教室に槙坂涼が入ってくるとすぐにわかる。その瞬間、空気が変わるからだ。 皆、今か今かと彼女の登場を待ちわび、彼女が現れると友達同士で何ごとかを囁き合う。「やっぱり槙坂先輩、いいなぁ」「今日もきれいだ」などなど。実際、大人っぽい整った容姿で、長い艶やかな黒髪を揺らす彼女は、注目を浴びるのに相応しい生徒だと言える。 今日も当然そんな感じで、僕は槙坂涼を見、そして、彼女を見た生徒たちの反応を見て楽しむ。 大教室だとたいてい彼女は、前から4分の1くらいの列の、黒板正面から左右どちらかに少しずれた位置に座る。その辺りが彼女にとって授業を受けやすい座標なのだろう。 そのはずなのだが。 今日は入ってくるなり僕を見つけると、一緒にきた友達と別れ、こちらに歩み寄ってきた。こっちくんなと思った僕の願いも虚しく、彼女は階段状になった席の通路側に座る僕の横に立った。 「こんにちは、藤間くん」 「どーも」 「隣、空いてる?」 「……」 空いていることは空いている。だが、それは友達とお互いのパーソナルスペースを侵害しないためにひとつ空けているのであって、本来の意味での空席ではない。そして、教室が混んでくれば、そこも詰めて座ることになる。 「もちろんです」 「どーぞどーぞ。こんなところですが」 どうやって追い返そうかと思っていたら、友人たちが勝手に返事をしてしまった。特に槙坂先輩が横に座ることになる浮田は全力でウェルカムだ。 「そう。よかったわ」 彼女は僕の後ろを通り、隣の席に腰を下ろした。 ……近い。 先日、向かい合って昼食を食べたが、それ以上だ。肩と肩、肘と肘が当たりそうだ。 「高くていい眺め。でも黒板が遠いわ」 「ああ、黒板が見えないなら前へ行ったほうがいい。ぜひそうするべきだ」 「大丈夫よ。目はいいほうだもの」 思わず舌打ちしそうになった。 「ところで、今日は何を読んでるの?」 彼女の興味が、今度は僕が読んでいる本へと向かう。 「ディクスン・カー、『帽子収集狂事件』」 「乱歩が選んだ海外ミステリ10作のうちのひとつね」 知っていたのか。意外に雑学持ちだな。 「先輩はあの作品の中でどれがいいと思う?」 「そうね。『ナインテイラーズ』かしら。ドロシー・L・セイヤーズの」 「いちばん新しい作品だな。僕は逆に最も古い、ガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』だ」 単純なのに盲点を見事についた、あの人間消失トリックには感動したものだ。100年たった今でも、あのトリックを超えるものはないだろう。 「というわけで――残念。僕らは相性が悪いようだ。……どうぞお引き取りを」 直後、槙坂先輩がすっと立ち上がった。 まさかこれで本当に引き下がるつもりなのか――ちょっと驚いて彼女を見上げると、ずいっと斜め上方から顔を寄せてきた。鼻と鼻がつきそうなくらいの至近距離。 「そうね。今日はここまでにしておきましょ。面白いことはゆっくり楽しまないともったいないわ。……またね」 そう僕にだけ聞こえるボリュームで言い――微笑む。 それから彼女は持ってきたテキスト類をまとめ、友達のところへと戻っていった。 「やれやれ……ぐえっ」 「お前お前お前ーっ。なんで追い返してんだよっ!?」 浮田だった。血の涙を流しながら首を絞められても困る。こっちだって都合があるんだ。 「いいよなぁ、お前。あんな間近で槙坂先輩に笑いかけられて」 「……」 バカめ。あれはファウストに契約を迫るメフィストの笑顔だ。 授業が終わり、教室移動。 明慧学院大学附属高校には4つの講義棟があり、その講義棟と講義棟をつなぐ道を歩いているときだった。 「真ってば真ってば真ってば」 後ろからきたやつに腕を絡め取られ、そのまま道を外れて芝生のほうへと引っ張り込まれた。 