明慧学院大学附属高校は二期(セメスター)制を採用している。
 だから、前期と後期の間に秋休みがある分、夏休みは普通の高校に比べて短い。そして、夏休み明けは新学期でも何でもないため、始業式はなく、いきなり初日から授業がはじまるわけである。
「ヤバい。さっぱりわからん」
 その初日の授業の最中、隣に座る浮田がうめくようにつぶやいた。
 どうやら夏休み中遊び呆けていて、休み前にやっていた授業の内容をきれいさっぱり忘れてしまっているようだ。とりあえずホワイトボードに書かれたことはノートに書き写しているようだが、意味が分からないまま写しているせいかヴォイニッチ手稿みたいになっている。後で自分で解読するのだろうな。しかも、本家ヴォイニッチ手稿と違って学術的探究心からではなく、もっと切迫した理由によって。
「ま、がんばって思い出すんだな」
「ちっ、余裕ぶりやがって。これだから遊びもせず勉強ばかりやってる真面目クンは」
 浮田が忌々しげに舌打ちする。
「別に勉強ばっかりってわけでもないさ。それなりに遊んでたよ。旅行にも行ったし、夏らしくプールにも行ってきた」
「ちょっと待て。プールって、誰と?」
 プールは彼にとって聞き捨てならないフレーズだったようだ。
「……今浮田が思い描いてる人物だよ」
「お前ぇ!?」
 そして、授業中にも拘らず絶叫して立ち上がるバカ。
『そこ、何を騒いでいる』
 当然、すかさず先生の叱責が飛んできた。大教室故にマイクを通しての声だ。
「す、すいませんっ」
 謝る浮田の横で、僕は彼にだけ聞こえる音量で「バカめ……」とつぶやいた。
 着席した浮田は、しかし、まだ話題を終わらせない。
「写真とかないの? あるなら十万まで出す」
「残念ながら」
 あるのは僕の頭の中だけだ。
 加えてさらに残念ながら、仮にあったとしても、いくら金を積まれたところで譲る気はないのである。
 もともとそのつもりはないが、この調子だと旅行のことは口が裂けても言えないな。
 と、そのとき、スラックスのポケットの携帯電話が震えて着信を告げた。すぐに止まったのでメールのようだ。
「誰? 槙坂さん?」
 それを耳聡く聞きつけ、尋ねてくる浮田。
「何でだよ。授業中だろ」
 そう答えつつも、半々くらいの確率で彼女ではないかと疑っていた。
 が、現実には違っていて、端末のサブディスプレイに表示されたのは、雨ノ瀬由真の文字だった。なるほど。雨ノ瀬ならこの時間のメールも不思議ではないな。
 メールを開封する。
 
『突然だけど、今日会えない?』
 
 今日、か。
 僕は一旦端末を閉じ、考える。
 会うことに何も問題はない。もともと雨ノ瀬とは夏休み中に連絡をとっていて、近々久しぶりに会おうという話になっていた。
 そして、今日は今のところ特に何も用事は入っていない。
 尤も、時間の経過とともに予定が入る、というか、ねじ込まれる確率は高くなっていくだろうが。何せ、先日うちに泊まっていった以来、彼女とは今日まで会っていないし、今日もまだ顔を合わせていない。会った瞬間、何かが振りきれて、放課後どこかにつき合えと言われる可能性はおおいにある。
 なので、とっとと約束を受けてしまおう。
 僕は早速その旨を返信した。
 
