今の僕の日常に槙坂先輩の影はない。 正確にはひとつだけ同じ授業があるので、そのときだけは姿を見ることができる。このような状況になっても、お互いお決まりの席に座っているものだから、授業中、嫌でも彼女の後ろ姿を見ることになる。そして、気がつけば僕は、先生の声は右の耳から左の耳で、槙坂先輩の背中ばかり見つめていた。我ながら気持ちが悪い。 学食でも彼女の姿を見なくなった。 槙坂先輩は弁当だし、どこか別の場所で食べているのだろうかと思ったが、すぐにその考えを否定する。僕がそうしているように、おそらく彼女も自分の行動パターンを変えていないだろう。探せばこの学食のどこかにいるに違いない。 少し前まで僕は、彼女と話をせねばと思っていた。だが、いざ会えば面と向かって別れを告げられてしまったのだった。大事なことをひた隠しにされていた彼女の怒りや悲しみを思えば、それも仕方のないことなのかもしれない。 結局それ以降、彼女とは何も話せなくなってしまった。 僕は、ひたすら悪手を打つ己の馬鹿さ加減に嫌気がさしつつも、「これでいい」と状況を受け入れようとしていた。選んだ最低の選択肢が最悪の結果をもたらしたが、これも僕が望んでいたことなのだから。後はもとの学校生活に戻るだけ。 だが、先日、瀬良さんによって無自覚だった喪失感を自覚させられてしまった。 そうだ。僕は槙坂先輩がそばにいる日々を楽しんでいた。彼女と交わす言葉のひとつひとつが刺激に満ちていた。言われるまでもないことだ。しかし、今や僕は槙坂先輩と無関係であり、彼女にとっての『その他大勢』でしかない。 僕は今、いったい何をすべきで、何がしたいのだろうか。 「ずいぶんとシケた面してんな、オイ」 本日の授業がすべて終わり、ひとり駅へと向かっていると、いきなり正面から声を投げかけられた。それが自分のことだとすぐに察したのは声の主が誰かわかったのもあるが、シケた面だという自覚があったからだろうか。 最近では、僕は浮田や成瀬たち級友とも最低限のつき合いしかしておらず、ただでさえつまらなくなった毎日をさらにつまらない方向へつまらない方向へと追いやっていた。シケた面にもなろうというものだ。 まるで行く手に立ちはだかるようにして待ち受けていたのは美沙希先輩だった。 「……」 美沙希先輩のはず。 僕の知る彼女と大幅に違っていた。気性を体現するかのような荒々しいウルフカットはしっかりとブラシで梳かされ、いつも着崩している制服も正しくきっちりと着こなしている。その上には高校生らしくも上品な白のコートを羽織っていた。……誰だ、これ。 「どうした、間の抜けた顔して」 思わず言葉を失う僕に、美沙希先輩と思しき人物は問う。 「先輩って女だったんだなと」 「ぶっとばすぞっ!」 周りには僕と同じく駅へと向かう生徒が少なからずいて、ただでさえ道の真ん中で仁王立ちする美沙希先輩を、「げ、古河だ」と恐れ半分、「え? あれ古河なの? マジで?」と興味半分の視線を向けつつ避けているのに、これまたさらに怯えさせるようなこと口走る。 「別にお世辞で言ってるわけじゃありませんよ。なかなかどうして、そうしているといいところのお嬢様っぽいです。愛華の生徒だって言っても通じるんじゃないですか」 「お、おまっ、お前もう黙れ! ねーよっ」 これは珍しい。美沙希先輩が壮絶に照れている。 こうして改めて見ると、案外素材はいいんだなと思う。身だしなみを整えれば別人だ。こうなるといつも爛々としている猫目もきれいなアーモンドアイだ。後はその伝法な口調か。とは言え、普段からずっとこれだと、それはそれでこっちの調子が狂ってしまう。 「それで、どうしたんです? そんなよそ行きの恰好して」 「試験だよ、試験。推薦入試。今はその帰りだ」 「ああ」 そうか。そうだったな。もう十一月も下旬。入試の種類によっては試験日程がはじまっていてもおかしくはない。なるほど。それで美沙希先輩もその恰好なのか。 「そういうお前は随分と覇気のない顔してやがるな」 「ほっといてください」 シケた面と間の抜けた顔の次は覇気のない顔か。散々な言われようだな。まぁ、自分でもあながち間違ってはいないのだろうと思うが。 「まぁ、いい。ちょっとつき合え。学校に用があんだよ」 「わかりました。いいですよ」 僕が了承したのは拒否権がないほど美沙希先輩が傍若無人なわけではない。どうせ状況を巻き戻すのなら美沙希先輩とつるんでいたころにまで戻すのもいいかと思ったのだ。 僕と美沙希先輩は下校する生徒の波に逆らい、学校へと向かった。