その日、カフェ『天使の演習』にひとりで来店した槙坂涼は、キリカの目には落ち込んでいるように映った。 それでも彼女は力なく笑って「ブレンドを」と注文してきた。 キリカはさすがにその様子を見かね――店がすいていることもあり、頼まれたブレンドコーヒーを運んでくると、そのまま向かいに座った。 「どうかしたんですか?」 「わたし、もうダメです……」 問いかけると、いきなり槙坂はわっとテーブルに伏せてしまった。コーヒーカップがあろうとおかまいなし。キリカは間一髪それを横に退ける。 「藤間くんと何かあったんですか?」 まぁ、彼女が落ち込む原因になりそうなのは、今のところ彼氏である藤間だろう。キリカはそう予想したのだ。 すると槙坂は伏せていた顔を上げ、 「藤間くんに、一緒のお風呂に入りましょうって誘ったら、すごい勢いで断られたんです」 「……」 キリカは思わず店の天井を仰ぎ見た。 続けて「何かあったんですか?」と再び同じフレーズで聞きそうになった。いったいお前に何があったのかと。 しかし、キリカはその言葉を飲み込んだ。 「……いったいどうしてそんなことを?」 尤も、代わりに出てきたのも似たようなニュアンスだったが。 「前にキリカさん、よくマスターと一緒にお風呂に入ると言ってましたよね?」 「え、ええ……」 確かに話した覚えがある。 この槙坂涼という女の子は意外にこの手の話に喰いつきがよく、ちょくちょくガールズトークに花が咲くのだ。また妙なことを吹き込まないでくれと藤間に怒られそうだが、本人が好きなのだから仕方がない。 「それを聞いて、余裕のある大人のつき合い方で素敵だなと思ったんです」 「それで彼を誘ったら断られたと?」 「はい……」 槙坂は神妙にうなずく。 「うーん……」 キリカは我知らず難しい顔になる。 確かにそれができたら素敵だろう。しかし、藤間にそれを求めるのは酷ではないだろうか。槙坂のような魅力的な女の子が目の前で裸でいて、果たして冷静でいられるかどうか。たぶん彼自身もそうできないとわかっているから嫌がったのだろう。 藤間は槙坂のことが好きだ。口ではなんだかんだ言っているが、あれはもう天邪鬼を通り越し、一周回ってむしろ素直なんじゃないかと思えるくらいなので、それは間違いない。 しかし、その一方で、槙坂の話を聞く限り彼は、直接的な触れ合いに関しては自分を律しているように感じる。興味や欲求がないわけではないだろうが、ストイックな態度を取り続けているようだ。 それはさておき。 「私たちの場合、結婚してからの話ですよ?」 「え?」 槙坂が驚きを含んだ声を上げる。 「それに私としてはけっこうイチャイチャするのが目的でしたし」 「っ!?」 今度は声もない。 そして、しばらく硬直した後、再び項垂れるようにしてテーブルに顔を伏せた。 「わたしもいやらしい女の子に思われたかも……」 「……その言葉、私にも突き刺さっちゃうんですけどね。"も"って……」 思わず乾いた笑いが出てしまうキリカだった。 この調子だといろいろ失敗しているんだろうなぁ、と突っ伏す槙坂の美しい黒髪を眺めながら、しみじみ思う。根が真面目というか妙に本気すぎて、この方面で冗談めかせて何か言ったりやったりしても、空回りしているのではないだろうか。藤間も苦労してそうだ。 その点、自分は上手かったと思う。「見て見て、ローラーブレードが似合いそうなスポーティ、且つ、セクシーなビキニ。ヒップのほうの面積が小さいですけど」とかやって、思いっきり彼にコーヒーを噴かせたりもしたが、たいていは冗談の範囲ですんでいるし、彼も自分が何を求めているかわかっているからそれに応じてくれている。 「大丈夫ですよ。今回はちょっと先走った感じですけど、もっと仲よくなったらそういうのも普通になるかもしれませんし」 「そういうものでしょうか」 槙坂がまた顔を上げる。 「そういうものだと思いますよ。だっていつまでも子どもじゃありませんから」 「お風呂も?」 「え、ええ、たぶん」 あくまでもたぶん、だが。 「じゃあ、お風呂で藤間くんにふざけて迫って、逆にいじわるなことを言われたりされたりとかも?」 「それは彼と相談してください」 そのストーリィのあるシチュエーションは何なのだろうか。そして、落ち着いた大人の関係はどこに行ったのか。 ぶっちゃけ、今回はどうやら槙坂がよくわからないことで勝手に落ち込んでいるだけで、きっと藤間はこれもいつものことと思って気にも留めていないだろう。 そして、 例えこの先もっと大きな障害があっても、このふたりなら大丈夫に違いないと思うキリカだった。 その女、小悪魔につき――。 2015年11月26日公開 |
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