幸いにして、そのときの授業は先生の事情か、はたまた単なる気まぐれか、終業のチャイムが鳴る五分まえに終わった。好都合だ。僕は先生が授業の終わりを告げると、すぐさまテキスト類をまとめ、教室を出た。 歩く速度はやや速め。 逸る心が表れているのだろうか? いや、気持ちは落ち着いているつもりだ。 教室を出て向かった先は、また別の教室。辿り着いたときには、時計は授業の終わり二分前を差していた。自分で思っていたのより早い。 その教室の前で待っていると、程なくしてチャイムが鳴った。続けて、あまり間をおかず先生が出てくる。どうやら授業の延長はなかったようだ。好かれる先生の第一条件だな。入れ違いに僕が中へと這入る。 教室の中は授業が終わった解放感に満ちていた。皆、テキストやノートをまとめながら、固まって座った友達同士で話に夢中で、入ってきた僕に気づいたのは入口付近にいた数人だけだ。それもちらとこちらを見ただけで、気にも留めていないふうだった。 教室を見回さなくても彼女――槙坂涼の姿はすぐに見つけることができた。 槙坂先輩は、教室は変われどいつもの場所に座っていた。ほかの生徒と同じように片づけをしながら、話しかけてくる周りの女子生徒に微笑みと相づちを返している。 僕は意を決して足を踏み出した。 早々に教室を出ようとする生徒何人かとすれ違いながら、彼女のもとへと歩を進める。最初に僕に気づいたのは槙坂先輩ではなく、周りにいる女子生徒のひとりである伏見唯子先輩だった。 「おー、藤間君だ。久しぶり」 「どうも」 座った状態から僕を見上げてくる伏見先輩に軽く頭を下げ、挨拶を返す。確かに久しぶりだ。このところ槙坂先輩と顔を合わせていなかったからな。自然、彼女の周囲の人物とも遠ざかる。 「丁度いいところにきたね」 「何ですか?」 と聞き返せば、伏見先輩はイスに座ったまま両手を広げて何やらアピールしてきた。 「ああ、乗り移るんですね」 授業も終わったことだし、そばに置いてある車椅子に移りたいのだろう。そして、それを僕に手伝えと言っているのだ。 「その通りだけど、なんか言い方が怨霊っぽくない?」 「どうせなら飛び移ったらどうです?」 「涼さーん、最近藤間くんが冷たいんだけどー」 伏見先輩は腰をひねり、槙坂先輩のほうを向いて訴える。 しかし、 「そういう子よ」 と、槙坂先輩。どうにも含むところのありそうなニュアンスだ。ため息がここまで聞こえてきそうである。 「ほら、いいから手を貸す」 「仰せの通りに」 僕が伏見先輩の前に回り、顔を寄せるようにして腰を曲げると、彼女はその僕の首にしがみついてきた。「失礼します」と声をかけてから腰に手を回し、抱え上げてそのまま車椅子へと移す。 「おー、さすが男の子、安心感がちがうね」 「というか、これくらいなら自分でできるでしょうに」 伏見先輩は車椅子で日常生活を送っているが、足がぴくりとも動かないわけではない。やろうと思えば自分の足で立つこともできるし、ごくごくゆっくりとなら歩くこともできる。イスを移るくらいなら、こういう補助も必要はないのだ。でも、逆に言えば、その程度しかできないのである。 「役得役得。お互いにね」 まぁ、女の子に抱きつかれ、腰に手を回しているのだから、そうと言えなくもないか。 そうしてから僕はようやく槙坂先輩へと向き直った。 「こんにちは、藤間くん」 「……」 普段通りの挨拶に添えられた微笑を見て、僕は何も言葉を返せなくなる。 ああ、この笑みは『槙坂涼』のものだ。彼女が『槙坂涼』を演じるときに浮かべる微笑み。普通のやつなら、これで心を鷲掴みにされるのだろう。それほどたおやかで淑やかで魅力的な微笑だ。だが、本当の彼女を知る僕は、もっと別のものに心を締めつけられる。……僕に、そんなふうに笑うな。 だが、この程度で怯んではいられない。 「……話がある」 「そう。でも、わたしにはないわ」 すっ、と槙坂先輩の顔から表情が消え――その口から紡ぎ出された返事は、実にあっさりしたものだった。 