さっきまでその下校する生徒のひとりだった僕は、きた道を戻ることになる。 「どうですか、試験は?」 「ぼちぼちだな。さすがに三回もやりゃ場馴れしてきたしな」 へっ、と笑う美沙希先輩。この人も緊張することがあるのか。まさかと思うが、スマートフォンを使った不正に慣れてきたきたとかじゃないだろうな。 「因みに、槙坂はひとつ決まったからな」 「……」 不意に出てきた彼女の名前に、僕は何も言えず黙った。 槙坂先輩はさっそく合格をもらったか。附属生が上へ上がるための試験はもう少し先のはずなので、明慧大ではないのは確かだ。……どこだろうか。そして、合格したというその大学に決めてしまうのだろうか。尋ねようとした言葉は、すぐに飲み込んだ。僕がそれを知ってどうする。 何にせよ、ひとつ決まって何よりだ。 (僕がいなくてもあの人はいつも通り、か……) さすが槙坂先輩。特に調子を崩したりはしていないらしい。 ふいに美沙希先輩が僕を横目で見た。この人、目力が強いからな。視線を向けられるとすぐにわかる。 その美沙希先輩はやおらため息を吐く。 「おい、真。槙坂はどうしたよ?」 聞いてきた。 「さぁ? 最近会ってませんから」 「そうじゃねぇよ。なんでお前は今、あいつと一緒にいないんだって聞いてんだよ」 まるで一音一音区切るようにして、僕を問い質す。 美沙希先輩は、彼女の所在や動向を聞いているのではなく、理由を問うているのだ。僕と槙坂先輩のことを知っていて、その上でなぜ別れたのか、と。 「サエに会ったか?」 「え? そう言えば、このところ見てませんね」 正直、自分のことでいっぱいいっぱいで、周りに目が向いてなかった。確かに最近あいつの姿を見ていないな。冬だから大量のどんぐりと一緒に家にこもっているのだろうか。 「ったく。テメーの女と舎弟の面倒くらいちゃんと見ろよな」 言いながら頭をがしがしと掻く美沙希先輩。せっかくブラシで梳かした髪が台無しだ。 「サエ、怒ってたぞ」 「こえだが?」 どうして? と聞こうとして――やめた。僕と槙坂先輩がこんなことになってしまったからに決まっている。 あいつはそのへんの連中と違って事情をよく知っているし、僕に助言までしてくれていた。そして、槙坂涼を慕い、憧れていることは言わずもがなで、こんな僕のことも好いてくれている。そのふたりには長く一緒にいてほしいと強く願っていたのだろう。 しかし、結局こんな結果になり、ふがいない僕の顔など見たくもない、といったところか。 「高校生ですよ? くっついただの別れただのなんて、よくある話でしょう」 周りが騒ぐような問題ではないだろうに。 「アタシは普通のヤツを舎弟にした覚えはねぇよ」 「……普通ですよ、僕は」 普通だからどうにもできないことがたくさんあって、自分は本当は何ひとつひとりでは満足にできない子どもなのだと思い知らされる。 ふと、僕は聞く。 「先輩はどう思いますか?」 「あン?」 「僕を、情けないと思いますか?」 僕を見込んで舎弟にした美沙希先輩も、その期待に応えられなければ、見込み違いだった、ふがいないやつだと思うのだろうか。 「お前さ、その聞き方からして、自分で自分のことを情けないと思ってるって言ってるようなもんだろ」 「……」 「だったら、アタシが何を言ってもムダだろうさ」 その通りだ。僕は常に常識的な判断を下している。だが、その一方で、それは僕が足りていないからではないかとも思うのだ。例えば、彼女をつれていく覚悟が。例えば、ひとりの女性のために夢を諦める勇気が。 「それともこう言ってほしいか? まぁ、確かにお前の言う通り、くっついたり別れたりはよくある話だよな。わかるわかる。仕方ないよな、って」 「……」 たぶん、今の言葉を真剣に言われたとしても響きはしなかっただろう。きっと僕はそんなものは求めていないのだ。 「でもよ、槙坂と別れたからって、すべてがなかったことになるわけじゃないだろ」 それは先日、瀬良さんが言ったことと同じだった。 時間は不可逆。 環境だけを戻したところで、時間とともに積み重ねたものまでなくなりはしない。こうやって美沙希先輩と歩いて過去を懐かしみ、昔に戻ったような気になったところで、そんなものはうわべだけのことでしかないのだ。 「ま、せめて終わるなら終わるで、グッダグダな終わり方はするなよ。でもって、できれば男を見せてくれたら、アタシも自慢の舎弟だっつって胸を張れる」 美沙希先輩はそう朗らかに言ってのける。 こえだと言い美沙希先輩と言い、みんな好き勝手に期待してくれる。