プール三昧の午後は続く。
「おらおら」
「きゃっ! ちょっと美沙希!?」
「あんた、何やってんだ!?」
「あぁ? やんのか真」
「たとえ美沙希先輩でも、非道な蛮行には武力行使も辞さない」
「おし、こい。お前とはいつかケリをつけようと思ってたんだ」
「それはこっちの台詞だ! ……あ、ちょっと待って。ごめんさい。いて、いててててて」
 波の打ち寄せるプールの浅いところで、借りてきたビーチボールで平和的に戯れていたはずが、どういうわけかいつの間にか格闘戦になっていたりもする。波打ち際だけに、演出過剰な巌流島の戦いのようだ。
 そして、ついていけないどころか、巻き添えを喰らうのは槙坂先輩。
「喰らえ! ……槙坂発射」
「きゃあ!」
「え?」
 美沙希先輩に突き飛ばされた槙坂先輩が、つんのめりながらこちらへ向かってきて、僕はそれを抱き止める。が、しかし、踏ん張り切れず、ふたり一緒にもつれるようにして倒れてしまった。
 思い出したのは夏休み前のアクシデント。同じ轍は踏むまいとどこにも触らないように気をつけたら、見事に背中から落下。膝下くらいまでしか深さはないが、しっかり水没した。人間、膝までの水があれば溺死できるというが、どうやら本当らしい。
「ぶはっ」
 あわてて体を起こせば、槙坂先輩は僕に覆いかぶさるようなかたちで、まだ四つん這いのままだった。
「大丈夫か?」
「え、ええ……」
 まったく。槙坂先輩になんてことしやがる。
「お、槙坂。なかなかぇろイイポーズだな。いつもベッドでそんなふうに真を挑発してるのか」
「え……?」
「あ……」
 言われれば意識してしまうのはむりからぬこと。
 目の前には槙坂先輩の整った相貌があった。少し視線を下げれば水着のトップス。しかも、よく見たら胸元が大胆に開いたデザインをしていて、その奥にはどこまでも深い谷間があった。
 みるみるうちに槙坂先輩の顔が赤くなる。
「美沙希ーっ」
 彼女はおもむろに立ち上がると、すっかりお役御免となって所存なさげにしていたビーチボールを手に取り、美沙希先輩へと投げつけた。
「ぐはっ」
 顔面へのクリーンヒットだった。いったいどれほどの勢いと威力だったのか、美沙希先輩は足が上になるくらいひっくり返り、水の中へと没した。
「……まだしたことないわ」
「……」
 まだとか言うな。
 
