後期の授業が本格的にはじまった。
 結果から言うと、槙坂涼と同じ授業はひとつしかなかった。もとより三年の彼女は、後期に入ってしまえば取るべき授業の数は絶対的に少ない。相談して決めたわけでもないのに、ひとつでもあったのが奇跡だろう。前期に比べれば彼女の背中を眺めながら授業を受けることが一気に少なくなり、少しさびしくはあるが――これでいい。
 さて、後期にはいきなり大きなイベントがある。
 学園祭だ。
 かねてから決めていた通り、僕は実行委員に立候補した。もちろん、委員長などという重責は担いたくないので、こき使われる下っ端である。
 最初は週二回だった会合も、次第に当日が近づくにつれ頻度が上がってきた。今では毎日のように会議室に足を運んでいる。
 今、僕は模擬店の配置で頭を悩ませていた。
 作業用の長机の上には、校内の平面図。その横には各クラス、部活の模擬店の内容と希望の場所が書かれた紙の束。それも紙束は校舎の内外で、山がふたつだ。
 この紙に書かれた出展内容、使用する機材、希望の場所を見て、可能な限り公平、公正に配置を決めていくのが、目下のところの僕の仕事だ。
 なお、僕は公平でもなければ公正でもないので、我がクラスの喫茶店は、人通りの多いいちばんいい場所に真っ先に決めておいた。後は公平公正に不満を分配する作業だ。
 とは言え、
「……」
 煮詰まった(誤用)。
 あちらを立てればこちらが立たず。どうもうまくいかない。
 手を止めて顔を上げれば、会議室内のそこかしこで、僕同様書類と格闘している姿や、二、三人で顔を突き合わせて話し合っている姿があった。どれもこれも表情は険しい。各作業の期日が迫っているからだろう。かく言う僕もそれほど余裕があるわけではない。次の作業も待っている。
(こえだがいないな……)
 前期で球技大会の実行委員をやったことで思うところがあったのか、この学園祭実行委員にはこえだも参加していた。のだが、その姿が見えない。きっと外に出ているのだろう。
「美術部の進捗状況を見てきます」
 人のことは兎も角、一度気分転換をしたかった。
 僕はそう言うと席を立った。誰かの「頼んだー」という声を聞きながら会議室を出る。
 美術部には当日校門を飾るアーチの製作を依頼していた。尤も、これは毎年のことなので、美術部としても勝手がわかっているはずだ。作業が遅れているようなことはまずないだろう。
 時間ももう午後六時過ぎ。廊下にはほとんど人影がなかった。下手すると目当ての美術部すら帰っている可能性がある。まぁ、単なる気分転換なので、無駄足になってもかまいはしないのだが。
 ひとまず気楽なひとり旅といこう。
 と、思っていたとき、後方から小走りに駆けてくる軽い足音が聞こえてきた。誰だろうと思って振り返ったときには、すでにその人物はそこにいた。
「真先ぱーい。どーん」
 そのままの勢いでジャンプして体当たり。もちろん、僕とて女の子の体当たりで吹き飛ばされるほどヤワではないので耐える。
 加々宮きらりだった。
「危ないだろ」
「真先輩、どこに行くんですか?」
 僕の苦情は無視して彼女は聞いてくる。
「美術部にね。アーチの進捗状況を見にいくんだよ」
「あ、じゃあ、わたしも行きます」
 あっさりそう言うと、僕の隣に並んだ。仕方なく一緒に歩き出す。
 こえだのみならず、加々宮さんもどういうわけか学園祭実行委員のひとりだった。確か今彼女が手がけているのは、体育館の舞台のプログラム作成だったはず。要するに、演劇部や吹奏楽部、軽音楽部など、舞台を使用する演目のタイムスケジュールを組んでいるのだ。僕の作業と似ている。こっちが場所を考えているのに対し、彼女は時間を考えているのだ。
「こえだは? 一緒じゃなかったっけ?」
「サエちゃんならもう別の作業に移りましたよ」
 ということは、彼女とはまた別の件で外回りか。大丈夫だろうか。いや、まぁ、ふたりそろっていたところで安心感が出てくるわけではないが。
「真先輩は捗ってますか?」
 と、加々宮さん。
「正直、捗ってないね。捗ってないから、こうして散歩してるわけだ」
「散歩!? 美術部を見にいくんじゃなったんですか?」
「口実さ。外の空気を吸いたかったんだ」
 外と言っても会議室の外だが。
「もちろん、ちゃんと美術部は覗きにいくけどね。……そっちは? 進んでるの?」
「ついさっき終わりました。最終案を各クラブにねじ込んできたばかりです」
「ねじ込むって……」