「あ、あのさ、涼さん。そう言わずに聞いてあげたら?」 まるで睨み合うようにして対峙する僕と槙坂先輩の間に、狼狽した様子の伏見先輩が割って入る。当然ながら、彼女も今の僕たちがどうなっているかは知っているだろうし、気を遣ったのかもしれない。 槙坂先輩はため息をひとつ吐く。 「どうぞ。……ここで話せるような内容なら、だけど」 「……」 周りを見れば伏見先輩をはじめとして、幾人かの生徒がこちらの動向を窺っていた。確かに人目の多いところでするような話ではないかもしれない。――が、かまうものか。 「僕の留学の件だ」 僕は切り出した。 最初に反応したのは、そばにいた伏見先輩だった。「え、留学!?」と、車椅子の上で体を跳ねさせる。それを皮切りにほかの生徒もざわつきはじめた。「留学?」「藤間君って留学するの? すごーい」「じゃあ、槙坂さんと彼って……?」。 「それはもう終わった話ね」 周囲のざわめきをよそに、槙坂先輩は静かに言い放つ。……やはりもとより聞く気はないようだ。まぁ、想定の範囲内か。 「大事な話なんだ。逃げずに聞いてほしい」 「逃げる?」 途端、槙坂先輩の表情が一変する。 「逃げてるのはどっちよ!? いつもいつも手を伸ばせば逃げてばかりで。今度は本当に手の届かないところに行ってしまおうと言うの!?」 両手で机を叩き、立ち上がった。 「仕方ないだろう。僕にはアメリカでやりたいことがあるんだ」 「だったら、なぜそれをもっと早く自分の口で言ってくれなかったの!? 大事な話なのよね!?」 「それは悪かったと思ってるさ」 切谷さんの口から伝わってしまったのは不慮の事態だったとしても、ずるずると先延ばしにしたのは僕の悪手だった。そこは責められても仕方のないことだろう。 「勝手なことばかり言って」 槙坂先輩は鼻で嘲り笑う。 「わたし今、藤間くんのことがきらいよ」 「っ!?」 思わぬひと言に絶句する僕に、槙坂先輩はここぞとばかりにまくし立ててくる。 「あなたの笑顔が不愉快! わたしだけのものじゃないどころか、わたしにだけ笑ってくれない!」 「……」 「優しいところがきらい! 誰にでも優しくして。さっきだってそう。唯子にはあんなことも自然にできるのに、わたしには甘い言葉のひとつもないわ」 それを聞いた伏見先輩が「あちゃー」と天を仰いだ。いや、たぶん伏見先輩は悪くない。まぁ、間が悪かったのは確かだが。 「それにすぐに女の子と仲よくなるところもきらいよ。唯子に加々宮さんに切谷さん。この前は別の女の子とも仲よく顔を寄せ合っていたわ」 最後のは瀬良さんのことだろう。その場では無視していても、しっかり頭にはとどめていたらしい。 ヒートアップしていく槙坂先輩とは逆に、僕は冷静になっていく。冷静ついでに――改めて聞くとひどいやつだな。何だその男のクズ。どこのジゴロだ。 「バカバカしい。まさか槙坂涼ともあろうものが、そんなわかりやすいものを求めていたわけじゃないだろう」 「当たり前よ。そんなものもう間に合ってるわ」 だろうな。下心からであれ、槙坂涼の人徳のなせる業であれ、彼女に笑顔を投げかけ、優しくする人間はごまんといる。 「だったらなぜ言う」 「言いたくなることもあるわ」 まるで八つ当たりだな。 とは言え、きっと言わせてしまったのは僕なのだろう。 「そうか。あなたが僕を嫌いと言うなら、僕も言わせてもらおう。……僕はあなたが好きだ」 「え……?」 槙坂先輩の口から小さな声がもれた。 彼女の頬がかすかに赤くなり、目も居心地悪そうにわずかに泳いでいた。ずいぶんと珍しい反応だ。尤も、言った僕も恥ずかしくて――おかげで互いにこうして次に口にすべき言葉を見失ってしまっているのだが。 「……言いたくなることもある」 その沈黙を埋めるように、僕はようやくの思いで発音した。 槙坂先輩がはっと我に返る。 「じゃあ、どうしてつれていくって言ってくれないの!?」 どうやら先のひと言は槙坂先輩の神経を逆撫でしてしまったらしい。