10月31日。
 世間は数日前から、ここ数年でいよいよ日本に定着しはじめたハロウィンで盛り上がっていた。
 そして、その世間にはわたしの通う明慧学院大学附属高校も含まれている。今年は今日という日が金曜日で、土日の学園祭とくっついてしまったため、ハロウィンパーティ兼前夜祭となって、去年や一昨年にない盛り上がりを見せそうだった。
「ハロウィン、ねぇ……」
 朝、わたしは洗面台の鏡に向かってつぶやく。
「わたしも何か仮装したほうがいいのかしら?」
 今年のハロウィンパーティはサエちゃんが実行委員として参加しているので、顔を出す約束をしている。でも、仮装の予定はない。そんな衣装を持っていないし、そもそも似合うものがあるとも思えない。藤間くんは「魔女をやれ、魔女を。ぴったりだ」としきりに勧めてくる。あの子はいったいわたしをどう見ているのだろうか。一度朝までじっくり問い詰めたほうがいいのかもしれない。
 その藤間くんが喜びそうな格好ならいくつか思いつく。あれとかこれとか。うん。どれも仮装ではないけれど。こんなことばかり考えているから、美沙希に激しい女扱いされるのだろう。
「よし……」
 決めた。
 せっかくのハロウィンなのだし、わたしも楽しむことにしようと思う。
 
 
 
 10月31日。
 僕は放課後の講堂へと足を運ぶ。
 まだ時間的には最後の授業の真っ最中で、毎年恒例のハロウィンパーティはまだはじまっていない。にも拘わらず、もういくらか人が集まっているのは、この時間に授業を入れていなくて暇なのもあるだろうが、やはりパーティのはじまりが待ち遠しいのだろう。
 で、この僕はというと、今年は明日から開催される学園祭の実行委員なので、そこまで暇ではない。それでもその準備の合間を見てここまできたのは、こちらの実行委員にこえだがいるからだ。ちょっと様子を見にきたのだ。
 実際のところ、特に心配はしていない。それはあいつならしっかりやるだろうという信頼からではなく、ただ単に一年生である以上下っ端だろうし、仮にこのイベントが失敗に終わったとしてもあいつが責任をかぶるわけではないからだ。
「さて、こえだは、と」
 講堂の入り口に立って中を見渡す。
 先にも触れた通り、もうすでに生徒がそこそこ入っていて、並べられつつあるお菓子やらドリンクやらに手を出している。喰うな飲むなまだはじまってないと実行委員が注意しているが、準備の片手間に声を張り上げているだけなので、あまり効果は上がっていないようだ。仮装しているせいで、少々悪乗りしている部分もあるのだろうな。もうすでにグダグダになりつつある。
 やれやれ、とため息を吐いていると、
「おーい、しーん」
 こえだの声だった。
 二の腕に実行委員の腕章をつけただけの制服姿のこえだが駆けてくる。その姿は相変わらず小動物のようだ。
「きたんだ」
「お前の様子を見にね。……どうだ?」
「うーん……」
 渋い顔をするこえだ。その視線は、すでに一部の生徒が勝手にはじめてしまっている感のある会場に注がれている。
「まず入らせてしまった時点で失敗だな」
 僕なら入り口に看板を立てるなり紐を張るなりして、時間まで入らせない。
「注意はしてるんだけどね」
「誰が?」
「あたしとか、主に一年。下っ端の役目」
 そこも失敗。人選ミスだ。そういうのは早めに、それも三年生がやらないと。
「真ってよくこんなのいくつもやってきたよね。ぜんぜん楽しめる気がしないんだけど」
 もうすでに心底疲れたふうのこえだ。
「ま、イベント自体を楽しむことは諦めるんだな」
「滅私奉公?」
「というよりは、別の楽しみを見つけるんだよ。イベントを予定通りに進行させて、成功させる楽しみだな」
 そのあたりは自分の人生にも通じるところだ。
「ま、こうなったら時間前でもいいから、とっととはじめてしまうべきだな。で、人が集まってきたところで、改めて開催宣言だ」