 その表現にそこはかとなく不穏なものを感じる。
「えー、だってぜんぶの希望を聞いてたらキリがないじゃないですかー」
「そりゃそうだけどね。納得してくれたのか?」
「わたしがお願いすれば?」
 なるほど。加々宮さんは交渉役だったのか。会議室にいなかったわけだ。実際、適役ではあるな。彼女にお願いされて断れる男子は少ないだろう。男子は。
「でも、女子が多いところはダメですね。すっごい文句言ってきます。……滅びろ、女子!」
 いきなり天井目がけて叫ぶ加々宮さん。
 その括りで滅ぶと自分も巻き込まれると思うのだがな。あと、直後に人類全体が絶滅する。
「文句を言われながらも、きちんとねじ込んだわけだ」
「そこは不満の公平な分配です。真先輩が言ったんですよ?」
 そうだったな。僕は彼女にそうアドバイスしたのだった。結局のところ百パーセントすべての希望を叶えられるわけではないので、みんなに少しずつ我慢してもらうしかない。「向こうもこの部分で不便をしているので、こっちもこの部分は勘弁してほしい」と妥協案を提示するのだ。
 そうやって最終案までこぎつけたから、こえだは別の作業に移ったのだろう。
 と、そのときマナーモードにしてスラックスのポケットに突っ込んでいた携帯電話が、振動で着信を告げてきた。サブディスプレィを見ると槙坂涼の名前があった。
「……」
 音声通話だ。出るべきかどうか迷う。……出なくても言い訳は立つが。
「あ、どうぞ。おかまいなく」
 唯一気を遣うべき相手である加々宮さんからお許しが出てしまった。仕方なく電話に応じる。
「もしもし?」
『藤間くん? わたしです。槙坂です』
 槙坂先輩の電話口での第一声は、普段よりも少しだけ丁寧だ。誰からかかってきたかなんて、電話に出る前からわかっているというのに。これが浮田だと「あ、オレオレ」である。まるで詐欺だ。こえだだと「あ、真? あたしあたし。ほら、あれあれ。あの話どーなった?」になって、あたしあたし詐欺にあれあれ詐欺が加わる。たぶん、こえだの話術では金を振り込ませるまでに半日はかかるだろうが。
『まだ学校?』
「ああ」
『わたしも少し用事があって、まだ残ってるの。一緒に帰れる?』
「いや、たぶん今日はギリギリまで学校にいると思う」
『そう……』
 落胆したような槙坂先輩の声。
『わかったわ。じゃあ、また明日』
 そうして電話は切れた。
 端末をポケットに戻す。と、そこで加々宮さんがなぜか不思議そうな顔でこちらを見ているのに気がついた。
「どうかした?」
 問うてみる。
「あの、まさかと思いますが、今の槙坂さんじゃないですよね?」
「いや、そうだけど?」
 鋭いな。そうとわかる要素はなかったはずなのに。
 僕が答えると、彼女は呆気にとられたようにぽかんと口を開けた。僕の住むタワーマンションを見上げていたときのアホ面に似ている。
「……なんですか、今の淡泊な会話は」
 そして、ようやく声を絞り出したかと思うと、これだった。強烈に非難めいた、冷めた声だ。
「おかしいかな?」
「つき合ってるんですよね?」
「らしいね」
 僕と槙坂先輩のことは、加々宮さんはすでに知っている。それどころか学校中に公知されつつある。もしかしたら当の僕より周りのほうが、僕たちのことを正確に把握しているかもしれない。僕の他人事のようなもの言いはそのあたりが理由、或いは、いつものことだ。今の心理状態は関係ないはず。
「そもそも、普段からベタベタしてないと思うけどね」
「確かにそうですけど……」
 消極的な納得。でも、加々宮さんは口をむにむにと動かして、何か言いたそうだった。
「電話くらいそれっぽい会話してもいいんじゃないですか?」
 やがて堪りかねたように彼女は、口の中で転がしていた言葉を吐き出す。
「仕方ない。今は君がいるからね」
「いなかったらしてました?」
「いいや」
 まさか、である。
「もぅ。しっかりしてくださいよ」
「君が心配するようなことではないと思うけど?」
「……」
 加々宮さんは黙り込んだ。
 だが、口だけはまたむにむに動かしている。まだ何か言いたいことがあるのだろう。その様子を見て、この子は鋭いなと僕は思った。
 程なくして美術部の活動場所である美術室に着いたが、案の定すでに全員帰った後だった。アーチの製作は順調だと思っていいだろう。
 
 生徒が学校に残っていられるのは午後七時までと決まっている。学園祭が近づけばもう一、二時間くらいはお目こぼしをもらえるかもしれないが、今はこれが限界だ。
