毎日歩いているはずのマンションの廊下は、どことなくいつもと違って見えた。 槙坂先輩が一緒にいるからだろうか。 いや、確かにそれもあるかもしれないが、それは表面的なものに過ぎない。本当の理由はもっと奥、今ここに彼女がいる意味にあるに違いない。初めての行為の後は景色が違って見えるというのはよく聞く話だが、どうやらその前にも起こるらしい。 逆説的な考えになるが――そうするとこの先に待ち受けているのは、間違いなくそういう流れということか。 ドアの鍵を開けて中に這入り、リビングまで進んだ。夕闇に飲まれかけていた室内の照明を点ける。ついでにすぐそばにあるスイッチも押すと、開け放たれたままだったカーテンも自動で閉まっていく。 「どうする?」 槙坂先輩はここまで黙ってついてきた。 「コーヒーでも淹れようか?」 「ううん。それより先にお風呂に入らせて」 この後のことを否応なく連想させる発言に、僕はぎょっとしてしまう。 だが、槙坂先輩には少なくとも今の言葉に他意はなかったようで、苦笑しながら言葉を継いだ。 「さすがに少し寒くなってきたもの。それにこのまま濡れた服を着てもいられないでしょ?」 「あ、ああ。そうだな」 それもそうか。いくら夏とは言え、服が濡れたままでは体も冷えてくる。一度湯に浸かって温めたほうがいいだろう。 「使い方はわかるか?」 「大丈夫よ。前に一度使っているもの」 そうだったな。 僕は風呂場の中をさっと確認する。特に異常なし。それから脱衣場の戸棚からバスタオルを出す。以前槙坂先輩が使ったのと同じものだ。まだいくつか新品があるが毎度毎度新しいものを出してこられても気が引けるだろう。ついでに自分のタオルを手に取ってから戻った。 「洗濯機も使わせてもらうわね」 「ああ」 出てきた僕と入れ違いに、槙坂先輩が脱衣場へと入っていく。僕はタオルで髪を拭きながら、その姿を見送った。 私室でラフな部屋着に着替え、リビングに舞い戻る。 キッチンでコーヒーメーカーをセットした後、ソファに身を沈め、ため息にも似た長い息を吐き出した。が、それでも気持ちはぜんぜん落ち着かない。いくつかドアを隔てたその向こうで、彼女が風呂に入っているからだろうか。槙坂先輩が言うように、前にも彼女は同じことをしているのだが、あのとき僕は熱を出して眠っていた。実質、こんな状況はこれが初めてだ。 あの槙坂涼が僕の部屋で風呂に入っているだって? 悪い冗談だ。そう思いたいが、しかし、これは間違いなく僕の意志だ。僕が望んだことだ。 静寂を埋めるためにテレビを点け、僕はくだらないことを考えはじめる、 さて、行為の知識とはどこで得たのだったか。 気づけば知っていたように思う。メディアで知って衝撃を受けた覚えはない。学校で性教育の時間はあったが、中学のときは通り一遍のもので、多少突っ込んだ話をした高校のときにはすでに知識はあった。友人からだろうか? 周りよりひと足先にそういう知識をもっていたやつは何人かいたようだが、知らない友人にわざわざおしえるような悪趣味なやつはいなかった。 やはり種を残すための知識は、本能や遺伝子からくるということか。本能で漠然と理解していたからこそ、メディアは知識の補強でしかなかったのだろう。 そんなどうでもいいことをつらつらと考えているうちにコーヒーができ上がった。コーヒーメーカーの電子音がそれを伝えてくる。特に味を楽しもうと思って淹れたものでもなかったので、コーヒーをマグカップに注ぐと、そこに適当な量の牛乳をぶち込んで飲む。 ソファに戻った辺りで忘れていた蒸し暑さを再び感じはじめ、エアコンのスイッチを入れた。 ただ何かをしていないと落ち着かないからという理由だけでぬるいコーヒーを飲んでいると、脱衣場のドアが開く音が聞こえた。