七月一日。
 校舎の吹き抜けのエントランスに笹が立てられた。近くには筆記台が設けられ、そこにはペンと色とりどりの紙が置かれている。……わざわざ説明するまでもないと思うけれど、願いごとを書くための短冊とそれをくくりつけるための笹だ。
 いちおう毎年の行事ではあるが、これに関して何か大々的にイベントが行われるわけではない。単に七夕気分を楽しむためだけのもので、一定期間置かれた後、頃合を見て処分されるだけ。
(ああ、もう七夕なのね……)
 登校してきたわたしは、この光景を見てちょっとだけ憂鬱になった。
 
 放課後、
「今年もまたこの時期がきたな」
 エントランスを通りかかったとき、藤間くんが感慨深げに、朝よりも短冊のたくさんついた笹を見上げて言った。彼は平和と退屈を望む一方で、こういうイベントも好む子なのだ。
「帰るわよ」
 わたしは笹には見向きもせず素通りしながら、藤間くんを急かした。
「あ、ああ」
 すたすたと早足で歩くわたしに、藤間くんが追いついてくる。
「七夕、好きじゃないのか? ……ああ、それもそうか」
 藤間くんはすぐに気づいたようだ。
 こんな子ども会のイベントみたいな行事でも楽しみ方はそれなりにあって、例えば好きな異性の名前を書くとか、である。もちろん匿名だけど、毎年自分の名前を書いた上で、短冊で告白する猛者も何人か出てくる。
 当然のように、わたしの名前もよく挙げられる。
「それだけじゃないわ」
 男の子同士のノリや悪ふざけなのか、ちょっと品性を疑うようなことも書いてある。明慧に入学して最初の年、一年生のときにそれを見てしまって以来、笹を見ると嫌な気分になるのだった。
「そりゃ、何というか……ご愁傷様だね」
 わたしがその話をすると、藤間くんは肩をすくめながらそう言った。
「でも、そういうのは先生が見つけたら外すんじゃないのか?」
「ええ、そうよ。でも、たまたま見つけたら外すだけで定期的にチェックしているわけじゃないもの」
「なるほどね。それもそうか」
 風紀委員あたりにチェックさせて、見るにたえないものは取り外したほうがいいのかもな――わたしが不快感を露わにしているせいか、藤間くんは真面目に改善点を考えはじめる。
 そう言えば、今年はそばに素敵な男の子がいるのだった。なら、少しは七夕も楽しめるかもしれない。
「そうだ、藤間くん。七夕の日に、お互い何かお願いし合うっていうのはどう?」
「また妙なことを考えたな、おい。……まぁ、いいけど」
 果たして、すっかり七夕が不愉快なイベントとして定着してしまったわたしを不憫に思ったのか、藤間くんは驚くほど素直にわたしの思いつきを受け入れたのだった。
 
 夜、わたしはお風呂に入りながら考える。
「さて、何をお願いしようかしらね……?」
 湯気でけぶる浴室の天井を見上げながらつぶやいた。
 こうやって改めて考えてみると、なかなか思いつかないものだ。何せわたしたちは実質的には恋人同士。たいていのお願いは聞いてもらえる。こんなときでもない限り聞いてもらえないお願いなんて、よっぽど嫌がることか斬新なことだろう。別に罰ゲームをするわけではないのだから、藤間くんが嫌がるようなことは論外だ。
 湯船の中で伸ばした自分の足を見ながら、ふと思い出した。――彼の家のお風呂はとても広いな、と。うちも何年か前に大々的に改装したときに浴室を広くしたけど、あちらはさらにもうひと周り広い。さすが超がつくほどの高級マンション。
(一緒にお風呂、なんてどうかしら……?)
 あのお風呂ならふたり一緒でも余裕だ。それにもう何度も朝まで一緒に過ごしているのだから、それくらい……ああ、でも、いつも電気は消してるし、明るいところで見られるのはさすがに恥ずかしいかも……。
 
 ――涼の体、すごくきれいだ。もっと近くにきて、よく見せてくれないか。
 ――もう、こういうときだけ名前で呼ぶんだから。……あっ、ちょっと待って。見るだけって……。
 ――"だけ"なんて誰も言ってないだろう?
 ――やっ……あ、ん……。もう、こんなところで……。
 
「……」
 なんか、ものすごくダメだ。一緒にお風呂なんてとても余裕があって、大人の恋人同士みたいで素敵だと思ったのだけど、こんな想像しか出てこなかった。
 結局、この後、妙な想像ばかり次から次へと出てきて、お願いを考えるどころではなかった。
 そして、しっかりとのぼせた。
 
 翌日、
「今日、藤間くんの部屋に行っていいかしら?」
 周りに人がいないのを見計らって、わたしは切り出した。
 瞬間、藤間くんは顔をしかめる。最近になってわかったけど――これは別に嫌がっているのではなく、彼は行為に溺れる自分に自己嫌悪を感じてしまうようなのだ。
「七夕はまだ先だと思ったが」
「七夕は関係ないわ。彼女が彼氏にする、ごく普通のお願いよ」
 そのあたり、わたしはもうとっくに折り合いがついていて、これは互いを想う恋人として当然の行為なのだと思っていた。
 藤間くんは渋々首を縦に振り、この日の夜は彼の部屋で過ごした。
 
 間でそんなことがありつつ――そうして七夕の日。
「さ、じゃあ、お願いを言い合いましょうか」
 放課後、ついにそのときがきた。校門を出て、駅へと向かいながらその話を切り出す。
「どちらからにする?」
 やれやれ、とため息でも吐きそうな藤間くん。
「藤間くんからでいいわ」
「いいのか?」
「ええ」
 答えつつも、男の子らしいお願いだったらどうしようと、どきどきしてしまう。
「じゃあ、遠慮なく。――変なお願いはやめてくれ」
「え?」
「それが僕から槙坂先輩へのお願いだ」
「そ、そう。そんなのでいいのね。ええ、大丈夫よ、安心して。変なお願いじゃないから。じゃあ、次はわたしね。わたしからは――」
 と、そこでぴたりと言葉が止まってしまった。
 本当に大丈夫だろうか? 思わず自分に問いかけてしまう。本当に変なお願いじゃない?
「どうした? 早くしてくれ」
「ご、ごめんなさい。ちょっと待ってくれる?」
 いや、大丈夫のはず。そんなに変なものではないのだから。
 でも――と思う。
 変なお願いではないけど、もしかしたら変な女の子だと思われる、かも? いや、お願いなんて多かれ少なかれそんなものだろう。自分にとっては切実な願いでも、人から見たら奇異なもの、なんてよくあることだ。
 わたしは"でも"と"いや"を繰り返しながら、否定と肯定を繰り返す。
 気がつけば藤間くんは、ひとり悶々と自問自答するわたしをおいて、はるか先を歩いていた。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2014年7月6日公開

 


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