学園祭初日、 午後になって一旦僕は実行委員の仕事から解放された。 しかしながら、文字通りの自由時間というわけではなく、これからクラスの喫茶店の手伝いだ。実行委員の運営本部に腕章を置いてから教室へと戻る。 「いま帰ったよ。何をすればいい?」 「藤間か。じゃー、フロア頼む」 この企画のリーダーである成瀬がさっと周りを見回し、指示を出してくる。 僕が実行委員の仕事から戻ってこられなかった場合を想定して、僕の役割はかっちり決まってはいなかった。戻ってこられたら忙しいところを手伝う。その程度。 カーテンで仕切られたバックヤードから向こう側を覗き見れば、そこは賑やかに、でも、統一感をもって飾り立てられた喫茶店ブース。何人かのクラスメイトがウェイター、ウェイトレス役として忙しそうに行き来している。客の入りは午前中とは一転してなかなかのものだった。僕はこれからあちらを手伝うわけだ。『天使の演習』の店長からコーヒーの淹れ方をレクチャーしてもらったのだが、どうやら無駄になりそうだな。まぁ、フロアのほうが僕向きの仕事ではあるが。 次に僕は隅に置いてある大量の鞄から自分のものをピックアップ。そこから取り出したのは眼鏡ケースだ。中は当然、眼鏡が入っている。アンダーリムの眼鏡だ。それをかけて――さぁ仕事だと振り返ったところで、そこにいたクラスメイトの女の子にぎょっとされてしまう。 「もしかして……藤間か?」 小柄でどこか少年っぽい雰囲気のある彼女は、名前を礼部紅緒(れいべ・べにお)という。僕の記憶によると、確か礼部さんの担当は厨房だったはずだ。 「ああ、これ?」 顔を見ているようで見ていない視線に、礼部さんが眼鏡に注目していることを察する。 「前にシャレで買ったんだ」 これを買ったきっかけは、我が異母兄がなかなかセンスのいいデザインの、レンズに色のついた眼鏡をかけていたのを見てだった。一度くらいかけてみてもいいかと思い、度の入っていない伊達眼鏡を購入したのだ。 「今日はこれでいこうかと思ってるんだけど、ダメかな?」 「ダメ? ……ん? んー、んん……?」 礼部さんは一度僕の言葉を鸚鵡返しにし、首をひねりながら何やら考え込む。 やがて、 「採用」 と、きっぱり決断を下した。 「絶対に受ける」 「その言い方にただならぬ不安を感じるけどね。――了解だ」 この眼鏡、夏前のある日曜に槙坂先輩と出かけた際にお披露目と相成ったのだが、残念ながら彼女には不評だった。自分で思っているほど似合ってはいなかったらしい。けっこう悩んで選んだのだがな。まぁ、それならそれでこういう場面でネタとして活用することにしようかと、そう思いついたわけである。 礼部さんはやおらスマートフォンを取り出し、弄りはじめた。暇があれば端末と睨めっこしているスマホユーザーの姿は、僕のような古きよきガラケー使いからすると何かに操られているかのようで、何とも言えない不安を感じる。 そんな彼女の様子を横目に見ながら、僕は歩を進める。 「ぬおっ、藤間!?」 今度は浮田だった。 「いかにも。僕だね」 「お前、なんで眼鏡なんてかけてんの?」 「同じ学校の生徒相手にウェイターの真似事をするんだ。眼鏡でもかけないとやってられないよ」 どちらかというと、こっちの理由のほうが支配的かもしれない。僕には経験がないが、バイトしているところをクラスメイトや知り合いに見られるのに似ているのかもしれない。やりにくいだろうなと思うし、実際僕もやりにくい。眼鏡はそこを誤魔化すためのフィルタ、道化師の仮面だ。 浮田はしげしげと僕の顔を眺める。 「わかった。やっぱりお前は俺の、いや、全男の敵だ!」 「安心しろ。僕も浮田のことを味方だと思ったことはないよ。