 バカみたいにテンションが上がっているやつらなら、その手のセレモニィには何度でもつき合ってくれるだろう。
「真は参加しないの?」
「そんな暇あるかよ」
 こっちは明日からの学園祭の準備で忙しさのピークを迎えているのに。
「涼さんもくるのに」
「僕はあの人の附属品か」
「どちらかというと、今日はわたしが藤間くんの附属品ね」
 そんな声と同時に、僕の腕に何かがからみついてきた。
「わ、涼さんだ」
 そう。槙坂涼である。
 いつの間に近づいてきたのか、いきなり腕を組んできたのだった。
「ちょっと早いかと思いながらきてみたのだけど……もうはじまってるの?」
「えっと、まぁ、そんな感じかも……」
 さすがになし崩し的にはじまってしまったとは言えず、こえだは苦笑いを浮かべている。
 ところで、である。
 槙坂涼は今、僕の腕に自分の腕をからめてきている。しかも、何を考えているのか、べったりと体を寄せてもきているのだった。まるで足をからめるみたいにして太ももまで。制服を着ているときにはまずやらない行為だ。
 僕は思わず彼女を見る。
「どうかした? 言いたいことがあるならはっきり言いましょうね」
 そして、僕の非難めいた視線に気づき、槙坂先輩もこちらを見た。
 体の距離が近ければ、当然、顔の距離も近くなる。その至近距離で彼女は、まるで裏表などないかのように微笑んでみせるのだった。
「前に言ったはずだが?」
「忘れたわ。それに想いは口にしないと伝わらないものよ」
「……」
「……」
 もしや僕は試されているのだろうか。こういうのはなかなか言いにくいものなのだがな。前と違って本人に自覚がある、というか、わかっててわざとやっているのだろうから比較的指摘しやすいが、今はそばにこえだがいる。あまりそんなやり取りは聞かせたくない。
 なお、傍目ではわかりにくいが、このとき僕と槙坂先輩は熾烈な争いを繰り広げていた。僕は拘束から逃れようと試み、彼女は僕を逃すまいとがっちりホールドする。その力が均衡しているせいで、外見上何も変化がないように見えるのだ。
 力の限り振りほどけば逃れられないこともないのだが、それはそれでなりふり構っていないようで敗北感がある。
 結局、僕は程なく抵抗を諦め、ほうっておくことにした。そう長くは続かないだろう。
「ね、涼さんは仮装しないの?」
 こえだは期待を込めて槙坂先輩に聞く。
「わたし、そういうのはよくわからないから。前に一度藤間くんにも尋ねてみたのよ? どんな格好がいい? 好みに合わせるわよって。でも、ちゃんと答えてくれなくて」
「せっかくだから何か言えばいいのに。涼さん、なに着ても似合うんだからさー」
 口を尖らせ、不満を僕に浴びせるこえだ。こいつは絶対平和的な想像をしているに違いない。
「僕は魔女をやれと言ったただろ」
「魔女っていうと、魔法使い?」
 と、こえだが首をひねる。
「そうとも言うな。それも悪い魔法使いだ」
「ほら。こんなことばっかり言うのよ。どう思う?」
 槙坂先輩は苦笑。
「今さら何も用意できないし、悪いけど制服のまま参加させてもらうわ」
「ちょっと残念だけど、うん、仕方ないね。じゃあ、涼さん、楽しんでって。真も、またこれそうだったらきてよね」
「努力する」
 正直ちょっとむりそうだが。
「こえだもしっかりやれよ」
「がんばってね」
 僕と槙坂先輩は、手をふりふり張り切って戻っていくこえだを見送る。
「で、いつまでそうしてるつもりだ?」
 続けて、相変わらず僕の腕を取って体を密着させたまま、何やらやわらかいものを押しつけている槙坂先輩に問う。
「あら、何も言わないから、このままがいいのかと思っていたわ」
「過去、僕がそれを望んだことがあったか」
 ようやく離れてくれた。
 なんだろうな、この普段やらないようなことをする槙坂先輩は。今日のハロウィンや明日からの学園祭で浮かれているのだろうか。
「さて、じゃあ、僕も戻るとするよ」