僕はどこにでもいる平和と退屈と本を愛する一介の高校生だというのに。そんな力などあるはずがない。 僕はため息をひとつ。 「張るほどないでしょう、胸」 「なにおう!」 さて、道中半殺しの目に遭いながら学校に戻り、向かった先は職員室だった。 何の用事かは聞いていないが、僕をつき合わせるくらいなのだから、そんなに時間がかかることでもないのだろう。廊下で待っていればいいか。 そうして辿り着いた職員室で、美沙希先輩がドアに手をかけようとしたときだった。そのドアが触れてもいないのにひとりでに開いた。ついに学校にも自動ドアが、と思ったが、何てことはない、一瞬早いタイミングで中から人が出てきただけだった。 そして、その出てきた人物というのが僕の見知った顔――加々宮きらりだったのである。 「すみま……あ」 彼女は反射的に謝っている最中、美沙希先輩の肩越しに僕の姿を認め、小さく声を上げた。驚き、それからキッと僕を睨む。 加々宮さんは知識として知っていたのか、この状況から判断したのか、僕を美沙希先輩のつれ合いだと正確に理解したようだ。 「すみません、先輩。真先輩をお借りしてもいいでしょうか?」 「お、おう……?」 美沙希先輩は目をぱちくりさせ――たかどうかはこちらからは見えないが、面食らった様子で首肯する。 「……行きましょう、真先輩」 加々宮さんは僕の返事も聞かず、歩き出した。 つれてこられたのは渡り廊下だった。 放課後の渡り廊下は、文科系部員が活動場所である特別教室に向かうくらいにしか利用されることはなく、生徒の姿はほとんどない。 ここは僕にひとつの記憶を呼び起こさせる。 そう、学園祭二日目の夕刻の、加々宮さんの告白だ。これを奇しくもと言うべきなのか、それとも狙ってのことなのかは、加々宮さんの意図がわからない以上、僕には判断できない。 加々宮さんはその渡り廊下の中ほどのところで立ち止まり、くるりとこちらを振り返った。 「真先輩、槙坂さんと別れたって本当ですか?」 神妙な面持ちで、いきなり切り込んでくる。 「うん。世間ではそうなってるね」 こんなもの言いは僕の癖か、或いは、案外それを認めたくないと思っているからか。後者なら我ながら女々しい話である。 僕の返事を聞くと、加々宮さんは「よしっ」と小さく拳を握りしめた。 そして、 「じゃあ、わたしとつき合ってください」 ぱあっと顔を明るくして言う彼女に、僕は思わず呆気にとられた。 「……なぜその話が復活した?」 「えー、だって、今がチャンスじゃないですかー」 「……」 ですかー、と言われても賛同しがたいのだがな。 「悪いけど、僕は上にはいかないんだ。この付近の大学でもない。卒業したらこの街を離れるよ」 「あ、大丈夫です。それ、知ってますから。サエちゃんから聞きました。留学するんですよね?」 知ってる? 知っていてそれを言っているのか? いよいよ彼女が何を考えているかわからなくなってきた。 「だったら、どうして?」 「それでもいいんです」 僕の当惑をよそに、加々宮さんは至極簡単に、あっけらかんとして言う。 「それにあくまでも可能性の話だと思うんですよね。もしかしたら行けな……もとい、行かなくなるかもしれないじゃないですかー?」 「今さらっとひどいことを言いかけたな、おい」 だからなんで賛同できそうにないことを「ですかー?」と聞くのだろうな。 確かに可能性の話ではある。何せ決して簡単なことではないのだ。下手をしたら試験問題すら読み解けなかった、なんて事態もあるかもしれない。それでも僕が今まで確定事項として語ってきたのは、自分ではどうしようもない壁にぶち当たらない限り諦めるつもりがないからだ。 加々宮さんは、己の暴言と僕の抗議には知らん振りで話を進める。 「というわけで、日本にいる間だけでもつき合ってください」 「その場合、僕が槙坂先輩から君に乗り換えた最低男として見られかねないのだが」 それは御免こうむりたいところである。 「人目を気にするような人じゃないでしょう」 「かもね」 実際、いちいち気にしていたら槙坂涼と一緒になんていられない。そこにいるだけで人目を惹く人なのだから。とは言え、妬みやっかみ嫉妬の類ならどこ吹く風だが、さすがに白い目は気にすべきだろう。 「それにわたしなら槙坂さんと違って、残り一年も学校で一緒ですよ」 「ああ、本当だ」 なぜか妙に納得してしまった。 「でも、さっきも言ったように、僕はいずれいなくなる身だ」 「そこは、ほら、あらかじめわかってたら、そういう心構えでつき合えますし?」 ある意味、加々宮さんらしいタフでポジティブな考え方だ。 