「あー、痛て。なんでプールに遊びにきて、あちこちアザつくってるんだろうな」
 湯が染みるように感じるのは、血行がよくなって打ち身がうずくからだろうか。
 ――僕たちは夕方にはプールエリアを切り上げ、施設上層にある大浴場にきていた。
 水着で入れる大浴場。
 浴場は外側に向けて全面ガラス張りになっているが、たいした景色は望めなかった。埠頭に建設されているだけあって、時折船が行き交うのが見えるのだが、豪華客船が通るわけでもなく、見えるのは何の変哲もない旅客船ばかりである。結局、プールの延長なのだろうな、ここは。
 それでも僕がたいして面白くもない景色を見ているのは、槙坂先輩を視界に入れないようにするためだ。水着姿の彼女と並んだり向かい合ったりしてゆっくりするというのも目のやり場に困り、気恥ずかしいものがある。それに一緒に風呂に入っているというのも、奇妙な感覚だった。
「あら、本当。背中にもアザが」
「!?」
 そんな僕の内心を露ほども知らず、槙坂先輩は指で背中に触れてきたりする。
「なに、背中に傷だぁ? 切腹だな」
 局中法度かよ。
「背を向けてついた傷じゃありませんよ。美沙希先輩が尋常じゃない速さで背後を取ってくるだけで」
 消えたと思ったときには、もう背後に回られているのだ。そこから殴る、蹴る、極める、投げる、攻撃は多彩だ。さすが『猫目の狼』と恐れられただけある。
「あー。にしても、こりゃあなかなかいいな。前からこっちにもきたかったんだよな」
 完全に緩みきった美沙希先輩の声。
「ふたりは前にもきたことがあるの?」
 槙坂先輩が不意に発した問いに、僕は彼女を見た。見て、迂闊な自分を呪った。
 彼女もずいぶんリラックスしているようで、浴槽の淵にもたれ、足を伸ばして座っていた。白いビキニの水着でわずかな部分を覆っただけの肢体を、惜しげもなく晒している。こうしてみると破格にスタイルがいいことが改めてよくわかる。いつもこんなふうに優雅に体を伸ばして風呂に入るのだろうか、などと考えてしまい――僕は盛大に自爆した。顔が熱くなる。慌てて背を向けた。肘をつき、外の景色へと目をやる。
「おう、きたぞ。去年も今ごろだったな」
「ふたりだけじゃなかったけど」
 いちおうフォロー。
 去年は今年と違って時間ぎりぎりまでプールで遊んでいたため、この大浴場にくるのはこれが初めてだ。帰りがけにこういう場所があるのを知り、美沙希先輩がいたく興味を示した。次にきたときには絶対に入ると言っていたのだが、結局、そのまま今日までくる機会がなかったのである。彼女が今こうやって堪能しているのは、そういう理由からだ。
「それが何か?」
「わたしの知らない藤間くんだと思ったの。去年ならもう同じ学校に通っていたはずなのに」
「んなの当たり前だろ」
 美沙希先輩が鼻で笑う。
「逆に、槙坂にはアタシらの知らない槙坂があって、真なんかけっこうそれが気になったりするんだぜ?」
「勝手なことを言わないでください」
 そんなの気にしたこともない。
「ほー、そうか。じゃあ、いいことおしえてやるよ。さっき槙坂な、お前がいないときにナンパされてたぞ?」
「そうなのか? なんか妙なこと言われたりされたりしなかったか?」
 思わず振り返る。
「あ……」
 そこは槙坂先輩の驚いた顔と、美沙希先輩のニヤニヤ顔があった。ばつの悪さにまた背を向ける。
「ああ、そういやあの男、槙坂に声をかけながら、ジロジロと体を見てたな」
 それは赦しがたいな。
「槙坂。今あいつ赦せねぇとか思ってるぞ、絶対」
「……」
 美沙希先輩の耳打ちするような声は聞えよがし。
「ま、そりゃそうだろうな。自分は恥ずかしくてちゃんと見れないんだもんな」
「あら、藤間くんはそんないやらしい子じゃないわ」
 槙坂先輩の擁護が入る。
 僕本人を目の前に僕のネタで盛り上がらないでほしいものだ。
「そうか? あいつだって男なんだから、こういうことされたら喜ぶだろ。……そらっ」
「きゃあっ!」
「うわっ」
 美沙希先輩に突き飛ばされたのか、いきなり後ろから槙坂先輩が抱きついてきた。
「ご、ごめんなさい。美沙希が……」
「それはいいから、早く離れてくれ」
 完全に密着状態。
 おかげで背中に感じるやわらかい感触と彼女の体温を、眩暈がするほど意識してしまう。
「でも、それが……」
 口ごもる槙坂先輩。
 