 そんなわけで本日の実行委員は午後七時をもって散会となった。
 今は帰り、僕はこえだ、加々宮さんとともに電車に揺られている。
 ちょうど空いたふたり分のシートにかわいい後輩たちを座らせ、僕はその前に吊り革を持って立っていた。
「あーあ、今日もこんな時間かぁ」
 と、加々宮さん。
 七時になってから片づけをはじめ、それから下校して駅で電車に乗って――で、今はもう七時半を回っている。
「学園祭が近づけば、もっと遅くなるだろうね」
「そうなんですか?」
「経験から言えば、たぶんそう」
 中学のころからいろいろやってきたが、ほぼ例外なくそうだった。イベント自体は立てた計画通りにいく。だが、その準備や計画に対しても、誰が何をする、いつまでにする、といったスケジュールを組むのに、なぜかそちらは計画通りにいかないのだ。だいたい最後になってバタバタする羽目になる。今回も順調に予定が遅れつつあった。
「ぐえぇ」
「真ってば、よくこんなの今までやってきたよね」
 謎のうめき声を発する加々宮さんの横で、こえだが感心したように言う。
「苦労した分、成功したときの喜びは大きいからな」
 結局、そのあたりが原動力なのだろうな。思い通りにならないことの多い世の中で、せめてイベントくらいは思い通りに進めてみたいのだ。まぁ、さすがに高校の学園祭となればこれまでにない規模で、次から次へとやることが回ってくるが。なかなか一筋縄ではいきそうにない。
「終わって打ち上げでもやれば、報われたって実感も出てくるさ」
「やるのかなぁ、打ち上げ。ぜんぜんそんな話ないんだけど」
「そりゃあ今はそんな余裕ないからな」
 終わってもないのに終わった後の話などできるはずもない。そんな話ができるのは、まだはじまってもいないころ、取らぬ狸の皮算用が笑って許されたころだ。
「でも、こんなのは終わったら打ち上げと相場が決まってる。なかったらなかったで、僕たち三人でささやかにやればいいさ」
「ほんと!?」「本当ですか!?」
 ふたりが同時に喰いついてきた。
「あたし、そのほうがいいかも」「ねー」と言い合っているふたりを見ていると、これは実行委員とは別個に身内だけの打ち上げをするのもいいもしれないと思えてきた。
「あ、わたし、次ですから」
 次の駅名を告げるアナウンスの中、加々宮さんがそう切り出してくる。
 こうして委員会で帰りが一緒になってわかったことだが、加々宮さんの家は学校からけっこう近いらしい。電車ならふた駅分。僕よりも先に降りる。
「今さらだけど、送ろうか?」
 七時半なら夏場でも外は真っ暗だ。いつも別れた後に送ったほうがよかったかと考えていたのだが、今日は忘れずに言い出すことができた。
「大丈夫です。お母さんに迎えにきてもらいますから。家まで歩いて十分くらいなんですけど、遅くなったときは呼ばないとうるさいんです」
 そう苦笑しながら言うと、加々宮さんは立ち上がる。
 と、思いがけず互いの顔の距離が近くなった。彼女が何も考えず立ち上がったのと、僕が避けそこなったことが原因だ。お互い軽くぎょっとした。僕は慌てて一歩下がる。
「前言撤回。真先輩、やっぱり送ってください」
 そう言う加々宮さんの頬は心なしか赤い。
「こちらこそ前言撤回だ。そこまで話がついてるなら、僕が送るほうがややこしくなりそうだ」
「ちぇー」
 口を尖らせる加々宮さん。
 間もなく電車は駅に着き、そうして彼女は開いたドアから出ていった。ばいばーいと手を振る加々宮さんに見送られ、電車は再度出発する。
 ひとりが降りて、残ったのは僕とこえだ。
「お前は送らなくていいな」
「ひどっ。何その差!?」
「だってお前、駅からバスだろ?」
「そうだけどさ……。なんか釈然としないんだよなぁ」
 こえだは口を尖らせる。
 シートはこえだの隣が空いたが、僕はそこに座らず立ったままだった。こんな時間まで委員の仕事をしていたせいかそこそこ疲れていて、一度座ってしまうと今度は立つのが億劫になりそうな気がした。どうせすぐに降りるのだし。
「あのさ、真」
 やがてこえだがタイミングをはかるみたいにして口を開いた。車窓の夜闇に浮かぶ街灯りをぼんやりと見ていた僕は、その視線をこえだへと向ける。
「あの話、涼さんとした?」
「あの話?」
「うん、あの話」
 出たな、あれあれ詐欺。
「……」
「留学の話っ」
 僕が思い出せない振りをして黙っていると、こえだは怒って声を荒らげた。
「ああ、その話か。……まだしてない」
