彼女と話をしなくてはと思うものの、これが想像していた以上に難しかった。 相変わらず槙坂先輩は、彼女を慕い、憧れる生徒に囲まれていて、さすがにそれをかき分けて話しかけるのは抵抗があった。 こうして改めて見ると、とても近寄りがたい存在なのだと痛感する。 当然のように向こうからのアプローチもなし。こんな状況が続けば、おのずと解のようなものも導き出せるというものである。 (要は、避けられてるんだろうな……) メールや電話はしていない。こういうことは直接話すべきだというのが主たる理由だ。だが、後になって振り返ってみれば、僕は怖かったのかもしれない。それらを無視されることがではない。普段と変わらない文面や声が返ってくることがだ。そうなったら僕はまた決定的な話を先送りしてしまうだろう。 だが、それは単に僕の弱さでしかなく、総じて言えば、僕は槙坂先輩と会うことに消極的になっていたのだろうと思う。 そうして数日、ようやく僕は望んでいた機会を得た。 そのドア――カフェ『天使の演習』をドアをくぐる。もう聞き慣れた、でも、何度聞いても飽きないドアベルの音が僕を出迎える。 店の中に入ると、カウンタの向こうにいたのは店長だけだった。キリカさんはまだ大学のようだ。 店長は僕を見ると、いつもの「いらっしゃい」ではなく、あえて「いらっしゃいませ」と改まった口調で言った。それから視線だけでテーブル席のひとつを示した。 そこに槙坂涼がいた。 後ろ姿。当然表情は窺えないが、角度の関係で本を読んでいるのはわかった。そして、つまらなさそうに読んでいるなと思った。 僕はお礼を込めて店長に軽く頭を下げてから――ほかにも客が数人いるようだが、真っ直ぐに彼女のいるテーブル席へと向かった。 「前、いいか?」 「え……?」 不意を突くようにして問うと、槙坂先輩は僕の登場など予想だにしていなかったのか、驚きとともに顔を上げた。 「藤間、くん……」 僕は彼女の返事を待たず、向かいに腰を下ろした。 「どうしたの、こんなところで?」 「このところ話す機会がなかったからね」 「そうだったわね」 槙坂先輩は、動揺したのも束の間、すぐに平静を取り戻した。今まで読んでいた文庫本を閉じる。本には書店のブックカバーがかかっていて、タイトルはわからなかった。 そこでお冷と、まだ注文していないはずなのにホットのブレンドが運ばれてきた。 「お待たせしました」 僕は少しびっくりして店長を見上げると、彼はわずかに笑みを見せた。ここにきたらたいていブレンドを頼んでいるというのもあるが、きっとこれは何度も話を中断させないようにとの店長の気遣いなのだろう。僕はその気遣いに感謝し、また小さく頭を下げた。 「ごゆっくりどうぞ」 店長はひとこと言い、戻っていく。 「三年生は学園祭が終わると、途端に忙しくなるのよ」 「だろうね」 槙坂先輩は大学入試をひかえた受験生だ。推薦入試ならもう目の前だろう。その口調は無感動で、だから、一見して毎日の試験勉強にうんざりしているかのようだった。だが、その一方で内に抱えた感情を押し殺しているようにも聞こえた。 「上にはいかないのか?」 僕はコーヒーにミルクを垂らしながら聞いてみる。 この場合『上』とは明慧学院大学のことを指す。実のところ、彼女なら受験勉強の煩わしさも回避しようと思えば可能だ。附属生はエスカレータではないものの、明慧大に進むのであれば一般入試よりも簡単な試験ですむのだ。槙坂涼ほどの成績優秀者になれば諸手を挙げて歓迎だろうし、無試験なんてこともあるかもしれない。 だが、槙坂先輩からはもの憂げな答えが返ってきた。 「どうしようかしら? 今は気持ちが宙ぶらりん」 「……」 それを僕のせいだと思うのは自意識過剰だろうか。 槙坂先輩が考え込むような素振りでコーヒーをひと口飲み、カップを置いた。よく見れば中身は半分も減っていない。今までほとんど口をつけていなかったようだ。 「来年は藤間くんの番ね」 「うん? まぁ、そうなるか」 海外の大学の多くは八月からはじまる。それだけいわゆる受験シーズンと呼ばれるものもずれるだろうが、やろうとしていることのハードルは高いのだ。おそらく来年の今ごろ、僕は周りの生徒以上にがむしゃらに勉強しているかもしれない。 