世界中の男を敵に回すつもりはないけどね」 「やはり人間は平等ではなかった。神よ呪われろ!」 無神論者が呪詛の言葉を吐くためだけに神を求めるか。浮田の意味不明な怨嗟の声を聞きながら、僕はバックヤードからフロアへと出た。 クラスの喫茶店はなかなか順調だった。 所詮は高校生のお店ごっこだと思うのだが、時間と場所の恩恵か、はたまた手作りお菓子の評判が人伝に広まっているのか。何にせよ盛況で喜ばしい。 その中で僕の仕事は先ほど浮田に言った通り、要はウェイターだ。客の注文を取ってバックヤードに伝える。用意できた注文の品をテーブルに運ぶ。その繰り返し。 「コーヒーふたつに、手作りクッキーの盛り合わせひとつですね。わかりました。少しお待ちください」 とは言っても、メニューはコーヒーに紅茶、ソフトドリンクがいくつかと、手作りのクッキーとケーキが数種類――と、たかが知れているので、注文もややこしくなりようがない。楽なものである。 のだが、 (なんかどんどん混んでいくな……) 僕がフロアに出たときよりいっそう混雑していた。ぱっと見、空いているテーブルは見当たらない。バックに戻ったときに聞いた話によると、行列というほどではないが、何組かの客を廊下に待たせているそうだ。 やっていることは単純な作業なのに、ひっきりなしに客がくるおかげでやけに忙しい。しかも、見た感じ明慧の生徒ばかりなのはどういうわけか。それも圧倒的に女子が多い。こうなるとこの盛況の要因も手作りお菓子説が有力になってくるな。でも、みんなこんなところで油を売っていて大丈夫なのだろうか。 「すいませーん。こっちもお願いしまーす」 休む暇を与えない客の声。 さて誰がいくか、と周りを見回してみて――僕は思わずたじろいだ。なぜかフロア担当のクラスメイト全員が僕を見ていたのだ。「お前がいけ、お前が」と言わんばかりの、無言の圧力を帯びた視線。……僕かよ。ここぞとばかりに僕をこき使うつもりか。そりゃあようやくクラスに戻ってきた身だが、今まで遊んでいたわけではないのだがな。 「お待たせしました」 ほかにも近いやつがいるにも拘らず、僕が注文を取りにいく羽目になった。テーブルで待っていたのは一年生と思しき女の子の三人組だった。 「えっと、コーヒーをみっつに……手作りケーキって、どれがオススメですか?」 「残念ながら、僕は食べたことがなくてね。でも、どれも美味しいと思うよ。なにせうちの主力商品だからね」 忙しいのだから、せめて注文を決めてから呼んで欲しいものだ。と、心中で嘆息していると、今度は別の子が口を開いた。 「藤間先輩って、やっぱりあの槙坂さんとつき合ってるんですか?」 好奇心にキラキラと目を輝かせて聞いてくる。 「いきなりだな。……さぁ、どうだろうね」 「先輩ってもっと地味な人だと思ってました。ほら、授業の前もよく本を読んでるし」 どうやらこの子たちとは何かの授業で一緒らしい。 「見ての通り、地味だよ」 「またまたー」 彼女たちは笑い出す。冗談と受け取られたようだ。 僕自身は、地味というよりは普通の一般生徒のつもりだ。少なくともそう振る舞ってきた。しかし、ここ最近槙坂涼という外的要因のせいで、どうにも学校生活が派手になりがちなのも確かだった。 「そろそろ決めてくれるかな?」 「えっと、じゃあ……」 さすがに無駄話が過ぎたと思ったのか、僕が促すと女の子三人組は注文するケーキを決めた。僕はそれを書きとめる。 「すぐに用意するから、少し待ってて」 「えぇー、もう行っちゃうんですか。もっと話しましょうよー」 「……」 ホストじゃないんだけどな、僕は。 バックヤードに戻って今聞いた注文を厨房係に伝えると、僕は深いため息を吐いた。 