「なんでしてないんだよぉ。早くしろよ……」
 まるで泣きそうな声で拗ねたように言い、こえだは黙り込んだ。
「……いずれな」
 そして、僕もまたそう短く返して、口を閉ざした。
 結局、これ以降僕が電車を降りるときまで、こえだと言葉を交わすことはなかった。
 加々宮さんと同じで、こいつもこいつで何かを感じているのかもしれないな。鋭いことだ。女という生きものは、年齢や人生経験に関係なく女のカンがはたらくと思ったほうがいいのだろう。
 
 駅を出て五分と歩かずに僕の住むマンションに着く。
 と、そこに槙坂涼がいた。
 エントランスの前の玄関ポーチに人待ち顔で立っている。制服姿だが、制鞄は持っていなかった。家には帰ったけど着替えはしなかった、というところか。
 彼女は姿を現した僕を見つけて、笑顔を浮かべた。
「『また明日』なんじゃなかったか?」
「気が変わったのよ」
 槙坂先輩はあっさりとそう言う。
 僕はその相変わらずの調子に、思わずため息を吐いた。……結局こうなるのか。会えなかったら会いにくるのが槙坂涼という女性だ。今さらながらにそれを実感した。
「待ってるんだったら連絡してくれ。だいたい、僕がもう家に帰ってたらどうするんだ」
「大丈夫よ。藤間くん、学校にギリギリまで残ってるって言ってたもの。さほど待たなかったわ」
 それでも何かの拍子に早く帰れたら、それだけでアウトだと思うのだがな。まぁ、現状の進捗状況ではあり得ないか。
「このところ忙しそうね。ほら、ネクタイが緩んでるわ」
 そう言うと槙坂先輩はすっと僕に近づき、ネクタイに手を伸ばした。そう言えば委員会のデスクワークのときに緩めてそのままだったな。もう家に辿り着こうとしているのに今さらではないだろうか。
 思えばこうしてネクタイを直されるのも久しぶりのような気がする。春にはよくされていたが、夏服にはネクタイがない。十月に入り冬服に戻ったが、確か今期はこれが初めてだ。それだけ忙しさを理由に槙坂先輩と会っていなかったということだろうな。正直、少しだけ懐かしく思う。案外彼女もそう思ったから、あえてこんな無駄なことをしているのかもしれない。
 きゅっとネクタイが締められる。直ったようだ。
「で、何しにきたんだ?」
「藤間くん、忙しそうだから夕食でも作ってあげようと思ったの」
「それはありがたいね」
 八時前の今から何か作るのは面倒だと思っていたところだった。実際、ありがたくはある。
「でも、槙坂先輩を家に上げたくない。外に食べにいこう」
「あら、ひどい」
 槙坂先輩はそう苦笑しながらも、踵を返した僕の後をついてくる。このあたりだとどこがいいだろう。ファミレスか、駅前のショッピングセンター『サクラヤーズ』のレストラン街か。
「学園祭の準備は順調?」
 隣に並んだ槙坂先輩が問う。どうやら外で食べることに特段の異論はないらしい。
「順調。順調に予定が押してきてる」
「大丈夫なの?」
「たぶんね。致命的な遅れや破綻は見当たらないから、ちゃんと間に合わせるさ」
 本番までの裏方なんてたいていはこんなものだ。多少予定が狂っても、最後にはちゃんと帳尻を合わせる。
「そう。楽しみにしてるわ。特に今年は藤間くんが実行委員だものね」
「別に僕がいたからって、これまでと違った学園祭になるわけじゃないよ」
 僕は何かやりたい企画があって学園祭の実行委員に名乗り出たわけではない。そこそこ企画立案はしているが、去年一生徒として感じた運営側の不備を補強する程度のものだ。
 それでも楽しみにされると悪い気はしない。成功させようと改めて思う。
「当日は少しくらい一緒に回れそう?」
「生憎と僕は運営としての業務に従事する忙しい身でね」
 と、はぐらかそうとしたのだが、
「嘘おっしゃい。サエちゃんから実行委員も交代で自由時間があるって聞いてるわよ」
「……努力する」
 やはりこうなるらしい。
 確かにその通りなのだが、努力しなければならなさそうなのもその通りだった。与えられた自由時間でクラスの出し物も手伝わなければならないし、雨ノ瀬も遊びにくることになっている。時間のやりくりが必要そうだな。
「……」
 ま、どうにかなるだろう。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2015年5月15日公開

 


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