見れば僕の腕を取ったのは、ショートの髪をヘアピンで止め、おでこも広く露になった小柄な小動物系の少女――、 「なんだ、“こえだ”か」 名前を三枝小枝(さえぐさ・さえだ)という。普通なら小枝と書いて『さえ』と読むところを、『さえだ』と読む辺りが僕は気に入っている。生意気にも僕の名前を呼び捨てにしているが、まだ1年生、後輩である。 僕は一緒にいた友達から離され、こえだと芝生を歩く。 「見てたよ見てたよ」 「何をさ?」 「あの槙坂さんと仲よさそうじゃない」 やっぱりそのことか。 「そう言えばさっきの授業、こえだも一緒だったな」 「覚えとけよぉ」 頬を膨らませながら、僕の脹脛のあたりをローキック。わりと痛い。 もちろん、どの授業に誰が一緒か覚えているが、彼女のこういう反応が見たくて、ついついからかってしまうのだ。 「で、どうしたの?」 「別に。たいしたことじゃないさ」 わざわざ言うことでもないのだが。 「実は槙坂先輩に言い寄られてるって言ったら信じるか?」 「信じるわけないじゃーん」 「ま、普通はそうだな」 そのまましばらく黙って芝生を踏みしめ、歩を進める。 「えっと……」 と、こえだがただならぬ空気を感じ取ったのか、おそるおそる口を開いた。 「……マジ?」 「本気かどうかは本人に聞いてくれ」 「ええーっ」 盛大に声を上げるこえだ。 「大きな声出すなよ。うるさいやつだな」 「……う。ごめん……」 周囲の視線がこちらに集まり、しゅんとなる。基本的には見た目通りに小動物なのだ。 「もしかして、美沙希さんがらみ?」 「部分的には噛んでると思う」 こえだの口から出た美沙希さん――古河美沙希(こが・みさき)というのは、僕の中学時代からの先輩で、この学校では槙坂涼とは別の、知る人ぞ知る系の有名人である。ひと言で言うと情報屋、もしくは、便利屋だ。 「でも、基本的には、これは僕と槙坂先輩の話だ」 「なぁんだ。美沙希さんがけしかけたのかと思った」 「あの人はこんな遊び方はしないよ」 ていうか、美沙希先輩はこういうのはもう卒業している。 「で、どうするの?」 と、こえだ。 「何が?」 「だーかーら。槙坂さんから熱烈なアプローチを受けてるんでしょ? 真はどうするのってこと」 「ああ、そういうことか。決まってるさ。きっぱりお断りだ」 僕が好きなのは騒ぎの中心にいることではなくて、騒ぎを端から見ることだから――ともつけ加える。 「うわ。こんな大事なこと、そんな基準で決めちゃう? なんか違わなくない? それにさ、あの槙坂さんと関わってる時点で、もう渦中の人だと思うけどなぁ」 「……」 おそろしい話だ。 「おっと。あたし、こっちだから。……じゃあね、真」 「ああ」 片手を上げて応じてやるが、すでに走り出していたこえだは、こちらを振り返りもしなかった。 「やれやれ」 僕は深いため息を吐く。こえだの騒々しさと、彼女の指摘に。 渦中の人、ね。 面倒な話だ。 そうしてまた別の日、彼女はやってきた。 「隣、座っていい?」 「僕はふたつも占拠するつもりはないさ。そこは誰の席でもないから、好きに座るといい」 無礼にも本から顔も上げずに答えたのだが、槙坂先輩は気にした様子もなく隣の席に座った。 「今日は何を読んでるの?」 「夢野久作『ドグラ・マグラ』」 「日本が誇るアンチ・ミステリね」 よく知っている。一度彼女と真面目にこの手の議論をしてみたいものだ。なかなか面白いものになりそうな気がする。 「こういうものがミステリの本場イギリスではなく、日本やイタリアで発生したのは興味深いところだ。……ところで先輩は、アンチ・ミステリを数えるときは三大? それとも四大?」 「そうね。わたしは四大とするべきだと思うわ」 「僕は『三大奇書』だ。竹本健治の『匣の中の失楽』は、中井英夫の『虚無への供物』の模倣さ。