どうやら無意識のうちのテレビのボリュームを普段より大きくしていたらしいのだが、にも拘らずその音は明晰に僕の耳に届いた。 「……お待たせ」 現れた槙坂先輩は体にバスタオルを巻いただけの姿だった。 湿ったバスタオルが貼りつき、彼女の体を隠してはいても、起伏に富んだその体のラインはまったく隠せてはいなかった。首から肩、腕にかけての見えている部分も、風呂上りで血色がよくなっているせいか、昼間に見たときとは比べものにならないくらい艶めかしく見えた。 単純な露出度ならプールに行ったときの水着のほうが上だ。だが、今は大部分を覆ってはいるが、それはタオル一枚だけの頼りないもの。その危うさが僕の呼吸を止めそうになる。 手に持ったマグカップを落としかけ、ようやく気づいた。洗濯機に服を放り込んでしまえば、こうなるのは当然のことだ。 「悪い。気が回らなかった。何か着れるものを持ってくる」 目を逸らさねばという思いもあったので、僕は慌てて立ち上がり、私室へと体を向けた。とりあえずTシャツでいいだろうか。 「待って」 しかし、呼び止められる。 「その……藤間くんさえよかったら、もう……」 消え入りそうな声で言う槙坂先輩。 すでに足を止めていた僕だが、このひと言ですべての動きが止まってしまう。一緒に心臓まで止まってしまいそうな致死量のひと言だ。 背中を向けたままで僕は問う。 「……いいのか?」 「そのつもりでここまできたのよ?」 彼女はさっきよりもはっきりした口調に、かすかに笑みすら含ませていた。 意を決して振り返れば、変わらずバスタオル姿の槙坂先輩がそこにいた。意志は固そうだった。ならば、僕だってもう迷ってはいられない。 「寝室はあっちなんだ」 そんなことわざわざ言うまでもなく彼女は知っているはずだ。僕が風邪をひいて槙坂先輩が泊まったあの日、僕がそこに出入りしているのを見ているのだから。 彼女の手を引き、寝室へと這入る。 空いている手で真っ暗な部屋に明かりを灯した。 「ごめんなさい。恥ずかしいから電気は……」 「……わかった」 点けたばかりの照明を消し、代わりに別のスイッチを入れた。部屋の隅にある間接照明だ。僕が寝るときに点けているもので、睡眠の邪魔にならない程度の光量しかない。これには彼女も何も言わなかった。 ベッドに並んで腰を下ろす。 腰をひねるようにして向かい合えば、お互いの顔ははっきりと確認できた。 どちらからともなく唇を重ね――そのままベッドに倒れ込んだ。僕が押し倒したのか、彼女が引っ張り込んだのか。それとも暗黙の裡によるふたりの呼吸だったのか。 互いに貪るように、息も絶え絶えになるほど唇を奪い合う。 彼女の体を覆っていたバスタオルはいつの間にかなくなっていた。僕が剥ぎ取ったのか、乱れているうちにはだけてしまったのかは覚えていない。露わになった彼女の肢体を、僕は丁寧に触れていく。やがて槙坂先輩の呼吸の中に切なげなものが混じりはじめ、押し殺すように喘ぎ出した。 そこから僕の中では、知識と好奇心のせめぎ合いだった。 どこかで得た幼い知識と、その知識しか裏打ちのない拙い指使いで彼女を導きたいという思い。その一方で、どこに触れたらどんな反応を見せてくれるのだろうという好奇心――ある種の嗜虐心があった。 行為をはじめてから、一切言葉はなかった。そんな余裕もなく、ただただ夢中で僕は槙坂先輩の体を求め、彼女もそれに応じてくれる。 やがて初めての言葉が彼女の口から発せられた。 「……きて」 暗闇の中、槙坂先輩はその潤んだ瞳の中に僕の姿を映しながら、そう囁いた。いや、本当にそう言ったのだろうか。口がそう動いただけかもしれないし、ただの僕の錯覚だったかもしれない。 でも、それが合図だった。 僕は彼女の中心をゆっくりと貫いた。 まるでそれは光の中に飛び込むような感覚で、僕の意識はその光に溶けていくようだった。 