の携帯電話は学務課が預かっているらしい。
「ちょっと行ってくる」
 友人に断り、一路、学務課へと向かう。
 予想通り、行った先では落としものを預かっていることを告げられた。学生証で本人確認をし、携帯電話を受け取る。
 さっそく電源を入れ、端末をチェック。特におかしな点はないし、怪しい通話記録もないようだ。後は財布としての機能だが、学校で落として昼には返ってきたのだ。使われている心配はないと見ていいだろう。
 ほっと安堵――した瞬間、着信メロディが鳴り、かなりどきっとさせられた。誰だ、こんなタイミングで。心の中でお門違いの文句を言いながらサブディスプレイを見ると、そこにはこうあった。
 
 槙坂涼――
 
「!?」
 その名前を見て、心臓が止まるかと思った。
 なぜ?
 なぜ彼女のアドレスがメモリィに登録されている? そんなはずはない。質の悪い冗談だ。そう思いたいが、しかし、事実として液晶はその文字列を映し出している。
「……もしもし」
 通話ボタンを押し、出る。
 
『ああ、よかった。今度はちゃんと出てくれたのね』
 
「……」
 今度は?
『それにさっき放送が流れたばかりで、まだ取りにいってないかもと心配だったの』
 すぐに僕の頭の中で話がつながった。
「……聞きたいことがあるのですが」
『そう、丁度いいわ。今からお昼よね? 学食で待ってて。わたしもすぐにいくわ』
 何から何までとんでもないことを言っている槙坂先輩の声は、とても楽しげな調子に聞こえた。いったい今、彼女はどんな顔をしているのだろう。いつも絶やさない、あの大人っぽい微笑を浮かべているのだろうか。
『あ、そうそう』
 と、思い出したように。
『ひとつプレゼントがあるの』
「プレゼント?」
『ええ。よかったらピクチャフォルダを見てみて』
 そう言うだけ言って通話は切れた。
 おかまいなしに沈黙した端末をしばらく呆然と見つめた後、僕は言われた通りピクチャフォルダを開いた。
「ああ、こういう顔か……」
 フォルダの中には今日作成されたばかりのファイルがひとつ。カメラ機能を使った自分撮り写真だ。
 
 フレームの中ではあの槙坂涼が、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。
 
 きっとそれはまだ誰も知らない顔に違いない。彼女がこんな表情もするのだと、いったい誰が想像するだろうか。
「まいったな……」
 知らず僕はつぶやいていた。
(あの人に興味なんてなかったのにな)
 そのはずなのに。
「興味が出てきてしまったじゃないか」
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2010年9月23日公開

 


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