三枝小枝は問う。 「部屋の本棚に留学関係の本がたくさんあったけど……あれ、なに?」 と――。 しまったな――正直そんな思いだ。カウンターダイニングのハイチェアに座りながら、僕は天を仰ぐように天井に目をやった。 あの部屋はいわゆる勉強部屋で、書籍の類は教科書や参考書などが主だ。そして、そこにはこえだが見つけた留学関係の資料も含まれている。ちょっと興味があって、と誤魔化せる量ではない。 自分の迂闊さを呪う。 「そうか。あれを見られたか」 見られてしまったのなら仕方がない。最初に話すのがこえだというのも、あまり真面目な話になりすぎなくていいのかもしれない。 「まだ身内にしか言ってない話なんだけど――僕は高校を卒業したらアメリカに留学しようと思ってるんだ」 「いつ、帰ってくるの?」 「帰ってこない」 言った瞬間、こえだが息を飲んだ。 「いや、それは大袈裟か」 むやみに驚かせてしまったことに苦笑しつつ、僕は訂正する。 「留学して順調に夢が叶えば、そのままアメリカに住むことになる」 アメリカで勉強して、なりたいものになって。そうしたら生活基盤は当然向こうに置くことになる。在学中もその後も、頻度はわからないけれど、休暇に帰国するといった感じになるのだろうな。 僕はアイスコーヒーで喉を潤してから、改めて話しはじめる。 「こえだ。僕はね、アメリカの図書館で司書になりたいんだ」 「司書?」 問い返してくるこえだ。 「知ってるだろ? 図書館のカウンタで貸出とか返却をやっている人」 本当はそれだけじゃないし、それだけしかできないようなら司書とは言えない。させない図書館も図書館ではない。 「日本じゃダメなの?」 「ダメだ」 僕はきっぱりと答えた。 「日本とアメリカの図書館は、もう別ものなんだ。……知ってるか? 司書は本来、スペシャリストなんだぞ」 アメリカで司書になろうと思ったらALA、アメリカ図書館協会が指定する大学で修士課程まで修めないとならない。大学の文系学科で単位をかき集めて資格を取得できる日本とは大違いだ。だから、僕は高校を卒業と同時にアメリカに渡る。 「蔵書を把握し、図書館コレクションを知り尽くし、地域のことまで理解した上で、専門的な相談(レファレンス)にも答えるだけの知識を頭に入れてこそ司書と言えるんだ」 アメリカの公共図書館の司書は専門化していることも少なくない。ビジネス支援をするビジネス・ライブラリアンや、法律の相談を受けるロー・ライブラリアンなどだ。……僕はいったいどんなライブラリアンになるのだろうな。今はまだわからないけど、自分がこれと思った分野で人の助けになりたいと思う。 「アメリカじゃ引っ越ししたらまず最初に図書館に行けと言われるくらいなんだ。地域のことは何でも知ってるからね。日本じゃ考えられないだろ?」 「うん……」 アメリカの図書館では講師を招いて学習塾のようなこともするし、企業と協力して就職支援もする。聞いた話によると、花を育てたいと言われれば花の種を配り、そのためのスコップまで貸すそうだ。もう何でもありだ。 日本には公民館というものがあるが、アメリカにはそれに該当する単語も施設もない。図書館がそれを担うからだ。 それに比べて日本の図書館は遅れている。もっと言えば、道を誤った。図書館を単なる無料の貸し本屋にしてしまったからだ。 図書館員を貸出返却、排架をするための人員としか見ていないから、指定管理者制度などで業務を委託してしまう。委託業者も数年でスタッフを入れ替える。これでは専門家が育つはずがない。 おそらく図書館学における図書館情報学や図書館サービス論、専門資料論といった各分野を文系の一科目にしてしまったのが誤りのもとなのだろう。これらを総合的に人間社会学に位置づけておけば、図書館も人間のあらゆる活動を支援するための施設になっていたに違いない。 「僕はアメリカの図書館のそういう在り方に憧れる。そこで司書になるのが僕の夢なんだ」 そう語った僕を、こえだはソファの上で膝を抱えたままじっと見ている。これだけ僕のはっきりした留学の動機を聞いても、彼女は不満そうだった。 「なんだよ、こえだ。そんなに僕がいなくなるのが寂しいのか?」 「ち、違うもんっ」 からかうように言ってやると、こえだは顔を赤くして否定した。 「日本に帰ってきたときはちゃんと連絡するよ。だいたいさ、ほっといたって僕が先に卒業して、そのまま疎遠になることだって十分にあるんだ。僕がどこにいるかなんてたいした問題じゃないだろ」 だが、我知らず多弁になる僕の言葉にかぶせるようにして、こえだは発音する。 「涼さんは――」 「ん?」 「涼さんはどうするの?」 「……」 その問いに、僕はすぐに答えられなかった。