僕も最初から槙坂先輩にそれを告げていればよかったのかもしれない。そうすればもっと穏やかに別れられただろう。いや、そもそもつき合っていなかったか。どちらにしても今のような事態は避けられたに違いない。 「それで一年たって、それでもやっぱり別れたくないって思ったら、わたし、後から真先輩のこと追いかけちゃうかもです」 「アメリカまで?」 「もちろんです」 僕が加々宮さんの思い切った発言に驚き聞いて返すと、彼女はきっぱりとうなずいた。 「でも、サイモン先生の授業を怖がってる加々宮さんにそれができるとも思えないけどね」 「で、できますぅ。サイモン先生でもニャンコ先生でもなんでもこいです」 「それは頼もしいね」 加々宮さんの勢いに微笑ましいものを感じてしまう。 僕も似たようなものだ。自分の夢を見定めた後は、父の援助をあてにし、外国人教師や帰国子女の級友から実践的な英語を学び、盗もうとしている。夢のためなら何でもやってやる、である。 「……真先輩、今『お前じゃない』って顔してますよ」 まるで心臓を撃ち抜くような指摘。 気がつけば加々宮さんの顔から笑みが消え、真剣な眼差しをこちらに向けていた。 「わたしじゃないなら楽しそうに話を合わせないでください。槙坂さんじゃないとダメなら簡単に諦めないでください」 「……」 それは文句というよりは、叱咤に聞こえた。ならば、彼女は僕を試していたのだろうか? 「……何も知らない君が口をはさむ話じゃない」 それでも僕は思わずむっとして言い返す。 本当にみんな好きに言って、勝手に期待してくれる。例えそれが彼ら彼女らなりの叱咤激励や応援だったとしても、だ。 「知らなくありません。サエちゃんから聞いてます」 「あいつにだってそれほど話していない」 「サエちゃんを甘く見ないでください。真先輩と槙坂さんをいちばん近くで見てきた子ですよ!? 槙坂さんを置いていくんですか? 恋人じゃなかったんですか? 好きだって言ったじゃないですか」 加々宮さんは支離滅裂にも聞こえるほど、矢継ぎ早に僕を問い詰めるてくる。 「それに、お、お、お風呂も一緒に入ったくせにっ」 「それは知らん!」 身に覚えのない罪状を追加してくれるな。 「いったいどこでそんな話を聞いたんだ」 「槙坂さんに決まってるじゃないですか」 「……」 確かに、彼女に決まってるな。 いったい加々宮さんに何を吹き込んでいるのだろうな、あの人は。加々宮さんなんて単に耳年増なだけで、どうかしたらこえだより耐性がないかもしれないというのに。 一気に気勢が削がれた。 僕は深々とため息を吐き、それから体を渡り廊下の窓にもたせかけた。 「そんな気持ちでアメリカに行けるんですか?」 加々宮さんが改めて問う。 「行けるか行けないかで言えば、行けるさ」 「そんな……」 加々宮さんが泣きそうな顔をする。 これが彼女の本質なのだろう。普段なんだかんだと悪女ぶってはいるが(そして、いつもマジもんの悪女にコテンパンにされているが)、僕と槙坂先輩の行く末を心配してくれているのだ。 対して僕は、先のように言い切ってみせた。 そのときがきたら何もかもを振り切って僕は行くだろう。いま僕が思い悩み、周りが気を揉んでいる問題も、所詮は時間がたてば忘れる種類のものでしかない。 「でも、それでいいかと言えば、きっとダメなんだろうな」 僕は彼女のため、そして、それ以上に自分のために言葉を継ぐ。 「じゃあ!」 「無茶を言わないでくれ。ただ単にこのままじゃいけないと思っただけだよ」 やはりもう一度、槙坂先輩と話をすべきだろう。 改めて彼女に謝って、それで――笑って見送ってくれというのは、僕の身勝手でしかない。でも、せめてわかってほしいと思う。僕が抱く夢を。彼女と過ごした日々の中で積み上げた想いを。そして、願わくば、僕が日本にいる残りの一年もそばにいてくれたら、と。 「明日、彼女に会ってくるよ」 僕は今決めたことを口にする。 「大丈夫ですよ、真先輩」 「うん? そうかな?」 我知らず、口許に笑みが浮かぶ。 僕のことを親身になって心配してくれた加々宮さんがそう言うのなら心強い。 「振られてもわたしがいますから」 「……」 別に不退転の決意で臨みたかったわけではないが、そういう滑り止めがあるのもどうかと思う。というか、加々宮さんとしては、己の立ち位置はその座標でいいのだろうか。 その女、小悪魔につき――。 2016年2月13日公開 |
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