 そうして放課後、
「藤間くん」
 ロッカーで荷物をまとめた後、外に出ようとしたところで、予想通り槙坂涼に声をかけられた。
「やっと話ができたわ」
 夏休み明けというのは、会う友人会う友人久しぶりに見る顔ばかりなので、自然、話が弾むものだ。当然、槙坂涼の周りもそうだった。実際、昼に学食で見かけたときも、彼女を慕う女子生徒や、久々のご挨拶や自己アピールしたい男どもに囲まれていた。きっと各教室でもそうだったことだろう。
「人気は相変わらずのようで何よりだ」
 そのせいでお互いに目を合わせつつも、言葉を交わすこともなく今に至る。
「おかしいわね。わたしに彼氏ができたら、興味を失くす子も出ると思ったのだけど」
「できてないからだろ」
 彼氏なんてものは。
「あら、大丈夫? そのあたりで変に突っ張ると、わたし、何を口走るかわからないわよ?」
「……」
 確かにな。
 やれるものならやってみろ、と言いたいところだが、槙坂先輩なら本当にやりそうで怖い。
「……きっと認知度がまだ低いんだろう。夏休みもあったことだし」
 このあたりが落としどころか。ずいぶんと防衛ラインが下がったものだな。
「なお、先に言っておくが、今日はその認知度を上げるための努力ができないので、そのつもりで頼むよ」
「そうなの?」
 問い返してくる槙坂先輩。
 そう意外そうに聞かないでほしいものだ。まるで僕がいつも暇みたいじゃないか。
「この後、用事があるんだ」
「わたしより大事な用事?」
「現状、槙坂先輩より大事な用は腐るほどあるよ。例えば、親類の冠婚葬祭とか、委員会関係の会合とかね」
 今のところ、どちらもその予定はないが。ただ、秋休み明け、後期の頭にある学園祭の運営委員に、今年は手を挙げようと考えている。雰囲気がわからないままやってもろくなことはできないだろうと思い、一年生だった去年はパスしたのだ。
「今日は?」
「中学のときの友人と会うんだ」
「……」
 と、そこでなぜか槙坂先輩は黙る。僕に探るような視線を向けてきた。おそらく友人と会うという僕の弁を疑っているわけではないのだろう。何かを探っているのだとしたら――、
「誤解のないように言っておくと、相手は男だ」
「……あなた、その言葉がわたしの直感を補強してるってわかってる?」
 これがいわゆる女の勘というやつか。おそろしいな。
「そんなわけで、今日のところはこれで失礼させてもらうよ。また明日」
 これ以上傷口を広げたくないので、見破られた嘘には触れず、僕は踵を返しひとり先に校門へと向かって歩き出す――が、数歩歩いたところでその足を止めた。嫌な予感、というか、胸騒ぎがしたのだ。
 振り返ると、さっきと同じ構造のまま僕を見送る槙坂先輩の姿があり、そして、彼女は――、
「安心して。こっそり後をついていったりはしないわ」
 そう言ってやけにきれいな笑みを、僕に見せるのだった。
「……なるほど。これが直感を補強する行為というものか」
「わかってもらえた?」
 よくわかった。僕が見事に墓穴を掘ったことが。
 問題は、槙坂涼が本当にその行動に出るかなのだが、まぁ、今ここで考えていても仕方あるまい。
 
 雨ノ瀬との待ち合わせは、地元の駅前だった。
 当然と言えば当然。普通は家から通える範囲の高校を選ぶもので、高校生で家を出るほうが珍しい。そして、それ以上に僕のように通えるくせに家を出るのは、さらにレアケースだろう。家庭に問題を抱えているのではないかと疑われるレベルだ。雨ノ瀬はもちろん前者。自然、待ち合わせはここになる。
 にしても、最近よく地元に戻ってくるな。今までは盆と正月、母が週末に休みをとれるときくらいしか帰っていなかったのに、ここ一ヶ月ほどで三度目だ。さて、今日はどうしようか。夜に母が家にいるようなら、夕食を食べに帰ろうか。
 などと考えているうちに、すでに待ち合わせの時間は過ぎていた。雨ノ瀬はまだきていない。
「まさか、な……」
 雨ノ瀬が遅れてくる理由に心当たりがないわけではない。が、さすがにそれはないだろうと否定する。否定したい。否定したいのだが、前科があるだけに否定しきれない。
 と、そのとき、僕の携帯電話が着信を告げてきた。噂をすれば何とやら、ではないが、雨ノ瀬からだった。しかも、音声通話。これで遅れるという連絡ならまだいいほうだろうな、と半ば諦めにも似た気持ちで電話に出る。
「はい」
『うわーん、藤間、ここどこー!?』
「……」
 やっぱりか。前科ものが過ちを繰り返しやがった。何年も暮らしてきた地元だろうに。なぜ迷うのだろうな。まぁ、それこそ前科ものなのだから今さらか。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2014年10月12日公開

 


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