「なんだろうな、この状況」 「言わないぞ? 私は何も言わないからな?」 礼部さんだった。 僕がそちらを見ると、彼女は口笛でも吹きそうな感じに顔を背けた。しかし、基本的にしゃべり好きの礼部さんは再び口を開く。 「でもさ、わちゃわちゃしてて楽しいだろ」 「まぁ、楽しいか楽しくないかの二択なら、楽しいけどね。どうも理不尽な忙しさを押しつけられてる気がしてならないよ」 同じフロア係なのに人の三倍くらい動き回らされるし、客も客でわざわざ僕を狙って声をかけてくる。学校ぐるみで僕を嵌めようとしているのだろうか。 「まー、兎に角、あれだ。クラスのために働け」 「もう十分働いてるよ」 あまりにもきっぱり言われると苦笑するしかない。 話しているうちに次なる注文の品の用意ができ――僕はそれを持ってバックヤードを出た。 「うわ、本当だった!?」 客足が途絶える気配は一向になく、忙しさは増すばかり。そんな喧騒の中、僕の耳は聞き覚えのある声を拾った。入り口を見るとそこにはこえだと、車椅子の女子生徒、伏見唯子先輩の姿があった。 僕は持っていたコーヒーとケーキのセットをテーブルに運ぶと、ふたりのもとへと向かう。途中、お客さんに声をかけられたが聞こえない振りをした。 「おー、藤間君。ちょっくら遊びにきてみたよ」 「ありがとうございます、伏見先輩」 僕は手で押し出すゼスチャーをしつつ、ふたりとともに廊下へと出た。 「珍しい組み合わせですね」 並ぶこえだと伏見先輩を見やりながら、素直な感想を述べる。このふたりが一緒のところなんて初めて見た気がする。 「そこでたまたま藤間君のかわいい後輩、えだちゃんと会ってね、一緒にきた次第だよ」 「そうでしたか。……こえだ、お前、車椅子を押すくらいしろよな」 見た感じ、こえだがそんな気を利かせた様子はない。 「だって、重いし」 「こら、重いって言うな」 こえだのひと言に伏見先輩が半眼になる。 「大丈夫だよ、藤間君。あたしがこれで何年やってきたと思ってるの? よっぽどの悪路じゃない限り、普通の人より速いくらいだよ」 それもそうか。こえだにああ言ったものの、僕も車椅子を押したことはない。というのも、押したほうがいいだろうかと思いはしても、彼女の巧みな操作を見ているとすぐにその必要なはさそうだと思えてくるのだ。 「それにしても、見事に眼鏡男子だねぇ。文系男子から転向?」 「そういうつもりはありませんよ。単なるシャレです」 眼鏡男子と文系男子は相反する属性なのだろうか? どちらかというと親和性が高そうなのだが。 「真ってば真ってば。ね、それどうしたの?」 興味津々といった様子のこえだは、もっと近くで見ようと僕の横にきて背伸びをする。顔の近さに僕は思わず仰け反った。 「買ったに決まってるだろ」 「ぅぎゅ」 答えつつその顔を鷲掴みにして押しやると、こえだの口から小さなうめき声がもれる。 「ファッションとしてわりと本気で選んだんだけどな。残念ながら不評だった」 「不評? 誰に?」 「槙坂先輩」 「「……」」 答えた瞬間、こえだと伏見先輩は無言で顔を見合わせた。 そして、 「「そ、それは……」」 今度はふたりして掌を額に当て、頭を抱える。ロダンの『考える人』のようなポーズだ。そのシンクロした動きに、案外このふたり似ているのかもしれないと思った。 「こんにちは、藤間くん」 「!?」 本日二度目となる背後からの声。 しかし、跳び上がるほど驚いたわりには、今度は僕の口から声は出なかった。声にならない悲鳴というやつだ。東西のホラー映画の違いを思い出した。洋画のホラーは登場人物が絶叫するが、邦画の恐怖というのは声すら上げられない種類のものなのだそうだ。