8月の上旬、今日も朝から快晴だった。
 むしろそんな言葉すら生易しく、猛暑、酷暑の類である。高層マンションの上層に住んでいると太陽が近いせいか、砂漠の真ん中で磔にされて炙られているような気分になる。雨はここしばらく降っていない。まとまった雨でも降れば少しは涼しくなるのだろうが、半端に降られるとすぐに陽が差して湿度と不快指数だけが跳ね上がるなんて結果になりかねない。
 これでも国の方針に協力的な一般市民のつもりなので、昼間から極力エアコンは点けないようにしている。が、さすがに今日の暑さは限界だ。ソファで読書をしていた僕は、その本を閉じ、テーブルの上に放り出した。図書館かコーヒーショップにでも避難するか。カレンダで今日の曜日を確認し――図書館に決める。
 と、そのとき、エントランスのチャイムが鳴った。
 誰かきたらしい。ソファから立ち上がり、インターフォンに出る。
「……はい」
 
『きちゃった』
 
「……」
 見ればわかる。
 連動してついたモニタには、しっかりと槙坂涼の姿が映しだされていた。
『開けてくれる?』
「勝手にどうぞ。因みに、暗証番号を入れないと開かないが」
『せめてヒントをちょうだい』
 まぁ、ヒントくらいはかまわないか。ヒントにもならないヒントを与えて、それで音を上げてくれたら、突然の襲撃を受けた僕の溜飲も下がるというものだ。降参したらエントランスのドアを開けて、そこで待っていてもらおう。
「ひとケタと三桁の完全数をかけた数字だ」
『つまり、2976ね』
 モニタを見れば槙坂先輩が、開いたドアへと入っていくところだった。……くそ。瞬殺か。彼女の知識と計算能力を甘く見た。近いうちに暗証番号を変えないと。
 僕はそこから離れると、素早く身支度を整え、勉強道具を鞄に放り込んで家を出た。
「あら、お出かけ?」
 ちょうど槙坂先輩が上がってきたところだった。
 今日の彼女は赤いチェックのミニスカートに、白いシャツとカーディガンを大人っぽく着こなしている。トップスはどちらもノースリーブなので腕が肩から剥き出しだ。この陽射しで焼けなければいいがと心配してしまった。普通に日焼け止めくらいは塗っているか。
「ああ。幸か不幸か、ね」
「そうなの? じゃあ、わたしはどうしたらいいかしら。一緒に行く? それとも家で待っていたほうがいい?」
 帰るという選択肢はないらしい。まぁ、僕にも帰すという選択肢はないが。
「家で待ってたほうがいいなら、食事でも作ってるわ。勿論、藤間くんが帰ってきたら、"お帰りなさい、あなた。食事にする? 先にお風呂? それとも――」
「わかった一緒に行こう」
 同じ学校に通う先輩にそんなことさせられるかよ。
 エントランスから上がってきたばかりの槙坂先輩をつれて、僕はエレベータで下へと降りた。
 