彼女の語気がまた荒くなる。怒って照れて、また怒って。忙しいことだ。そして、らしくない。 「わたしは前に聞いたわ。つれていってって。でも、あなたは……っ」 「……」 そうだ。確かに聞かれた。明慧大の図書館で、「わたしもアメリカにつれていってくれる?」と。冗談めかせて。でも、彼女は本気だったのだ。それに対し僕は、ろくに考えることもせずに拒絶した。 今にして思えば、あれが決定的な決裂の瞬間だったのだろう。 それでも、 「それでも僕の答えは変わらない。――無茶を言わないでくれ。今の僕にそんな覚悟ができるわけがないだろう」 そして、おそらく今のらしくない彼女も、本音を吐いているのだ。 「いいわ。なら勝手についていくから」 「勝手に決めてくれるな。それこそ勝手な話だ。人に言えた義理かよ」 再び僕たちは睨み合う。 本当に勝手だ。それでこそ槙坂涼と言うべきか。 しかし、それなら僕にも考えがある。 「やれるものならやってみればいいさ。そこまで勝手なら勝手を貫けばいい」 「いいのね?」 「ああ」 挑戦的に問い返してくる彼女に、僕はうなずく。 「だけど、僕はそんなことをさせるつもりはないよ。勝手についてこられるなんてたまったものじゃない。……だから―― 一年」 僕はそこで言葉を切った。 一拍。 その一拍で次の台詞を吐く覚悟を決める。 「僕が卒業するまでの残り一年で、僕は覚悟を決めてみせる。あなたを一緒につれていく覚悟だ」 槙坂先輩が目を丸くする。 「それでもし僕にそれができなかったら、そのときは槙坂先輩の勝手にすればいい」 「……」 まだ固まったままの槙坂先輩。 やがて彼女は、ぷっ、と噴き出し――腹を抱えて笑い出した。その様子は可笑しくて可笑しくてたまらないと言わんばかりで、僕はもちろんのこと、周りにいた生徒も呆気にとられる。誰もこんな槙坂涼は見たことがないに違いない。 そして、そこからはあっという間の出来事。 「それでこそ藤間くんだわ」 どこか誇らしげにそう言うと、彼女はいきなり唇を重ねてきた。 衆人環視の中でのキス。 僕はいったい何が起こったのかわからず、頭の中が真っ白になった。 周囲の「えっ?」や「あっ!」の驚きの声に混じり、「きゃー!」といった歓声にも似た声も上がったが、それらもどこか遠くのもののように聞こえる。 やがて顔が離れ――彼女はいたずらっぽくも艶めかしく、舌で唇を舐めた。 そこでようやく僕は現実を取り戻す。 「こんなところで何を!?」 「そうね。じゃあ、外に出ましょう」 僕の文句などどこ吹く風で、テキストやノートを手に取ると、槙坂先輩は颯爽と教室の出入り口へと歩き出した。僕がついていくことをまるで疑いもせずに。おとなしく従うのも癪なのだが、しかし、この場に残ったところで針のむしろは必至なので、僕は逃げるようにして足早に彼女の後を追った。 槙坂先輩と中庭を歩く。 「まったく。これで学校にきにくくなった」 「そう? わたしは平気よ」 まぁ、そうだろうな。そうじゃないと『槙坂涼』なんてやってられないに違いない。 僕も登校拒否するわけにもいかないだろう。逃げれば逃げるほど出ていけなくなるパターンだ。先ほどの授業をとっていないのだけが救いか。 「本当、あなたは天邪鬼ね」 「何のことだ?」 と聞き返してみたところで、心当たりがありすぎる。そして、今に限って言えば、どのことかは明々白々だ。 「さっきのことよ」 「……」 それしかないだろうな。 「だってそうでしょう? 藤間くんがわたしをつれていくにせよ、わたしが勝手についていくにせよ、結果は同じだもの」 「だが、僕の矜持の問題が残る」 勝手についてこられるというのもそれはそれで男冥利に尽きるのかもしれないが、僕としては立つ瀬がないのである。 それはさておき。 「さて、これからどうするか……」 覚悟を決める覚悟はできたが、覚悟だけではどうにもならないこともある。現実的なことも考えなければな。 「どうにかなるわ」 「簡単に言ってくれる」 と、そこで不意に槙坂先輩は、一見して関係ないと思えるような話を振ってきた。 