それはある日の昼休み、僕が今まさに学食に入ろうとしたときだった。
「おっし、真、ちょっとアタシと話そうか」
 いつぞやのこえだ――三枝小枝みたく、腕に腕をからめてがっちりホールドしてきたのは、
「美沙希先輩」
「よっ」
 かたちのいい猫目に、ざっくりしたウルフカットが男前な、古河美沙希(こが・みさき)先輩だった。彼女は悪ガキみたいな笑みを見せる。
「話とはいったい?」
「それは食べながらだ。アタシもハラが減った。……おい、お前ら。こいつ借りてくぞ」
「「 どうぞッス。遠慮なくどうぞッス 」」
 ここまで一緒にきた浮田をはじめとする友人たちは、口をそろえてそう言った。もとより友達甲斐のないこともあるが、この明慧大附属で美沙希先輩に逆らおうなどと思う生徒はそうそういない。
 僕は連行されていく。
「なんだなんだ」「つーか、かわいそ」「何をやったんだ」と好奇と憐憫の入り混じる視線を浴びながら、学食内を引きずられる。間、二の腕で「あぁ、この人もいちおー女だったんだな」と実感していたが、いつまでもされるがままになっているわけにはいかない。
「先輩、こっちはまだ何も買ってないんですが」
「ああ、そうだったな。よし、とっとと買ってこい。席はアタシが取っといてやる。逃げるなよ」
「わかってますよ」
 逃げるつもりもないし、その理由もない。
 ようやく解放された僕は、丼コーナーで手早くカツ丼(味噌汁、漬け物付き)を買って、美沙希先輩の待つテーブルへと向かった。
 先輩は売店で買ったらしいサンドイッチやパンを広げ、缶コーヒーを開けているところだった。
 僕は改めて自分が買ってきたものを見る。――カツ丼。そう言えば、2回ほど槙坂先輩と一緒に昼食を食べたが、どちらのときも日替わりランチだった。丼ものやラーメンみたいな庶民的なものではなく。案外、彼女の前では格好つけようと思っているのかもしれない。
 逆を言えば、美沙希先輩の前ではその必要がないということでもあるが。
「どうした?」
「いえ、別に。……それで、話とは?」
 僕は先を促す。
 途端、先輩の目が獲物を捉えた猫のように光った。
「聞いてるぞ。槙坂とのこと」
 さっそく最初のサンドイッチの封を開けながら切り出してくる。
「さすがですね。もうその話を聞きつけましたか」
「バッカ。アタシじゃなくても誰でも知ってるよ。けっこう噂になってる。最近よく一緒にいるってな」
「……」
 どうやら前にこえだが言っていたことが本当になっているらしい。
 槙坂涼に関わった時点で渦中の人、か。
「楽しそうじゃないか」
「学校生活を面白くするのに、そこまで体張るつもりはありませんよ」
 僕はカツ丼に割り箸を突き刺しながら答えた。
 知ってるくせに。
 なにせこの古河美沙希という人は、僕の人生の先輩でもあるのだから。
 
 彼女と出会ったのは、僕が中学2年のころ。
 当時の僕は、世の中のすべてがくだらないものに見えて、心底退屈している嫌なガキだった。
 そんなとき、ひょんなことで知り合った古河美沙希という人は言う。
「そーゆーのを中二病っつーんだよ。ついでに言っとくぞ。お前が思ってることは正しい。いいか、世の中ってのはホントに面白くないんだよ。くだらないんだよ。だったら、自分で面白くするしかないだろうが」。
 それから僕は美沙希先輩に誘われ、学校でいろんな行事の運営に携わった。体育大会やクラスマッチの実行委員、弁論大会の運営委員、などなど。僕は次第にものごとを思い通りに進める楽しみを知っていった。
 そして、先輩に誘われてやったのはそれだけではなく、それらを隠れ蓑にしてふたりでいろいろと毎日をコーディネイトしたものである。
 