「……美沙希にブラを取られたの」
 
「……」
 とりあえず僕は、必死で頭の中を数学と物理の公式で埋め尽くした。
 
 ようやく『ウォーターワールド・バシャーン』での一日が終わり――今は帰路の途中、僕と槙坂涼はふたり並んで歩いていた。
 夏といえども夜七時を過ぎれば、外はもう暗い。
 美沙希先輩の命令で僕は槙坂先輩を送っていくことになり、しかし、それを命じた本人は早々に別の駅で降りてしまっていた。
「今日は楽しかった。まさか藤間くんのほうからプールに誘ってくれるとは思わなかったわ」
「誘ったのは僕じゃなくて美沙希先輩だけどな」
 僕はむしろそれを邪魔しようとした側だ。
「聞きたいんだが――僕がいないときに、その、男に声をかけられたって本当なのか?」
 歩きつつタイミングを見て切り出す。
 大浴場で出た話だ。あのときも真偽を問うたが、結局、返事を聞きそびれている。僕をからかうための、美沙希先輩の作り話という可能性もないわけではない。
「ええ、本当よ」
 だが、槙坂先輩はあっけらかんとした調子で、あっさりと肯定した。
「でも、軽くあしらってやったわ。やっぱり彼氏のいる女としては、これくらいできないとダメね。前にそれで藤間くんに怪我をさせることになったし」
「だ――」
「誰が彼氏かなんて言わせないでね?」
「……了解」
 にこやかに言葉で制され、僕は了承せざるを得なかった。
「それで、そいつが体を見てたっていうのも……?」
「さぁ? そばにいた美沙希がそう言うんだから本当なんじゃない? ……赦せない?」
「……別に」
「今は美沙希もいないわ。ふたりっきりよ?」
「……」
 別に美沙希先輩の前だから突っ張ってるわけじゃないんだがな。
 どうもさっきからうまくいかないな。機先を制されるというか、出鼻をくじかれるというか。今日の槙坂涼は手強い。防衛線を容易く破られてしまう。
「まぁ、赦せない、かな。……あなたは平気なのか?」
 さっきもまるで他人事のようだった。
「あのね藤間くん、プールなんだから水着を着てて当然でしょ? それを見るなというほうが勝手な話だと思わない?」
「それはそうだが……」
「見てくださいとか、ジロジロ見られても平気とまでは言わないけど、多少視線を集めるくらいは織り込み済みよ」
 さすが槙坂涼というところか。堂々としている。
「それよりももっと嫌なことがあるの。何かわかる? それはね、いちばん見てほしい人が見てくれないことよ」
 だが、槙坂先輩は一転、怒ったようにそれを突きつけてきた。
「別に見ていなかったわけじゃない」
 ただ、僕が真正面から見る度胸や図太さ、あるいは男らしさみたいなものを持ち合わせていないだけで。
「じゃあ、ご感想は?」
「……なかなかいい水着だったと思う」
 僕はどうにかそれだけを言った。
「褒めるのは水着なのね。まぁ、いいわ。がんばって選んだのよ。女の子の水着選びって大変なんだから。ただ単に藤間くんに喜んでもらうためだけなら、大胆で過激なのにすればいいけど――」
「人を欲望に忠実な動物みたいに言わないでくれ」
 人聞きの悪い。
 だが、槙坂先輩は無視して続ける。
「でも、そんなのは同じ女から見たら男に媚びてると思われるもの。同性をうならせるようなのじゃないと」
「そういうものなのか」
 面倒な話だな。
「それにしてはずいぶんとシンプルだった気がするが」
「……それは、いろいろ考えすぎてわからなくなったのよ。どれがいいか」
 ばつが悪そうに白状する槙坂先輩。
 そりゃあ、それだけ考えることがあれば混乱もするだろう。何かの実験で、人は考慮する要素や選択肢が多いほど結論を誤るという結果が出ているくらいだ。
「まぁ、シンプルだけどセンスのいいものを選んだんじゃないか」
 僕は見かねて、慰めにもならないようなフォローを口にした。
「そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、さっきから水着しか褒めてくれないのね。わたし自身も含めて褒めてもらうには、嫌というほど見せてあげないとダメかしら。それとも水着は邪魔?」
「え、いや、それは……」
 じゃ、邪魔!?
「今日、家に両親はいないの。それとも落ち着かないなら藤間くんの部屋にする?」
「どっちもダメに決まってるだろ!?」
 もうここで帰るべきだろうか。彼女の家はすぐそこだ。
 と、本気で考えていたら、横で槙坂先輩がくすくすと笑いだした。
「冗談よ。恥ずかしがり屋さんの藤間くんをいじめるのはこれくらいにしておきましょうか」
「……」
 やっぱり帰ろう、ここで。
 故人曰く、三十六計逃げるに如かず。戦っても勝てないなら逃げるべきだろうな。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2013年11月16日公開

 


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