今度は理性と本能の間で揺れる。 僕の前に苦しみに耐えるような槙坂先輩がいた。僕が与える刺激に合わせて戸惑いながらも艶めかしく喘いでいた先ほどとは違い、今は透明できれいな何かの結晶のような涙が目尻に浮かんでいる。苦痛が過ぎ去るのをただじっと待っているような。そんな彼女を見て大事に扱わなくてはいけないと思う反面、欲望のままめちゃくちゃにしてしまいたいとも思ってしまうのを抑えられなかった。 正直、後のことはよく覚えていない。 ただ、絡み合う中で何かの拍子に槙坂先輩が身を起こしたとき、乱れる彼女の裸身がカーテンの隙間から差し込む月明かりに浮かび上がり、それが息を飲むほどきれいだったのを鮮明に覚えている。 次第に僕たちは、動きも呼吸も、何もかもが重なっていった。 初めての行為は、無我夢中のうちに終わった。 僕はベッドの上で突っ伏し、隣では槙坂先輩が仰向けで身を横たえている。ふたりとも息が上がっていて、呼吸に合わせて体を大きく上下させていた。 「意外に疲れるものね」 少しずつ呼吸が整ってきた槙坂先輩が、可笑しそうにそんなことを言った。 この疲れの多くは、初めてする行為への緊張によるものだろうと思う。 「藤間くんが風邪をひいているときにしなくてよかったわ」 「ちょっと待て」 なんだその不穏な発言は。 あのとき、何もしないという約束で美沙希先輩が許可を出したんじゃなかったか? 普通、女にさせる約束ではない気もするが。 「美沙希は期待してたみたいよ。わたしたちの間で何かあること」 「……」 何を考えているんだろうな、あの人は。僕を殺したいのだろうか。まぁ、どちらかをけしかけたわけじゃないから、本当に期待していただけなのだろうけど。 「ああ、忘れていたわ」 不意に槙坂先輩が声を上げた。 「ベッドの上くらいは名前で呼び合いたかったのよね」 「……」 正直なところ、そんな余裕は皆無だったな。僕だってこういうときは甘い言葉が交わされるのだと思っていた。だが、実際にはそんなのはどこにもなく、ただただ夢中だった。 「ねぇ、次はそうしてくれる?」 疲れ果ててまだ伏せたままだった僕の背に彼女がのしかかってきて、耳元で囁く。 「つ、次!?」 いろんなことに驚いてしまった。 不意打ちみたいにして肌と肌が再び触れ合ったこともそうだが、次なんてこと考えてもみなかった。普通に考えれば、これで終わりではない。互いの気持ちが重なれば、またこうして"する"のだろう。 「知るかよ、そんなこと」 僕は今さらながら、とんでもないことをやらかしてしまった気がして――槙坂先輩を払いのけると、タオルケットを引き寄せ背を向けた。 くすくすと槙坂の笑い声が聞こえてきた。 目が覚めると朝だった。 どうやら疲れと緊張による消耗で、あのまま僕は泥のような眠りについてしまったらしい。 隣に彼女の姿はなかった。先に起きているのだろうか。僕は床に散らばっていた服を着ると、寝室を出た。 「あら、おはよう」 迎えてくれたのは明るい調子の槙坂先輩の声と、ほのかに卵を焼く香り。――かくして、キッチンに彼女はいた。朝食の準備をしていたらしい。 「お腹すいてるでしょう? 昨日、結局夕食も食べずに……だったから」 「あ、ああ、そうだな」 それはいいのだが――、 「なんて恰好をしてるんだ……」 彼女はカッターシャツを着ていた。胸のポケット部分に明慧の校章の刺繍入り。間違いなく僕のだ。 そして、それだけ。 着ているのは、それだけだった。 いや、待て。 「ああ、これ? 着るものがなくて。何か借りようと思って藤間くんの部屋を覗いたら、ハンガーに吊るしてあったから」 「……」 確かに学校が夏休みに入ってからも、カッターシャツはハンガーにかけて壁のフックに吊るしたままにしてあったが――まぁ、あちこち探られるよりはマシだと思っておくか。 