……というわけで、やっぱり僕らは相性が悪いようだ。どうぞ、お帰りはあちら」 僕がそう言うと、槙坂先輩はすっと立ち上がった。 「仕方ないわね。またくるわ」 ひとこと言い残し、席を離れる。 本日も素直に帰ってくれた。 勿論、この後、僕は周りに座る友人たちにボロカスにされたが。 さて、その授業があと10分ほどで終わって、そして、終われば待ちに待った昼休み――というとき。 スラックスのポケットの中で携帯電話が振動し、着信を伝えてきた。メールだ。 机の下でサブディスプレィを見る。 槙坂涼―― そう言えば、まだアドレス帳に残っていたんだったな。 端末を開き、メールを開封する。 『この後、お昼一緒に食べない?』 どうしたものかと悩んでいると、さらにもう一通送られてきた。 『授業が終わるまでに考えておくこと』 猶予は10分。 僕はこのとき初めて、授業が長引けばいいのにと思った。 早く終われという多くの生徒の希望と、終わるなという僕の願いを裏切り、授業はチャイムと同時に終了した。 テキストをまとめ、階段状の通路を下りる。 と、そこに槙坂先輩が待っていた。 「どう? 考えてくれた?」 「まぁ、それくらいなら。……ただし、NGワードが出たら退場だ」 「あら、何? NGワードって?」 彼女は首を傾げる。 「それは自分で考えてくれ。引っかかったらアウト」 「ゲームみたいで面白そう」 そう言ってどこか無邪気にも見える笑みを浮かべた。 弾む気持ちを抑えきれないのか、跳ねるような足取りで歩き出す彼女を僕は追う。そして、そんな僕らを周囲は呆然と見送るのだった。 「悪いけど席を取っておいてくれ」 学食に着くと、弁当持参の槙坂先輩に席の確保を任せ、僕は昼食を買うため一旦彼女と別れた。考えるのが面倒なので、日替わりランチのコーナーへ直行。ほとんど立ち止まることなくテキトーに皿をピックアップし、金を払って席のほうへと向かう。 槙坂先輩がどこにいるかは、彼女が手を上げて合図をしてくれたのですぐにわかった。この前と同じ、壁際のテーブルだ。トレイを置いて向かいに座る。 「思ったのだけど――」 さっそく切り出してきた。 「この前と今日の質問、私の答えを聞いてからなら、自分の答えをいくらでも変えられるんじゃない?」 「だろうね」 彼女は例の小さなランチボックスをまだ開けていなかったので、僕も先に食べはじめることはしなかった。 「じゃあ、本当のところは?」 「『ナインテイラーズ』は僕も好きさ。いちばんとは言わないけど、秀逸な作品だ。乱歩が選んだだけのことはある。それから僕も『四大奇書』派だ。『匣の中の失楽』は確かに『虚無への供物』の模倣かもしれないけど、中井英夫に最大の敬意を表した素晴らしいオマージュだと思う」 「あなた、ずいぶんと天邪鬼ね」 珍しく拗ねたような先輩の口調が可笑しかった。 僕の返事を聞いている間に槙坂先輩はランチボックスを開けていて、僕は彼女と同時に食べはじめる。それに気づいて彼女は、僕に嬉しそうに大人っぽい笑みを向けてきた。 「それにしても――わたしのこと、そこまで嫌? もしかして、もうつき合ってる子がいた?」 「今ごろ聞くか? そういうのは最初に聞くべきだと思うが。……まぁ、特にはいないけど。そっちこそ大学生とつき合ってるんじゃなかったっけ?」 彼女に関しての尽きない噂の中にそういうのがあった。明慧大の医学部に彼氏がいるとか何とか。 「あら、藤間くんともあろう人がそんなのを信じてたとは意外ね。根拠のない噂だわ」 そして、やや声のトーンを落とし、 「もちろん、わたしが流したのだけど」 「!?」 危うく食べていたハンバーグを喉に詰まらせるところだった。 「因みに、方法は簡単。