「あなたもがんばってね」
「ああ」
 僕は踵を返し、背中越しに手を振りながらこの場を後にした。
 休憩は終わりだ。
 よりよい学園祭のため、ひいては全校生徒のため、もうひとがんばりするとしようか。
 
 そのもうひとがんばりは、夜九時まで続いた。
 もとより学校に残っていられるのはその時間がリミットだとあらかじめ言われていて、先生が様子を見にきたのと同時くらいに前日の準備は終了したのだった。合間にちょっとした差し入れを口にしたが、まともな食事にはほど遠い。空腹を感じつつマンションに帰ってきたときには、時計の針は十時を指そうとしていた。
 暗証番号を入力してエントランスに入り、ちょうど一階で止まっていたエレベータに乗り込む。いつもならここで、自分の部屋がもう目の前ということで、気を緩めてため息のひとつも吐くところだが、
「ところで、あなたはどこまでついてくるつもりなのだろうか?」
 僕は一緒にエレベータに乗り込み、肩を並べている槙坂涼に問うた。
「もちろん、ここに住んでる知り合いのところまでね」
「ほう、そんなのがいたのか」
 初耳だな。
「ええ、そうなの。わたしの彼氏よ。素敵な男の子。ちょっと素直じゃないけど、そこがかわいいと言えばかわいいわね」
「……」
 ダメだ。勝てる気がしない。
「僕は明日も準備で、朝が早いんだが?」
「知ってるわ。大丈夫よ。起こしてあげるわ。朝ごはんもわたしが作るから、あなたはギリギリまで寝てなさい」
 彼女の口調はまるで世話好きな姉のようで。
「まぁ、そういうことなら」
 これはこれでやっぱり勝てる気がしなかった。……せっかくなので、お言葉に甘えるとしようか。
 
 明日の朝食どころか、今日の夕食まで槙坂先輩が作ってくれた。
 別に冷蔵庫は開けたらいつも空っぽということはないのだが、所詮は男子高校生のひとり暮らし。何でも作れるほどいろんなものが詰まっているわけでもない。にも拘らず、「よくもまぁ……」とため息が出そうなほど豪勢な夕食が出てきた。
 それをありがたくいただき、十時半過ぎ。
 それから風呂に入って出てくると、もう時刻は十一時を回っていた。
 そして、現在、僕はリビングで読書をし、槙坂先輩は風呂に入っている。
 落ち着かない気分だった。
 本当なら明日の朝も早いことだし、本など読まずに寝てしまいたいところなのだが、槙坂先輩を放って自分だけそうするわけにもいくまい。かと言って、彼女が風呂から上がってくるのを待っているという今の状況も居心地が悪い。
 そんなさっぱり内容が頭に入ってこない読書をどれほど続けていたのだろうか。やがて彼女が風呂から上がってリビングに戻ってきた。
 ちらと横目でそちらを見れば、丈の長いTシャツ姿。Tシャツワンピースというやつだろう。下にレギンスなりスパッツなりを合わせればスポーティではあろうが、裾から伸びているのはすらりとした素足だ。そうなるとスカートの丈としては少々頼りない。
 極力そちらを意識しないように活字を追っていると、こともあろうに彼女は僕の隣に座ったのだった。
「なぜここに座る?」
「このソファ、ふたり掛けでしょう?」
 答える彼女が足を組むのが視界の隅に見えた。
 確かにこのソファはふたり掛けだ。余裕をもって作られているので、ふたりで座ったとしても窮屈さはない。だからと言って、ふたりしかいないときに、わざわざ並んで座ることもないだろう。そう。特別な意図がない限り。
「わかった。僕が向こうに移ろう」
 本を閉じ、立ち上がった。
 が、しかし、腕を引っ張られ、また座らされる。それどころか――とん、と胸を突かれると、さほど力が入っていたようにも見えなかったのに、僕はソファの上に仰向けにひっくり返っていた。いったいどんな技だ。
「ここがいいわね」
 そして、その僕に槙坂先輩が馬乗りになる。
「何をする!?」
「そうね。ハロウィンパーティかしら」
