『天使の演習』でバイトをはじめて最初の日曜日。 基本的に今までは開店後、本格的に忙しくなる前に店に入っていた。が、日曜は平日より何割か増しで忙しいらしく、開店前から出勤してほしいと店長に頼まれた。もちろん僕は、そして、槙坂先輩も、特に断ることなく引き受け、こうしてここにいる。 忙しい店内の様子に慣れてしまったせいか、開店前の雰囲気はなかなか新鮮だった。 店長夫婦はすでにきていた。店の鍵を持っているのだから、当然と言えば当然だ。軽食関係の仕込があるのか、カウンタの向こうではキリカさんがもう仕事をしていた。 単純に店を開けるための作業自体はそれほどなくて、僕と槙坂先輩は店長の指示通りに動き回る。 「きゃっ」 と、そのとき、槙坂先輩の口から小さな悲鳴が上がった。 「どうした?」 「ね、猫が……」 猫? 何か小物でも落としかけたかと思ったが、返ってきた答えは妙なものだった。彼女はテーブルクロスを抱えたまま困り顔で足もとに目をやっていて、そこには確かに小さな三毛猫が一匹、槙坂先輩の足に体をこすりつけていた。 「君……」 その非難めいた発音は店長のものだった。目はキリカさんに向けられている。 「や、槙坂さんたちに見せてあげようと思って」 「それならそれで奥の部屋から出てこないようにしてください」 「はーい」 怒られて拗ねる子どもみたいな返事をしつつ、キリカさんはその仔猫でも成猫でもないような大きさの三毛猫を抱き上げた。 「もしかして家で飼ってる猫ですか?」 「ええ。ヴィーちゃんっていうんですよ」 こちらに見せるようにして、嬉しそうに紹介してくれる。 彼女(高確率で『彼』ではない)は『ヴィー』という名前らしい。改めてその姿を見ると、今はずいぶんとどうでもよさそうな、やる気のない顔をしていた。挙句の果て、あくびまでしはじめる始末。槙坂先輩の足もとにいたときとはえらい違いだな。 「後でかまってあげてくださいね」 そう言うと、キリカさんは彼女をつれて奥の部屋へと消えた。 「すみません。驚かせてしまいましたね。今日は僕がひと足先に出てきたから、つれてきてるのを知らなかったんです」 「猫を飼っていらしたんですね」 槙坂先輩が店長に聞く。 「彼女が飼いたいというもので、司さんの伝手で一匹いただきました」 「司さん?」 誰だ、それ? 「ああ、君たちはまだ会ったことがなかったですね。この店の入り口に飾ってあるメニューボードなんかをお願いしている美大の学生さんですよ」 美大ということはキリカさんと同じ学校ではないのか。どういう経緯で知り合ったのだろうな。 「そう言えば、近々店にくる予定なので、君たちも会うかもしれませんね。……さて、続きをお願いできますか」 「あ、はい」 「そうですね」 そうだった。まだ開店準備の最中だった。言われて僕らは作業を再開。程なくカフェ『天使の演習』は時間通りに開店したのだった。 日曜は確かに普段よりも何割か客が多い。が、臨時アルバイトが加わって人手に余裕ができ、僕たちもそこそこ仕事にも慣れてきたこともあって、比較的忙しくないときは心にもゆとりができる。 ――ふたりの女性が雑談をしていた。 「槙坂さん、夏休みはもうどこかに遊びにいったんですか?」 「ええ、プールに。藤間くんたちと」 「夏の定番ですけど、いいですね。彼の家にいったりは?」 「残念ながら、それはまだ。そういうの、なかなか許してくれなくて」 「いきなり遊びにいけばいいんです。行けば藤間くんだって喜んで家に上げてくれますよ」 「そうでしょうか。……キリカさんはよくマスターの家にお邪魔してたんですか?」 「あはは。わたしたちの場合、高校のときにはもう同棲してましたから」 「え……」 「いろいろ事情があったんです。だから、槙坂さんと藤間くんみたいな関係もいいなって思います」 「わたしはキリカさんがちょっと羨ましいかな」 「隣の薔薇は赤いってやつですね。そう言えば今度、ふたりで旅行に行くんですよね?」 「はい、イギリスに。実は彼のお母様からも許可を頂いてるんです」 「じゃあ、親公認? いい思い出になるといいですね」 「ありがとうございます」 嬉しそうに微笑む槙坂先輩。 「……あっちですっごい勝手なこと言ってますね」 「ほうっておきましょう。女性のおしゃべりなんて止めようと思って止まるものじゃありませんよ」 それもそうなのだろう。 そして、それ以上に槙坂先輩が楽しそうに話をしていることが、僕に口をはさむことを躊躇わせた。 かつて彼女は『槙坂涼は会話をしていない』と表現したことがある。槙坂先輩はカリスマでありすぎるが故に、意見や背中を押してもらうための同意を求める人間は集まってくるが、普通の女子高生のように談笑している場面(シーン)は極めて少ない。 槙坂涼と対等に会話する相手としては年上くらいがちょうどいいのかもしれない。 昼のピークを過ぎるとようやく休憩となる。ここの手伝いをはじめてから昼食をまともな時間に食べたことがない。そういうものなのだろう、飲食業とは。 僕と槙坂先輩はいつも一緒に休憩をとらされる。