『天使の演習』でのアルバイトも一週間近くがたとうとしていた。 本日も、午前は何ごともなく過ぎた。このまま夏風邪で倒れたというキリカさんの母親の復帰までつつがなくすめばいいのだが。 ――今は午前の忙しさが一段落して、奥の事務室兼控室で休憩の最中だった。 ローテーブルの上にはサンドウィッチが盛られた大皿が載っている。ここでバイトをするようになって昼は毎日サンドウィッチだが、不思議と飽きない。間にはさむ具材がバラエティに富んでいるからだろう。時にはパンをトーストして、クラブハウスサンドになっていることもある。 「何を読んでいるの?」 向かいから、同じく休憩中の槙坂先輩が聞いてくる。 その問いの通り、今、僕は本を読んでいた。 「『コーヒーとパン好きのための北欧ガイド』」 それがタイトル。 因みに、改訂版である。 「北欧? ああ、やっぱり行くのね」 「行かない。仮に行くにしても、あなたをつれていくつもりはない」 特に後者ははっきり言っておかないと。 さらに僕は続ける。 「急にコーヒーに興味が出てね」 コーヒーはよく飲むほうだ。部屋にもコーヒーメーカーがある。ついでに中学のころは味もろくにわからないのにブラックで飲んでいたという痛々しい過去まである。でも、その毎日のように飲んでいるコーヒーを、僕は単なる飲みものとしてしか見ていなかった。店長が今の僕と同じ高校生のときから凝り、こうして店を持つにまで至ったコーヒーの魅力とは奈辺にあるのだろうか。それを知るために、簡単な本から読んでみているのだった。 僕は黙ってそれを読む。 「……」 「……」 ひたすら読む。 「……」 「……」 「……ねぇ」 と、槙坂先輩。 「ずいぶんと熱心に読んでいるのね」 「……そうだね」 「隠して別の本を読んでたりして」 「見たらわかるだろう」 別に小学生が国語の教科書を音読するように机の上に立てているわけではないので、そんなことをしていないのは彼女の目から見ても明らかなはずだ。尤も、授業中なら似たようなことをすることもあるが。 「ならどうしてこっちを向かないの?」 「……」 僕は本を閉じ、ため息をひとつ。 あきらめた。 「……自分の格好を見ろ」 僕は顎で指し示すようにして促す。 槙坂先輩は不思議そうに己の姿を見下ろした。 今日の彼女はミニ丈のティアードスカート。低めのソファに座る姿は、ローテーブルをはさんで向かいにいる僕から見ると、いろいろと非常に危うい。 僕が言いたいことを的確に察した彼女は、さっと両の掌を重ねてスカートの上に置いた。顔が赤い。 前にも似たようなことがあったが――目のやり場に困っても、こういうことは指摘しにくいのである。だから、そちらを見ないように読書に集中していたのだが。 「キ、キリカさんが言ったの」 槙坂先輩は言い訳のようにそんなことを言う。 「キリカさんが? 何を?」 『明日はミニでお願いします。あ、ないなら制服でもいいですよ。それはそれで需要がありますので』 「って」 「真に受けるなよ……」 軽い頭痛に見舞われる僕。何を考えているのだろうな、あの人は。そして、何で素直に従っているのだろうか、この人は。 呆れる僕の前で、槙坂先輩はこのところこの部屋に置きっぱなしになっていたイギリス観光のガイドブックを引き寄せ、膝の上に置いた。 「いいじゃない。これくらい普通よ」 まぁ、普通、なんだろうな。実際、このスタイルも夏休みに入って二、三度見たことがある。 「こんなどこにでもあるような格好でお客さんが喜んでくれて、多少なりとも売り上げが上がるならいいことじゃない」 「喜ばせなくていい」 そして、これで喜ぶやつは死んでしまえ。 「気になるの?」 「っ!?」 槙坂涼は悪魔じみた笑みとともに膝の上のガイドブックを持ち上げてみせ――僕は反射的に顔を背けた。彼女がくすりと笑う。行儀よく足をそろえて上品に座っているので奥まで見えるようなことはないが、心臓に悪い光景であることには変わりない。 槙坂先輩が再び本を膝の上に載せたのが気配でわかった。が、僕はそのままそっぽを向いたままでいた。向いたままで、ひと言。 「……僕の気持ちも考えてくれ」 そして、沈黙。 やがて僕が思わず口をついて出たひと言を後悔しはじめたころ、槙坂先輩はまたも小さく笑った。 もちろん、僕は目のやり場に困るから今みたいなことを言ったのではなく、槙坂先輩もそれを正確に理解したようだった。 「それは彼氏としての気持ち?」 「……そう思ってもらってかまわない」 「そう。じゃあ、午後はできるだけカウンタの向こうにいるようにするわ」 そうしてもらえるなら僕としてもよけいなことで心乱さなくてすむ。何の罪もない男どもに憎しみを抱きたくはないものだ。 と、そこで槙坂先輩が立ち上がった。何だと思って様子を窺っていると、彼女はローテーブルを回り込んでこちら側へとやってきた。ぼすん、と隣に座る。 「横にいれば短いスカートも気にならないでしょ?」 「……」 僕は軽く天を仰いだ。尤も、見えるのは事務室の天井だが。 「それは確かに名案だが、」 今度は僕が立ち上がった。 「ちょうど僕の休憩が終わりのようだ。……どうぞごゆっくり」 今でこそこうしてふたり一緒にいるが、今日の昼休憩は三十分ほど差をつけてはじまった。僕が先で、彼女が後。よって、僕が先にフロアへ戻ることになる。 「もぅ」という槙坂先輩の声は聞こえないことにして、僕は事務室兼控室を後にした。 その女、小悪魔につき――。 2016年9月18日公開 |
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