いくつかの教室の机に『槙坂涼は大学生とつき合ってる』って落書きするだけ」 「なんでまた、そんなことを……」 「面白いからに決まってるわ」 当然のように言う。 「すぐに広まって、わたしのところに帰ってくるの。本当なのって。わたしは『プライベートなことだから』と、答えを曖昧にする。いろんな反応が見られるわ」 彼女が言うには、尾ひれがついて大学生どころか社会人や他校の生徒に変わっていたり、どこそこのホテルなどと具体的な場所が追加されていたりするのだそうだ。デマゴギーの実験に使えそうな事例だな。 「ひどい話だ」 「藤間くんには言われたくないわ。それに、言っておくけど、個人名が出たときはきっぱり否定してるわ。特定の誰かに迷惑はかけたくないもの」 なるほど。最低限のルールは自分の中に設けてあるわけか。まったく、本当に誰かとよく似ているな。 「というわけで、わたしはフリーよ? どう?」 「知ったことか」 「強情ね」 槙坂先輩はため息を吐く。 「ひとつおしえてあげる。あなたにとっていいことか悪いことかわからないけど」 それはまた微妙な情報だな。 「大きな声じゃ言えないから」 そう言って身を乗り出すので、僕も同じようにした。互いの吐息がかかりそうなほど顔を寄せ合う。 「わたし、処女(バージン)なの」 「ぶっ」 さすがにこれには咽て、咳き込んだ。 「やっぱり笑うのね」 「笑ってんじゃないっ」 どうやったらそう見えるんだ。 「そんなこと今言うことかよ」 「じゃあ、いつならいい? ベッドに入る前?」 「……」 落ち着け。目の前にいるのは悪魔だ。そう思え。 「やはりこれは諸刃の剣ね。わたしを征服する喜びはあるかもしれないけど、あなたを満足させることはできないと言ってるようなものだもの。藤間くんはどちらが好み? 初めての女? それとも慣れてるほうがいい?」 聞くかよ、そういうこと。 「いいのか? そういう話題にNGワードが潜んでそうだけど?」 僕は強引に話を終わらせることにした。 「確かにそうね。……でも、こういうのもいいわね、緊張感があって」 楽しそうに笑ってから、槙坂先輩は続ける。 「じゃあ、ちょっと雑談。どうして明慧大附属に入ったの?」 「ずいぶんと普通の質問なんだな」 「お互いを知るため、かしら?」 その必要があるかはさておき、僕が話の腰を折って話題を変えさせたのだ。答えるのが筋か。 「ここってさ、日本の高校には珍しい単位制だろ? 好きな授業が取れて、それだけ多くの人間が観察できると思ったんだよ」 「あなたらしいわね」 「それと――」 と、勢いで口を滑らせ――やめる。 「あのね藤間くん、言いかけたことは最後まで言いましょうね」 槙坂涼が姉のような口調で注意した。 「……とある先輩を追って、ね」 「まぁ、そうだったの? 誰なの、その先輩って?」 「それは言いかけたわけじゃないから、これ以上言う気はないね」 自分の迂闊さを呪う。 「ま、先輩もよく知っている人、とだけ言っとくよ」 これはサービス。 気がつけば、トレイの上のランチはほとんど残っていなかった。話しているうちにけっこう食べていたようだ。 「いつの間にかずいぶんと話してたわね」 槙坂先輩も似たような感想を抱いたらしい。 「あまり気にしてなかったけど、NGワードは何だったの?」 「特には設定してないよ」 そんな面倒なことやってられるか。 「あら、意外に優しいのね」 「まさか。気分で退場させるつもりだっただけさ」 「意地悪」 彼女は頬を膨らませる。 だが、すぐに、 「でも、そういうところが好きよ。やっぱりわたしたち、つき合ってみるべきだわ」 だから僕はこう返す。 「NGワードだ。……どうぞご退場ください」 その女、小悪魔につき――。 2010年10月10日公開 |
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