「藤間くん、1450年は何の年だったかしら?」 「1450年? ずいぶんと曖昧な問題だな」 歴史の教科書を開けばいろいろと出てきそうだが、ほかでもない僕に出した問題であることを考えればおのずと答えは見えてくる。 「グーテンベルクの活版印刷?」 「正解」 出来のよい弟を褒める姉のように彼女は言う。 図書館史はヨハネス・グーテンベルクの活版印刷を抜きにして語ることはできない。書物の大量生産を可能にした革新的な技術がこの活版印刷で、火薬、羅針盤とともにヨーロッパに変革をもたらした三大発明のひとつとされている。 その最初期に印刷された聖書は、『グーテンベルク聖書』『四十二行聖書』と呼ばれ、世界大百科事典には次のように記されている。 『それはゴシック書体の傑作であるうえ、いずれの点からみても非のうちどころのない、活版印刷最初の本であり、人はその語間から発する精神に読む以前すでに打たれたという』 僕はいくつかの書籍のカラー口絵でしか見たことがないが、美しい書体と五百年以上たってなお色鮮やかな装飾は、百科事典にそう書かれるだけのことはあると万人が認めることだろう。 グーテンベルク聖書の印刷部数は百六十〜百八十で、現存しているものは四十八部のみ。それらは世界中の大学図書館や博物館で厳重に保管されている。 日本にも一冊、慶應義塾大学の図書館に所蔵がある。1987年に競売に出され、丸善が八億円弱で落札したものだ。本来、グーテンベルク聖書は上下二巻なのだが、これには上巻しかない。しかし、それでも現存するグーテンベルク聖書の中で最も美しいものの一冊とされているのだ。 「知ってる? グーテンベルクは1450年よりも以前に印刷技術を完成させていたの。でも、すぐに世に出すことを躊躇った。これによって悪書が粗製濫造されることを心配したのね」 「それは知らなかったな」 図書館史には当然興味はあるのだが、あまり人物背景には目を向けたことはなかった。 「どこでそんな知識を?」 「もちろん図書館よ。言ったでしょう? 最近わたしも図書館で調べものをするって。グーテンベルクのことを調べようと思ったのは、藤間くんが興味をもつものにわたしも惹かれたからかしらね」 そう言って槙坂先輩は苦笑した。 再び話を戻す。 「結局、グーテンベルクは数年考えて世に送り出した。どうにかなる、そんなに考えることじゃない、って」 「まさかそれが結論か?」 「ええ」 自信満々でうなずく槙坂先輩。 希望的観測。楽観論。オプティミズム。ケ・セラセラ (Que Sera, Sera=なるようになる)かよ。僕としてはセ・ラヴィ(C'est La Vie=人生そんなもの)といったところなんだがな。 「心の持ちようでどうにかなる問題じゃないよ」 尤も、それについては僕にも言える話ではある。 校舎に囲まれた中庭の小道は、校舎同士をつなぐ連絡通路の役割を果たしていて、休み時間ともなると教室の移動のために多くの生徒が行き来する。皆が皆ここを通るわけではないが、それでもこうして歩いているとたくさんの生徒とすれ違う。そして、その中の何人かは並んで歩く僕と槙坂先輩を目で追うようにしながら通り過ぎていった。どうやら久方ぶりのふたり一緒の姿が目を引くようだ。今でこれなのだ。先の一件が広まるのかと思うと頭が痛くなる。 「そうね。わたしも藤間くんと同じように留学するのがいちばん現実的な手じゃないかしら。ひとまず日本の大学に進んで、その後で海外でやりたいことができたとでも言えばいいわ」 「それでいいのかよ。家の人は?」 「うちは放任主義だから。ほら、たびたび外泊しても何も言わないでしょう?」 「……なるほど」 うなずく僕の声が自然と苦々しいものになる。人の家をセカンドハウスにしないでもらいたい。 「それでも世間体は気にするし、案外ブランド志向だから、成績優秀、眉目秀麗な娘がアメリカに留学するとなったら、きっと諸手を上げて喜ぶわ」 自分で言うかよとも思うが、それが僕の前での槙坂先輩であり、まったくもってその通りなのだから困ったものである。 