「んで、槙坂はどうなんだ? 本気なのか?」
「さて、どうなんでしょうね」
 少なくとも楽しんではいるみたいだが。
「ていうか、何を人伝に聞いたみたいな言い方してるんですか。そもそも槙坂先輩に僕のケータイ番号をおしえたのは先輩でしょうに」
「おう。残高190円の図書カードと交換でな」
「驚きの安さだ」
 僕の個人情報はそんなに格安なのか。
 遡れば、槙坂涼がなぜ僕の携帯電話の番号を知っていたかという謎が出てくるのだが、なんてことはない、目の前にいるこの人に聞けばいいのだ。
 古河美沙希は知る人ぞ知る情報屋だ。
「○○君がどこでバイトしているか」とか「××さんが毎日どの電車に乗っているか」とか、そういった情報を素早く提供してくれる。金銭での売買はせず、商品券や図書カードと交換で。一歩間違えたらストーカを生み出しそうな気もするが、その辺りは彼女の猫目が相手を見極めるので、問題は起こっていないようだ。
 槙坂先輩もこの情報屋から情報を得たのだろうが、まさか僕と美沙希先輩につながりがあるとは思わなかっただろう。
「それはそうと、先輩はケータイ番号みたいな個人情報は扱ってなかったのでは?」
「まぁな。でも、あの槙坂涼がお前に興味をもってるんだぞ。こんな面白そうなことが他にあるか? どーせ真だしな、楽しいことになりそうだったからおしえてやった」
 この人の情報屋としてのモットーはかなり脆いようだ。
 僕のケータイ番号は当然すでに美沙希先輩も知っているし、きっとその場でちゃっちゃとおしえてしまったのだろう。残高190円の図書カードと引き換えに。
 情報屋をはじめてこういうのは卒業したと思っていたが、人間そうそう変わるものではないらしい。
 美沙希先輩はテーブルの上の割り箸を手に取ると、それで僕の漬け物を勝手につまみ、ひょいと口の中に放り込んだ。……まぁ、いいけど。きゅうり嫌いだし。
 それを見ながら、
「ああいう真面目な優等生タイプは、美沙希先輩は嫌いだと思ってましたよ」
「真面目? どこが」
 先輩は鼻で笑う。
 
「あれは明らかにアタシらの同類だろうが」
 
「……」
 どうやら先輩はとっくに槙坂涼の性質を見抜いていたらしい。
 曰く、「あれは自分のひと言や無言が、どれだけ回りに影響を与えているかわかってる。わかっててやって、その反応を見て楽しんでるんだ」。
 見事な観察眼だ。まさにその通り。槙坂先輩も自らそう告白していた。
「それだから同じ匂いをかぎつけて、お前に興味をもったのかもな」
「たまりませんね。こっちは平和と退屈と本を愛する一介の高校生だというのに」
 などと美沙希先輩に韜晦気味に言っても意味はないか。
 そこでふと思う。
「彼女が本気かどうか、その辺りの判断材料は、むしろ先輩が持ってるような気がしますね。……先輩が会ったとき、彼女、どんな様子だったんですか?」
 ぜひ知りたいと切実な様子だったとか、わかれば儲けものくらいの感じだったとか。そのときの様子でだいたいわかるのではないだろうか。
「アタシんとこにきたときか?」
 んー?――と美沙希先輩は記憶の糸を手繰り、
 そして、いきなり声を殺して笑い出した。口許に拳を当て、体を揺らす。
「何ですか、それ。いったい何があったんですか?」
「悪いが話せない。守秘義務ってやつだ」
 そんなものあったのか、なんて言ったらぶっ飛ばされるだろうな。めっぽう喧嘩が強くて、すぐ手が出る人だし。
 美沙希先輩はサンドイッチにパンふたつを完食し、缶コーヒーを飲み干す。
「ま、がんばんな。アタシも応援してるから」
「……」
 嘘吐け、と僕は心の中で思う。
 仮に本当だとしても、「どちらも負けるな」なんていう、ゆとり倒しの小学校がやりそうな運動会の応援みたいなものだ。結局、この人は端で見て楽しんでいるだけなのだ。
 