 炎天下の街を歩く。
 昼前。
 室内の暑さに耐えかねて外に飛び出しただけあって、真夏の日中に外出するタイミングとしては最悪と言えるだろう。
 隣を歩く槙坂涼は、こんなときでも涼しい顔で澄ましている。
「槙坂先輩、昼食は?」
 その彼女に僕は問う。
「まだよ。藤間くんの家にあるもので何か簡単なものでも作ろうと思っていたの。……藤間くんは?」
「僕もまだだ。じゃあ、先に何か食べていくか」
 こんなことなら何か食べてからにすればよかったな。労せず食事が出てくるなら、と思わなくもないが、いや、やはり槙坂先輩を家に上げる脅威のほうが勝るか。
「それはそうと、今からどこに行くの?」
 今ごろ聞くかよ。
「あまりにも暑いんでね、図書館に避難しようと思ってた。こういうときアメリカだと一石二鳥なんだがな」
「どういうこと?」
「アメリカで安く食事をしたいなら図書館に行けばいいと言われてるんだ。向こうの公共図書館は、コーヒーショップや軽い食事のできる店が一緒に入っていることが多い」
「日本じゃあまりそういう図書館は見ないわね」
「ないこともないんだけどな」
 地方の公共図書館で有名レンタルショップが業務を委託され、さらにコーヒーショップの店舗まで招致したのは記憶に新しい。また、こういうのは限定サービスである大学図書館のほうが思い切った改革がしやすいのか、図書館の一部を洒落たカフェのようにしてしまった大学もある。関西の女子大だ。
「この辺は欧米と日本のスタンスの違いだろうな」
「どう違うの?」
「簡単に言うと、欧米の図書館は腰を落ち着けて勉強する場所なんだ。だから、一日中いられるように施設内に飲食店がある。対して日本は、ただ本を借りるための場所としか認識されていない。買いものや何かのついでに立ち寄る程度のところになってしまっている。机でじっくり勉強をしていたら嫌な顔をされることもあるし、小さな分館だと閲覧席がほとんどないところもある」
 日本の公共図書館が『無料貸し本屋』と揶揄される所以だ。
 おかげでこんな話がある。ある図書館が利便性を高めようとコンビニや駅などに返却のためのブックポストを設置したら、逆に利用者が減ったのだという。図書館が本を借りる場所としか思われていない証拠だ。借りて返して、また借りてのサイクルが途切れると、人は途端に足を運ばなくなる。
 僕もそれが悪いことだとは思わない。アメリカで最初の大規模公共図書館、ボストン公共図書館の設立に携わったジョージ・ティクナも、図書館は読書の習慣をつけるための通俗図書館(ポピュラー・ライブラリ)であるべきだと主張した。僕としては参考調査図書館であるべきというエドワード・エヴァレットの考えを支持するが。
 日本は図書館行政を誤ったと思う。刑務所があくまで更生施設、社会復帰のための場だと主張するなら、欧米のように刑務所図書館をもっと積極的に設置するべきだろう。先進国では日本だけが著しく刑務所図書館の機能が弱いのは明らかだ。
 そんなことをつらつらと語っていると、隣で槙坂先輩が小さく笑い出した。
「相変わらず図書館に詳しくて、自分の考えを持っているのね」
「……」
 少ししゃべりすぎたか。
 