 今まで僕が見たこともないような蠱惑的な笑みが、彼女の口許に浮かんだ。風呂上りで肌が上気しているせいもあり、いやに妖艶だ。
「僕が知ってるハロウィンは仮装したりするものなのだが」
 少なくとも人に馬乗りになったりはしない。
「してなくもないわよ。……藤間くん、勝負下着って知ってる?」
「……いや、残念ながら」
「そう。それはおしえ甲斐があっていいわ」
「……」
 まさかそれが仮装なのだろうか。どうやらハロウィンも日本に定着すると同時に、さっそく多様化の道を辿りはじめたらしい。
「安心して。むやみに過激なだけのものじゃないから。なかなかセンスのいいデザインで、適度に刺激的(セクシャル)よ。それに我ながらよく似合ってると思うわ」
 聞かないほうが精神衛生上よろしいような説明をしてくれる。
「あなたの好みに合わせたつもりよ」
「僕の? 言ったか?」
「言ったわ」
「……」
 ぜんぜん覚えてないのだが。いったいいつの間に僕はそんな上級者になったのだろうか。思わず今の状況も忘れて天を仰いでしまう。
「ああ、でも、今はダメね。半分しか見せてあげられないわ」
「半分?」
「わたし、寝るときはブラをしないもの」
「うぐっ」
 またしても欲せざる情報(ところ)を施され、僕は喉を詰まらせそうになる。
「じゃあ、はじめましょうか?」
 そう言いながら槙坂涼は自分の唇を舐める。
 もとから大人っぽく魅力的な美少女ではあったが、今ここにいる彼女はやたらと挑発的で、眩暈がしそうなほど艶めかしい"女"だった。
「……ま、待て」
 どうにか声を絞り出す。
「なに? 今さら何をなんて聞かないでね?」
「明るいんだが、いいのか?」
 いつもは恥ずかしいからと、必ず照明を落としている。
「そういう気分のときもあるわ」
 あっさり一蹴。……じゃあ、いつものあの態度は何なんだ。
「重い」
「普段はそんなこと言わないくせに」
「まぁ、思ってないからね」
 苦し紛れに言ってみただけだ。
「大丈夫よ。仮にそうでも、すぐにそんなこと思ってる余裕なんてなくなるわ」
 槙坂先輩は、僕の前髪をそのしなやかな指で払い、頬をしっとりとした手で撫でると、ゆっくりと顔を近づけてきた。
 冷静に考えるに、この状況に対し抵抗や拒絶をしなくてはいけない理由が僕にあるのだろうか。別に主導権を握りたいと思っているわけではないので、そんな理由はないと言えばない。僕が戸惑う何かがあるとすれば、昼間にも垣間見たこの彼女らしからぬ態度だろう。
 と、不意に槙坂先輩がぴたりと動きを止めた。
 お互いの瞳の中に自分の姿を見てとれるほどの距離だ。
「時間切れね」
「え?」
「日付が変わったわ」
 彼女がすっと離れ、僕も首を巡らせて時計を見てみた。
 午前零時過ぎ。
 確かに日付が変わっている。
「ハロウィンは終わりね。どうだった、わたしの悪い魔女は」
 槙坂先輩はいつものいたずらっぽい笑みで問うてくる。
 なるほど。これが彼女なりの仮装だったわけか。仮装にもいろいろあるものだ。
「危うく毒でやられるところだったよ。……まったく。僕がその気になったらどうするつもりだったんだ」
 僕は体を起こす。
「え? それは……」
 途端、彼女の目が泳ぎはじめた。
 どうやら考えていなかったようだ。まぁ、僕が抵抗することはわかっていただろうし、からかっているうちに時間切れになるくらいの計算は立っていたのだろう。
「も、もちろん思いっきり乱れてみせるわ」
「……」
 その様子では演じ切るのは難しそうだ。
 でも、たった今、彼女の新たな素質を見せられたような気がして、案外そう断言もできないのかもしれない。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2014年11月3日公開

 


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