……こんなところでそれを実感するとは思わなかったが。 振り返ると、午前と同じく槙坂涼が立っていた。 ただし、幽霊スタイルではなく制服姿。そして、いきなり背後から声をかけて驚かせるという悪ふざけをしたわりには真顔。というか、表情が消えていた。本人としては驚かせる意図はなかったのかもしれない。にも拘らず、今回のほうがよっぽど「うらめしや」が似合いそうなのがすごいな。 「その眼鏡、学校にはかけてこないでって言ったはずだけど?」 「……言ってたな」 確かにあの日、自信満々で眼鏡をかけていった僕に、彼女は冷ややかな目を向けつつそんなことを言ったのだった。僕はその言いつけを破ったことになる。 「言い訳があるなら聞きましょうか」 「……シャレでかけてみた」 「シャレになってないわ」 ばっさりと斬って捨てられた。 「……」 そうだろうか、と僕は考え込む。似合わないなら似合わないで、こういうお祭りの場でかけるくらい許されてしかるべきだと思うのだが。 僕は意見を求めるようにこえだと伏見先輩を見る。と、ふたりはそっと僕から目を逸らした。右にいる伏見先輩は右を向き、左に立つこえだは左へと顔を向ける。やはり息が合っていた。 「わかったのなら外しましょうね?」 「……仕方がない」 眼鏡を外すべく僕がそれに指をかけたときだった。 「あ、じゃあさ、その前に一枚撮らせてよ」 伏見先輩が自分のものらしきスマートフォンをひらひらさせながらそんなことを言う。一枚とは写真のことらしい。 「というわけで――はい、えだちゃん」 伏見先輩はスマートフォンをこえだに手渡すと、車椅子を滑らせて僕の横にやってきた。あろうことかネタとして僕の今の姿を写真に収めておくのではなく、ツーショットをご所望のようだ。 「いいのかなぁ……?」 と、不安げなこえだ。 結論としては――よくなかったらしい。 「……唯子」 槙坂先輩は伏見先輩の後ろに立つと、ぬぅーん、と覆いかぶさるように上から顔を覗き込んだ。長い黒髪の美人がやると、ちょっとしたホラーである。伏見先輩の顔がかすかに引き攣っていた。その調子で幽霊屋敷の脅かし役をやればいいのにな。 「運営の許可のない撮影会はダメよ?」 「涼さん、顔! 顔怖い! ……そんな大げさな。一枚だけ。ダメ?」 「それをきっかけに次から次へとくるかもしれないでしょう?」 ないと思うが。 「そ、そうかも……」 ……ないと思うんだがなぁ。 「じゃ、行きましょうか」 槙坂先輩は車椅子の背部のハンドグリップを握った。 「え、涼さん、行くってどこに?」 「ここじゃないどこかよ」 哲学的な香りすら漂う回答を口にすると、槙坂先輩は車椅子を押して歩き出した。 「ちょ、ちょっと涼さん、せめて行き先決めようよ。なんか怖いからっ」 伏見先輩の悲痛な声が次第に遠ざかっていく。 そうして取り残されたのは、僕とこえだ。 「それ、けっこう似合ってるじゃん」 こえだは横目でちらと僕を見ると、少し恥ずかしそうにそう言った。人を褒めるときくらい照れなくてもいいと思うのだがな。 「そうか? ま、お世辞程度に受け取っておくよ」 「涼さんも罪なことするなぁ。完全に刷り込まれてるし。……ま、気持ちはわかるけど」 こえだはそこで一度嘆息、 「じゃ、あたしも行くね。これ返さないとだし」 よく見ると彼女の手にはまだ伏見先輩のスマートフォンが握られたままだった。こえだは、てててっ、と先に行ったふたりを追いかけ、走り出した。 僕はそれを見送りながら眼鏡を外し、教室の中に戻った。 その女、小悪魔につき――。 2015年6月24日公開 |
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