「後で男の子と駆け落ち同然の留学だと知ったらどんな顔をするやら見てみたいところではあるけど、向こうで知り合った男の子と一緒になった、くらいにしておきましょうか」 「……」 親もまさか娘がこんな神算鬼謀、怜悧狡猾な少女だったとは思うまい。 それにしても、親を試すような彼女の言動に正直驚かされた。槙坂先輩なら家に帰っても絵に描いたような仲のよい母娘、円満家庭だと思っていたのだが、意外とそうでもないのかもしれない。それとも放任主義というところに、彼女自身にも無自覚な不満があるのか。……まぁ、僕が詮索するようなことではないな。 「考える時間なら十分にあるわ」 「そうだな」 僕が卒業するまで残り一年。それ以降の僕らのことを決めるのに、一年という時間は長いのか短いのか。 「朝までじっくり話し合いましょう?」 「そっちじゃねぇよ」 しかし、槙坂先輩にとってはあながち冗談でもなかったようで――彼女はまるで行く手を遮るようにして素早く僕の前に回り込んだ。こちらが思わず足を止めたところで、僕のネクタイに手を伸ばしてくる。 そうして器用にもテキストを小脇にはさんだままでネクタイを整えながら、諭すように言うのだった。 「あのね藤間くん、一度は捨てようとした彼女が戻ってきたのよ? それなりの態度というものを示しましょうね?」 「……」 どっちが捨てただの見限っただのは、この際問うまい。少なくとも、悪いのは僕であることだけははっきりしているのだから。 「……悪かったと思ってる」 「そう。じゃあ、しっかり行動で証明してもらうことにするわ。……もちろん、優しくなんてしなくてもいいわよ」 槙坂涼は笑う。 例の小悪魔めいた笑みで。 僕は内心の動揺を悟られまいと、顔を逸らす。と、丁度そこに通りかかった男子生徒に舌打ちされてしまった。往来の真ん中でこんなことをしているのだから当然か。 僕はネクタイが直った頃合いを見計らい――というか、ほっておくといつまでも触っているので、槙坂先輩の手をやわらかく払いのけ、歩き出した。 彼女がくすりと笑ったのが聞こえた。 「わたし、藤間くんと一緒になってよかったわ」 追いついてきて横に並んだ槙坂先輩が言う。 「まさか日本を飛び出すことになるなんて。きっとこの先ずっと退屈しないわ。藤間くんもそう思うでしょう?」 ああ、そうだ。彼女はこういう性格だった。――槙坂涼は何よりも退屈を好まない。 ならば、退屈と平和と本を愛する一介の高校生である僕はこう答えよう。 「まさか。ないね。ファウスト博士じゃあるまいし、僕には悪魔(メフィストフェレス)と契約する趣味はないよ」 「もぅ……」 僕の返事がお気に召さなかったようだ。 僕は槙坂先輩とは違う。退屈な日常を好み、その退屈の中に時々スパイス程度に面白いことがあればいいのだ。でも、彼女はそのスパイスにしては少々強すぎる。 「それで、あなたの本音は?」 「ま、最悪、僕が迎えにいくさ」 「……天邪鬼」 彼女は呆れた調子で苦笑する。 そもそも、槙坂先輩が留学を反対されるかもしれないし、彼女をつれていくという僕の覚悟が固まらないかもしれない。今ここで話していることもこれから決めることも、きっと課題の多いものばかりになることだろう。前途は多難だ。 それでも僕は、例え今は無理だったとしても、必ず彼女を迎えにいこうと思う。 好みなんて変わるものだ。 読書の傾向がころころ変わるように。 恰好つけることに飽きるように。 どうやら僕はいつの間にか、退屈な毎日より刺激的な日々を好むようになっていたらしい。 強めのスパイスも悪くはない。 願わくば、いつまでも彼女の小悪魔のような微笑みが僕の隣にありますように。 −了− その女、小悪魔につき――。 2016年3月5日公開 |
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