誤魔化すことも冗談で返すこともできず、ただ無言になる。 「置いてくの?」 「まぁ、そうなるな」 普通に考えればそれしかない。 「ダメ! つれていって」 こえだは抱えていた膝を下ろし、身を乗り出すようにしながら言葉鋭く僕に要求する。 「むちゃ言うなよ」 「どうして!?」 「どうしてってお前 むしろつれていくなんて選択肢のほうがあり得ないだろ」 僕は留学するためにアメリカに渡るのだ。夢を叶えたのなら兎も角、まだその途中。それどころか歩き出したばかりの第一歩だ。そこに誰かをつれていけるはずがない。 「真、無責任」 こえだは再び膝を抱えると、拗ねたような口調で僕を責める。 「涼さんのこと、好きなんでしょ?」 「……」 僕はこえだにずばり斬り込まれたことに驚き、言葉を失くす。 それから深々とため息を吐いて、明後日の方向を見つつようやく次句を継いだ。こえだにまで白々しい嘘を吐くこともないか。 「……まぁ、そうだよなぁ。ここでそんなことねーよって言っても、説得力はないよなぁ」 だけど、さらにこえだは、追い打ちをかけるようにぼそりとつぶやく。 「手をつないでデートして、別れ際にキスしてって――もうそんなのとっくに過ぎてるくせに」 「っ!?」 さすがにこれはクリティカルだ。言葉を失くすどころか、息が止まるかと思った。タイミングが悪かったらコーヒーを噴き出していたかもしれない。 「それでも置いてくんだ。真の無責任。サイテー」 「……」 無責任という単語が急に重く感じられ、こえだの台詞が胸に突き刺さってくる。……サイテーというのは、やはり男としてだろうか。返す言葉もないな。 「やっぱりお前は僕のことをよく見てくれてるな」 僕は思わず苦笑する。 まさかこえだにそこを言われるとは思わなかった。こいつも槙坂先輩や加々宮さんと同じく女だったということか。侮れないな。僕が抱いていたこえだ像があえなく崩壊していく。 「べ、別にそんなんじゃ……」 「悪いけど、それでも安易につれていくとは言えないよ。それこそ無責任の謗り免れない」 それを言うことは、槙坂涼の人生に責任をもつことと同義だ。アメリカに渡るころ、僕はまだ十八とか十九。そんな歳と学生という身分でとうていそんなことはできない。 こえだは僕の返事にむっとした顔を見せる。 「じゃあ、別れるの?」 「わからない。正直、僕はその問題を棚上げしてきたからね」 わかってはいたんだ。とっくに道は決まっていて、二年もすれば渡米する――いつかはそれを槙坂先輩に言わないといけないことくらいは。でも、言うタイミングを逃したまま彼女との関係を深めていって、よけいに言いにくくなってしまった。 「ひとりでわからないなら、一緒に考えればいいじゃん」 「うん?」 「涼さんにさ、早くそのこと言ってあげてよ。そしたら涼さんだっていろいろ考えることができるじゃん」 「……」 何というか、びっくりするほど前向きでまっとうな意見だな。羨ましくなる。そして、ようやくわかった。こえだが浮かない顔をしていたのは、僕と槙坂先輩のこの先を考えてのことだったのだと。 自然と笑みが浮かんでくる。 「そうだな。できるだけ早く言うようにするよ」 いつかは言っておかないといけないことなのだ。だったら、タイミングを見て言うしかないだろう。 「ほんと?」 「……努力はするさ」 でも、こえだはじっと僕を見る。疑いの眼差しだ。 僕はその視線にほんの少しだけ怯える。 こえだの勘が鋭いことはついさっき証明されたばかりだ。今のこいつなら僕の小さな嘘も見抜きそうだから。 「……悪い。ひとついいか?」 僕は切り出す。 「お前、いくらキュロットだからって、そんな座り方をしてたら見えるんだが」 こえだが今日穿いているのはプリーツキュロットパンツ。それでもソファの上で膝を抱えて座ったりしたら、太ももの裏側どころかキュロットの裾からけっこうきわどいところまで露わになってしまう。 彼女は弾かれたように足を下ろすと、両手でキュロットパンツの裾を押さえた。顔が真っ赤だ。 「前に水をかぶったときにも思ったけど、お前はあれだな、案外大人っぽいのをつけてるよな」 「テキトーなこと言うなっ。そこまで見えてないもん!」 「おっと」 こえだはソファに置いてあったクッションを全力で投げつけてきたが、僕は軽く片手でキャッチした。 「お前、人が飲んでるときにやめろよな」 「うるさい。真のばかっ」 僕がクッションを放り返すと、再び力いっぱい投げてくるこえだ。 この後しばらく、僕らはクッションのキャッチボールを続けたのだった。 その女、小悪魔につき――。 2014年12月28日公開 |
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