 それは翌日の昼休み、僕が今まさに学食に入ろうとしたときだった。
「さ、藤間くん、少しわたしとお話しましょうか」
 いつぞやのこえだ、そして、昨日の美沙希先輩みたく、腕に腕をからめてがっちりホールドしてきたのは、
「槙坂先輩」
「こんにちは、藤間くん」
 大人っぽい端整な容姿に長い黒髪が艶やかな、槙坂涼だった。彼女は、顔は笑っているけど目は笑っていない、みたいな笑みを見せる。初めて見る表情だ。果たしていきなりこんな笑い方をされるようなことを、僕はしただろうか。さっぱり覚えがない。
「僕は話などない」
「わたしにはあるわ。食べながらゆっくり話しましょう。……いつもいつも悪いのだけど、藤間くんを借りていくわね」
「「 どうぞッス。遠慮なくどうぞッス 」」
 今日も今日とて一緒だった浮田をはじめとする友人一行は、槙坂先輩に微笑みかけられ、一も二もなく首を縦に振った。槙坂涼に笑顔でこう言われてダメと答えられる男はまずいないだろう。
 僕は連行されていく。
 浮田には「俺たちも後でお前に話がある」と言われた。悪いが僕にはない。
「なんだなんだ」「つーか、またか」「どうなってんだ」と好奇と羨望と妬みの入り混じる視線を浴びながら学食を横切る。間、二の腕には美沙希先輩とは段違いのやわらかい感触があり、おかげで振り解くタイミングを逸したまま、気がつけばテーブルまできてしまっていた。
「あら、藤間くん、お昼は?」
「問答無用でここまで引きずってきたのはそっちなんだが……いや、いい……」
 自分の煩悩のせいで強く文句は言えず、僕は昼食を買うべくきた道をすごすごと引き返した。
 丼もののコーナーに目をやり、麺類コーナーを睨む。
「……」
 やめた。やはり今日も日替わりランチにしよう。どうにも槙坂先輩の前で庶民丸出しのものを食べるのに抵抗がある。100歩譲ってもカレーだろう。しかも、カツカレー。向こうは実にささやかな弁当を食べているというのに。
 ランチを買って戻ってくる。
 槙坂先輩は例の小さな二段ランチボックスを自分の前に置いていたが、まだ手もつけずに僕を待っていた。
「で、話とは?」
「藤間くんって意外にモテるのね」
 微笑みがデフォルトみたいな彼女が、珍しく不貞腐れたような表情をしていた。手ではランチボックスの蓋を開けている。
「いきなり何のことだ?」
 それと『意外に』は失礼だ。
「この前、1年の女の子と歩いてた」
 僕が一緒に歩くといえば、こえだだな。
「昨日は古河さんとお昼を食べてたわ」
「……」
 見てたのか。まぁ、お互い昼食はここだからな。そういうこともあるか。僕も槙坂先輩の姿はよく見ていたし。
 ふたりで一緒に食べはじめ、僕はひと口目を飲み込んでから答えた。
「下級生のほうは三枝小枝。通称こえだ。この春に知り合った、かわいい後輩だ」
「ずいぶんと素直な言い方をするのね。かわいいだなんて」
「実際そうさ。誤解を恐れず言うなら、僕は彼女に対して一定以上の愛情を持ってる。勿論、あくまで友人の範囲を出ないが」
 そして、こんなこと本人に言うつもりもない。
「……」
 ジトッとした視線が僕に向けられる。
「美沙希先輩については、あなたもよく知っているのでは? 僕のケータイの番号はあの人から教えてもらったんだろう?」
「あら、知ってたのね」
「知らいでか」
 苦笑しながら言い返す。
 とは言え、まぁ、知らない可能性もあるか。美沙希先輩が情報屋なのは影で有名なだけで、最後まで知らないまま卒業していく生徒も多いらしいし。
「確かに古河さんのことは知ってるわ。でも、わたしが知りたいのは、あなたと古河さんの関係なの。まさか何か調べてもらってたわけではないのでしょう?」
「その可能性はゼロじゃない」