「それでもそれはないだろう……」 カッターシャツの裾からは、すらりとした足が剥き出しのまま伸びている。そして、素足にスリッパ。 「大丈夫よ。下着は上も下もちゃんとつけてるわ」 「だったらほかも着てくれ」 高層マンションでは洗濯乾燥機は必須アイテム。どれもこれも昨夜のうちに乾いているはずだ。 「ダメよ。スカートもシャツも、まだしわくちゃだもの」 「……わかった。後でアイロンを貸す」 いや、その前に何か彼女でも着れるものを探すのが先か。 僕は改めて槙坂先輩を見る。 さすがに僕のカッターシャツは彼女には大きいらしく、かなりゆったりと着る感じになっている。それが幸いして、裾から下着が見えるようなこともなかった。 「えっと、その、それでもジロジロ見られると、それはそれで恥ずかしいのだけど、ね……」 槙坂先輩は急に居心地悪そうな様子で、さほど乱れてもいないシャツの裾を直し、下へと引っ張ったりしはじめる。 「わ、悪い……」 昨夜あんなことをしておいて、それでも見られるのは恥ずかしいのか。わからない――というのは、きっと安直で勝手な男の理屈なんだろうな。 僕はハイチェアのカウンターダイニングに腰を下ろした。極力彼女を見ないような姿勢を取るが、どうにも落ち着かない気分だった。昨日ついにそのラインを越えてしまったからだろう。料理をする槙坂先輩の背中を盗み見れば、一方の彼女はいたって普段通り。今朝になって僕と顔を合わせても動じた様子はない。ずいぶんと不公平な話だな。 「僕は男だからよくわからなくて、これももしかしたら無神経な質問なのかもしれないんだが――体、大丈夫なのか?」 それは兎も角として、初めての行為の後の影響はあったりするのだろうか。少し気になって僕は問うた。 「心配してくれるの? 嬉しい」 ガスコンロの火を止め振り返った槙坂先輩は、無邪気にも見える笑顔を浮かべる。 「そうね。まだ少し下腹部に違和感があるけど、特に心配はないわ」 「そ、そうか。ならいいんだ」 反応に困る返事が返ってきてしまった。下腹部に手を当てる彼女から目を逸らす。 「ところで――」 と、切り出した槙坂先輩はカウンターダイニングを挟んで僕の正面に立つと、テーブルに両肘を突き、組んだ指の上に顎を乗せた。その構造は今の恰好とも相まって、横から見たらさぞかし色気があるだろうが……やめてくれ。今僕を真っ正面から見るのは。 「わたしに言うことはない?」 その言葉が僕を責めているように聞こえてしまうのは、多少なりとも心当たりがあるせいだ。 行為の最中、僕はできるだけ彼女を丁寧に扱おうとした。でも、それでも僕の中に抑えきれないものがあったのは確かだ。欲望に流されるようにして、彼女のことを十分に考えることができていなかったかもしれない。だから、昨夜のことで彼女にひどい男だと思われている可能性はおおいにあると思う。それどころかひそかに怒っていてもおかしくはない。もしそうなら素直に謝るべきだろう。今後のためにも。……今後のためにも!? 「何をだろうか……?」 僕はおそるおそる聞き返す。 「そろそろ言いたくなったんじゃないかと思ったの」 「今度の旅行のとき、やっぱり部屋はダブルにしないかって」 「……」 ……。 ……。 ……。 「それは、ない」 僕はどうにかきっぱりと言い切った。 「シングルふたつで予約したと言っただろう」 尤も、一瞬今からでも変更が利くだろうかと考えてしまい、そんなことは口が裂けても言えないこと――なのだが、おそらく見透かされているに違いない。 その証拠にさっきから彼女は、僕の顔を見たまま機嫌のいい猫のように笑っているのだから。 その女、小悪魔につき――。 2013年12月19日公開 |
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