ふたり一緒に休むと店のほうの人手が少なくなるので別々でいいと何度か言ったのだが、ひとりずつ順々だと最後に休憩をとる人が遅くなるからと、このスタイルに落ち着のだいた。 順番はたいてい最初が僕と槙坂先輩で、次がキリカさん。そして、その最後に休憩をとる人である店長は半々よりもやや低い確率で昼食を抜いていた。 ――さて、休憩中である。 場所は奥の事務所兼控室。事務デスクと簡素な応接セットがあるだけの部屋だ。デスクの上や書棚には経理や経営に関する書籍が並んでいる。聞くところによると、店を手伝ってくれているというキリカさんの母親は、こういう経理のような事務面でもサポートしてくれているのだとか。やはり高校を卒業すると同時に店をもつというのは一筋縄ではいかず、いろいろと周りに支えてもらっているのかもしれない。 ローテーブルの上にはキリカさんが作ってくれたサンドウィッチの盛り合わせの載った大皿と、ふたり分のコーヒーがあった。それが昼食だ。おかげでここで働いていると一食浮く。 向かいでは槙坂先輩がイギリスのガイドブックを読みながら、サンドウィッチを口に運んでいた。その本はここ数日この部屋に置きっぱなしだ。僕は僕で、やはり本を読んでいる。 なお、部屋の隅では店長夫妻の愛猫、ヴィーちゃんが丸くなって眠っていた。キリカさんにはかまってやってくれと言われたが、当の本人がこれではな。『V-C』というイニシャルらしき文字が書かれたエサの皿には、少しだけ食べ残しがあった。この猫だけは時間通りに食事にありつけたようだ。 「ねぇ、藤間くん」 不意に槙坂先輩が話しかけてきた。 広げたガイドブックを僕に見せるように掲げ、その中の記事のひとつを指さす。 「このホテル、ブティック・ホテルって紹介されてるのだけど。日本でブティック・ホテルって言ったら、あれよね?」 「……まぁ、あれだな」 互いに直接的な名詞は避けた。おしゃれな単語だが、要するにいかがわしいことをするためのホテルである。一泊いくらの宿泊代のほかに、時間あたりの料金が設定されているあれだ。 「……」 「……」 気まずい沈黙が降りる。 と、 「ここにしましょう!」 「もう決めてあるって言っただろうが」 因みに、イギリスでのブティック・ホテルは、日本で言うところのデザイナーズ・ホテルに近い意味合いのようだ。 休憩を早めに切り上げ、店へと戻る。 と、そこには不機嫌顔のキリカさんと、やれやれといった様子の店長の姿があった。夫婦喧嘩とは人柄的にもTPO的にも考えにくいので、たちの悪い客でもきたのだろうか。 「どうかしたんですか?」 その雰囲気を鋭く察した槙坂先輩が尋ねる。 「聞いてくださいよ、槙坂さん。お客さんの回転が悪いんです」 「え……」 言われて僕たちは店内を見回してみた。 席は八割方埋まっている。盛況だ。だが、そのほとんどが休憩前と同じ顔ぶれのようだった。理由はすぐにわかった。お一人様の客が皆、熱心に本や雑誌を読んでいるのだ。もちろん、出どころは言うまでもなく、店の後方にある書架である。 確かに席が埋まったところで、注文が最初の一回だけなら意味がない。僕としては、固定客がつけばと長期的な視野でコーヒーハウスという手段を提案したのだが、口をへの字に曲げているキリカさんを見るに、この状況をあまりよく思っていないのかもしれない。 「これは確かに困りましたね……」 同意するは槙坂先輩。……ここにも即物的な考えの人間がいたか。 店長に目をやれば、そんなふたりの様子を見て苦笑気味。どうやら彼のほうはそこまですぐに効果を求めていないようだ。現実主義なのは女性陣だけか。 「槙坂さん、ちょっと」 「はい?」 キリカさんに手招きされて寄っていく槙坂先輩。何やらこそこそと内緒話がはじまった。現状を打破するための作戦会議のようだ。 「では」 「わかりました」 すぐに話はまとまったのか、ふたりは力強くうなずき合うと、それぞれフロアに散っていった。 僕の目は自然、槙坂先輩を追う。 彼女が向かっていったのは、話題のベストセラー小説を読んでいる中年の男性客のところだった。 「お客様、コーヒーのおかわりはいかがですか? 二杯目ということで少しサービスさせていただきますが?」 「え? あ、ああ、そうだな。せっかくだからもらおうか」 男性は驚いて顔を上げた後、すぐに表情を緩めた。……きっと槙坂先輩は満面の笑みで接客したのだろうな。果たして、彼は本当に二杯目のコーヒーが必要だったのか、それとも槙坂先輩の笑顔にやられたのか。或いは、コーヒー一杯で長居していることの申し訳なさもあったのかもしれない。 槙坂先輩が空のグラスを持って戻ってきた。 「マスター、アイスコーヒーひとつお願いします」 「こっちもー。ついでにサンドウィッチも頼んでくれました」 キリカさんも同じタイミングで帰ってきた。どうやらこちらはアイスコーヒーに加えて、軽食の注文ももぎ取ってきたようだ。 「……」 「……」 僕と店長は思わず顔を見合わせる。 ふたりの手腕に軽く戦慄した瞬間だった。 その女、小悪魔につき――。 2016年6月5日公開 |
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