 今のところ美沙希先輩に世話になることはないだろうと思っているが、そうやって否定されるとそれを否定したくなる。
「あら、それならそれで興味があるわ。いったい何を調べてもらってたの? わたしのこと? だとしたら嬉しいわね」
「そんなことをする理由がない」
 きっぱり否定する。
「わたしのことならわざわざ古河さんに調べてもらう必要はないわよ。藤間くんには何でも答えるもの。経験なし。男の子とつき合ったこともなし。安心して、過去はきれいなものよ。後は、そうね、スリーサイズは最後に測ったときが――」
「いや、言わなくていい」
 僕は掌を向け、制する。
 あまりの大らかさに軽い頭痛を覚えた。
「って、ちょっと待て」
 今、何か変なことを言わなかったか。
「男とつき合ったことがないって!?」
「ええ、そうよ。いわゆる彼氏イナイ歴17年、というやつね。仕方ないと思わない? 今までそういう男の子に出会わなかったのだから」
「この前、僕に言わなかったか、生まれて初めて振られたって」
 彼女が僕につき合えと迫り、僕がそれを断り――それでも槙坂涼は笑っていた。初めて振られた、と。
「言ったわ。今まで男の子とつき合ったことがなくて、生まれて初めて交際を申し込んだら、見事に振られた。――矛盾はないわ」
 槙坂先輩はさらりと言ってのける。
「……わかった。それについてはもう触れないでおく」
 何で最初に選んだのがよりにもよって僕なんだ、という疑問とも文句ともつかないものはあるが。
「美沙希先輩は僕とは同じ中学でね、もう長いつき合いになる」
「藤間くんが追いかけてきた先輩っていうのは、古河さんのこと?」
「それは内緒。言いたくない」
 それを言ってしまうと、よけいなことまで言わなくてはいけなくなる。
「……そういう点では槙坂先輩は運がよかった」
「どういうこと?」
 彼女は首を傾げる。
「美沙希先輩は電話番号みたいな個人情報は扱ってないんだ。つき合いの長い僕のだから、面白がっておしえただけ」
 残高190円の図書カードという格安で。持ち合わせがなかったらなかったで、きっとタダでおしえたのだろうな。
「世の中せまいわね」
「まったくだ」
 感想を一致させ、ひと息。
「ま、というわけで、古河美沙希、三枝小枝の両名とは単なる先輩後輩の関係だ。先輩が思っているようなことはないよ」
「まるで浮気を疑われた男の弁解ね。少しはわたしの気持ちも考えてくれているということ?」
「……単に事実を説明しただけだ」
 どいつもこいつも楽しそうで羨ましい限りだ。
「昨日の様子だと美沙希先輩もずいぶん面白がってたからな。下手すると今なら何でもおしえてしまいそうだな」
 と、そこまで言ったところで、自分がよけいなことを喋ったことに気づく。
「そうなの? じゃあ、今度は藤間くんがどこに住んでるか聞いてみようかな」
「バカ、やめろ」
 思った通りの反応だった。
 住所なんか聞いてどうするつもりだ。襲撃するつもりか?
「あら、どうして?」
 無邪気に問い返してくるその危機感のなさに、僕は呆れてため息を吐く。 
「言っとくけど、僕はひとり暮らしだ。そんなところにのこのこと……」
 思わず言葉が途切れた。
 槙坂涼が面白いものを見つけた子どものように、目を輝かせていたからだ。
「……」
「……」
「……おい」
 しかし、僕の言葉に連動して、すっと目を逸らす槙坂先輩。
 逃げるようにそっぽを向いたその横顔には、例の如く天使の顔をした悪魔の笑みが浮かんでいた。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2010年11月03日公開

 


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