一般教養の単位は日本で取得して、それを留学先の大学につけ替えるという手もあるようだが、今のところそれは考えていない。修士課程まで進み、修了後もアメリカに残ることを考えれば、一般教養も向こうで学びたいと思っている。 そんな僕の考えを読んだわけではないだろうが、槙坂先輩がひと言。 「ああ、あなたは留学だったわね」 「……」 ちくりと、刺さる。 そうだ、その話をしなくてはならない。そのためにここにきたのだから。――しかし、僕が口を開きかけたときだった。 「藤間くんはいつから司書を?」 槙坂先輩は機先を制し、まるで世間話か夢を語らうかのように、ごく自然に問うてきた。 「……中三のときだったかな」 僕は、それを無視するわけにもいかず、素直に答える。 当時の僕は美沙希先輩に散々振り回された後で、世の中は自分が思っていた以上に面白いものだと考えはじめていた。その中で僕は図書館という施設を知り、司書という職業を知ったのだ。きっかけは何だっただろう。クラスメイトの小椋さんが図書委員をしていたからか? まぁ、いいか。 やがて興味をもった僕は、独学で図書館学の勉強をするに至る。教材は図書館に行けば腐るほどあった。何せ司書の資格を取得する講習にも用いられるようなテキストが置いてあるのだから。タダで好きなだけ学べることに驚きながら知識を深めていくうちに、日本の司書が軽視されている実情を知り――そうして僕は今の夢をもつようになったのだった。 「そう。そんな前から決めていたのね」 「まぁね」 果たして、あのころ周りに将来のビジョンをもっているやつがどれだけいただろうか。きっとほんのわずかだったに違いない。それがよりにもよって、少し前まで世の中くだらないと斜に構えていた僕が夢なんかをもったのだ。恰好悪くて美沙希先輩にも、当時仲がよかった雨ノ瀬にも言わなかった。 「それなのに、あなたはわたしを……」 「っ!?」 言葉が、胸に刺さった。 それはきっと怒りや悲しみといった、押し殺されていたはずの感情で――それがこぼれてしまったことに槙坂先輩自身もはっとしたようだった。 後悔交じりのため息。 それで彼女は気持ちをニュートラルに戻す。 「ごめんなさい。女として最低のことを言おうとしたわ。忘れて」 「いや、」 忘れろと言われて忘れられるはずがない。えぐられた傷の痛みは、僕が咎人であることを思い知らせる。流せはしない。 「その話なんだが――悪かった。言うのが遅くなってしまって」 本当はわかっていたのだ。僕がアメリカに留学すると言えば、彼女がどんな反応をするか。そして、本当は怖かったのだ。それを見て自分の決心が鈍るのが。 だから、僕は先送りし――気がついたときには最悪の選択肢しか残っていなかった。 「怒ってるだろうと思う」 「別に――」 まるで僕の言葉を遮るように、槙坂先輩が口を開く。 その声はとても無感情で、現国の授業で教科書を音読するかのよう。目はカフェの全面窓の外に向けられ、僕を見ていない。 「別に怒ってないわ。ただ、あまりにも予想外だったから動揺したの。だから、藤間くんが謝る必要はない。わたしのほうこそ悪かったわ」 「槙……」 「はい。じゃあ、この話はこれでおしまいにしましょう?」 槙坂先輩はようやくこちらを見て笑い――でも、ぴしゃりと言った。 ぴしゃりと、シャットアウト。 こうして謝られてしまっては、僕からはもう何も言えなくなる。 「安心して。藤間くんの夢の邪魔をするつもりはないから」 僕が黙り込んでいると、槙坂先輩が伝票を持って席を立った。 「だから――さよなら」 「……」 二度目の「さよなら」は、否が応でも僕にその意味をわからせる。……ああ、やっぱりそういうことなんだな、と。わかってしまえば何てことはない。そのままの意味だったわけだ。 僕はコーヒーカップに目を落とし、黙って耳だけで彼女が去っていく足音を聞く。 槙坂涼は会計をすませると、何の躊躇もなく店を出ていった。 「くそ……」 僕は思わずうめくようにこぼす。 よかったな、藤間真。予定通りじゃないか。おめでとう。お前が選んでしまった最悪の選択肢の通りだ。 その女、小悪魔につき――。 2016年1月10日公開 |
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