 ファミレスで軽く昼食をすませてから図書館へと向かった。
 そこはこの地区の中央図書館で、今の僕の家からは歩いていくことができる。中学生のころから電車に乗って通ってもいた。
 ロビーに足を踏み入れれば、空調で下げられた空気が一気に体を包んだ。家からここまで徒歩圏内なのはいいが、やはり夏はきついな。生き返る思いだ。
「ずいぶんと広いロビーね」
 そう感想をもらすのは相変わらず涼やかな顔の槙坂先輩。手にハンカチを持っているので、汗はかいたのだろうけど。
「広いのも当然さ。ここは体育館も併設されていて、ロビーが共通になっているんだ」
 ロビーの正面左手に図書館の入り口が見えている。逆にここを右に行き、奥に進むと体育館がある。地上四階、地下一階の図書館に体育館がくっついているような構造だ。
 正面右寄りの壁面にはホワイトボードが設置されていて、今週体育館を利用する団体の名前が書かれていた。僕はそれを確認してから体を体育館のほうへと向けた。
「行ってみようか」
「体育館に?」
「そう」
 短く答え、歩を進める。槙坂先輩もついてきた。
 まずは健常者用、障碍者用の化粧室があり、その先を曲がると体育館の入り口がふたつあった。尤も、単にふたつあるというだけで、同じところにつながっているのだが。
 角を曲がったあたりでバスケットボールをつく独特の音が聞こえてきた。練習中であろうことを想像させる声も。ただし、普通ならそれにつきもののバッシュを踏みしめる高い音が聞こえないのだが、それに気づくのはバスケットボールをよく知る人間だけだろう。
 出入り口からでも中を窺えないこともないが、左右が観客席になってせり上がっているのであまり見通しはよくない。もう少し這入り、コート全体を見渡せる場所にまで足を進める。
「これって唯子の?」
 バッシュの音が聞こえないのも当然だ。中で練習しているのは車椅子バスケのチームなのだから。ここには伏見唯子先輩も所属している。
「夏休みは毎週この曜日に練習しているらしい」
「唯子は……いたわ。あれね」
 今はちょうど速攻の練習をしているらしく、車椅子を滑らせながらパスを回し、シュートしていく。車輪がついているから当然と言ってしまっていいのかわからないが、なかなかのスピード感だ。伏見先輩もいる。
「声をかけてもいいのかしら?」
 思わぬところで友人の姿を目にした槙坂先輩が嬉しそうに聞いてくる。
「あまり歓迎されないんじゃないか」
「聞いてみるわ」
 僕の意見など欠片も参考にせず、彼女はコート脇に立つコーチらしき女性に歩み寄った。短いやり取りが交わされ、その後、女性コーチは伏見先輩の名前を呼んだ。どうやらお許しが出たようだ。それくらいの融通は利くのか、それとも槙坂涼の力か。
 伏見先輩がハンドリムを回しながら戻ってくる。そして、すぐに槙坂先輩に気づき、笑顔を見せた。こうなっては僕だけ離れているわけにはいくまい。僕も近くに寄った。
「おー、涼さん。それに藤間くんも。……もしかして図書館デート?」
 途中、コート脇の自分の荷物からタオルを拾い上げてから、汗を拭き拭きやってきた彼女は、僕たちふたりを見るなりにやにやと笑う。
 伏見先輩は、不自由な身体ながらそれをものともせずスポーツに打ち込む人だが、こういう話が好きな人でもある。そういう意味ではどんなハンデを抱えていようが、どこにでもいる女子高生ということなのだろうな。
「ええ。藤間くんが『薔薇の名前』を読む横で、わたしがアリストテレスの『詩学』を読むの。そんなデート」
 槙坂先輩もさらりと笑って答える。
 たぶん伏見先輩にはさっぱり意味がわからないと思うのだがな。実際、首を傾げている。
「本当はそんないいものじゃなくて、ただ藤間くんの家に遊びにいっただけなの」
「うわ、涼さんダイタン」
 驚嘆する伏見先輩。実にまっとうな反応だと思う。
「お昼でも作ってあげようと思ったんだけど、ちょうど出かけるところだったみたいで」
「いったい今どういう関係?」
 彼女は首を傾げつつ、こちらへと向く。
「一緒に図書館にくる程度の関係ですよ」
 少なくとも食事を作ってもらうのが当たり前の関係ではない。
「前はふたりっきりで遊園地に行ったくせに」
 そういえばあったな、そういうことも。
「そういう唯子は練習なのね」
「そう。普段だと日曜だけだけど、夏休み中は週二。今のうちにしっかり練習しておかないと」
 楽しげだな。僕も中学のときにはクラブに入っていたが、それも一年で辞めてしまった。当時はあまり集団行動に向いている性格ではなく、楽しいとも思えなかったからだ。なので、僕には伏見先輩の気持ちはあまり理解できない。皆でひとつのこと成し遂げる喜びを知った今なら、部活動もそれなりに楽しめるのだろうか。
「藤間くんはよくこの図書館に?」
「ええ。中学のときから利用してます」
「む、相変わらず文系男子なやつ」
 伏見先輩は笑いながら言う。
「あたしもそのころにはここにきてたかな。もしかしたら知らずにすれ違ってたりするかもね」
「ですね」
 僕は話を合わせ、そうとだけ答えておいた。
「おっと、そろそろ戻らないと。声をかけてくれて嬉しかった。よかったらこの後……って、デートの邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、涼さん、また連絡するね」
「ええ。唯子も練習がんばってね」
 言葉を交わすふたりの横で僕は軽く頭を下げ、挨拶の代わりにする。
 伏見先輩は練習に戻っていった。
 僕と槙坂先輩はそれを見送ってから体育館を後にした。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2013年11月28日公開

 


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