3月に入ったばかりのある日。
 その日はとても暖かく、コートも必要がないほどだった。天気予報によれば、4月上旬並みの暖かさなのだとか。
 わたしは2月の下旬の式をもって明慧学院大学附属高校を卒業した身だけど、今日は学務課に用事があり、巣立ったばかりの母校にきていた。春を先取りした白のワンピースは、学校の敷地内にあってはやや浮き気味に感じなくもない。
 手早く用を済ませて学務棟を出ると、そこで下級生に見つかってしまい、あれよあれよという間に囲まれてしまった。
 口々に話しかけてくる彼女たちの相手をし――頃合いを見計らって、ほら授業がはじまるわよ、とそれぞれの教室へと向かわせる。
 ひと仕事終えて、ため息をひとつ。
 さて、ここからは『槙坂涼』ではなく、わたしの時間。
「確かあの子、今日の授業はもう終わりのはずよね」
 スマートフォンを取り出し、電話をかける。
 勿論、相手は藤間くん。
『……もしもし?』
 すぐに出た。
「こんにちは、藤間くん。わたし今、学校にきてるんだけど――」
『ああ、悪い。今日はむりだ。今度にしてくれ』
 ぷつり、と呆気なく通話は切られた。思わず端末をじっと見つめてしまう。
「もぅ」
 と、腹立たしさに足を踏み鳴らしていると、講義棟のほうからやってくる藤間くんの姿が見えた。思っていた以上に近くにいたらしい。彼もすぐにわたしを見つけたようで――なぜか苦い顔をされた。……ちょっとむっときた。
「改めてこんにちは、藤間くん」
 しかし、それを表には出さず、にこやかに挨拶。
「まさか待ち伏せていたとはな」
「失礼ね。たまたまよ。学務課に用があって、ついさっき済ませたばかり」
 なるほど、と藤間くん。ここが学務棟前だということに気づいたらしい。
「悪いけど、こっちも今日中に済ませておきたい用件があるんだ。また今度埋め合わせはさせてもらうよ」
 そう言うと、藤間くんはわたしの横をすり抜け、行ってしまった。
「え? あ、そう?」
 あまりの素っ気なさに、わたしは呆然とそれを見送る。
 どうやらいつもの軽口ではなく、本当に今日、何か用事があるようだ。しかも、その件をこなすにあたり、わたしと顔を合わせたことは、彼にとって都合が悪かったらしい。何なのだろう?
「ありゃ女だな」
「きゃっ」
 いつの間にか美沙希が横に立っていて、一緒に遠ざかっていく藤間くんの背中を見ていた。
 丈夫そうなジーンズに薄手のジャンパーという服装は、普段から男っぽい彼女をさらにオトコマエにしている。
「真にむりさせてんじゃないのか? お前が荒ぶるから、おとなしい女のほうがよくなったとか」
「そんなことあるわけないでしょ」
 荒ぶるって何?
「ぁ……」
「んだよ。思い当たる節があんのかよ」
 美沙希は訝しげに聞いてくる。
「後期テストの期間中、あの子の家にごはんを作りにいったのよ」
 そのときのわたしは、卒業できるのはとっくにわかっていたので気楽な身だった。だから、食事の世話をしてあげれば、藤間くんもその分時間を勉強に割けるだろうと思ったのだ。
「んで、うっかり毒でも入れたのか?」
「うっかり睡眠時間が短くなっちゃった」
「何しにいったんだよ!?」
「し、仕方ないじゃない。藤間くん、勉強してばかりだし……」
 アルバイトのほうも、ずっとわたしひとりで行っていた。ゆっくり会えない日が続いていたのだから、かまってほしいと我侭を言ってしまうのもむりからぬことだ。まぁ、タイミングを考えるべきだったとは思うけど。
「おーい、行くぞー?」
 わたしが曖昧不明瞭に言い訳を並べているうちに、美沙希は10歩ほど先に行っていた。
「い、行くってどこに?」
「決まってんだろ。後をつけるんだよ」
「……」
 決まってるのかしら?
 とは言え、わたしを振り切ってまで、藤間くんがどこに行くのか気になる気持ちは確かにある。
 わたしは美沙希の横に並んだ。
「本当に女の子と会ってたらどうするのよ?」
 そんな場面を目の当たりにしたら、きっと立ち直れない。
「真に限ってそんなわけないだろ」
 しかし、美沙希はきっぱりと言い切る。
「そ、そうよね……」
「あいつにふた股かける甲斐性があるかよ」
「そ、そうよ、ね……?」
 そういう信じ方なのかと指摘するより先に、疑問を感じてしまった。藤間くんのことだから、案外そういうこともあるかもと思わなくもない。何せ、未だにわたしとはつき合っていないと言い張ってるのだから。その言でいくなら、女の子と会ったところでふた股にすらならないことになる。
「……」
 いや、いくら藤間くんでもそこまでの自己欺瞞はしない。わたしはそう確信している。わたしとのことを曖昧にしているのを建前に、ほかに女の子をつくったりはしないはずだ。
 しかし、さっきも言った通り、彼の行き先は気になるので、ここは美沙希の悪事にひと口乗せてもらおうと思う。
 
 学校を出た藤間くんは、まずは駅から電車に乗った。
 当然といえば当然だろう。こんな学校と住宅地しかないような場所では、行けるところも限られている。わたしたちも隣の車両に乗り――降りたのは私鉄や地下鉄、JRの交わるターミナル駅。
 そこから歩いて向かった先は、駅前の百貨店だった。
 何となく藤間くんにはそぐわない場所だった。用事とは買いものだったのだろうか。上のほうのフロアには大型書店が入っているけど、普段の会話からあまり利用しているふうではなかった気がする。
 藤間くんが迷いのない調子で足を向けたのは、催事コーナーだった。そこは今はホワイトディ商品の特設会場となっていた。
「あー……」
「……」
 それがわかった瞬間、美沙希が気まずそうに無意味な発音をした。勿論、わたしも同じ気分だった。
 藤間くんは会場をひと回りした後、商品を3つ4つ手に取り、レジへと持っていった。ひとつとして同じものはなく、わたしたちは多少の後ろめたさがあってか、何を選んだかは意識的に気にしなかった。どんなものがわたしに回ってくるのか、当日を楽しみにしていよう。
 てっきり藤間くんはこれで帰るものだと思っていた。彼が外に出れば、わたしたちも解散。口には出さないものの、美沙希もそのつもりだったはずだ。だけど、どうやら彼はまだ何か用があるようだった。
「ほら、やっぱり女だ」
 美沙希はどうしても逢引にしたいようだ。
「槙坂が荒ぶるから」
「……」
 そして、そんなにわたしを激しい女にしたいのだろうか。
 藤間くんの店舗巡りは続く。
 ファッションフロア、小物・雑貨のお店、果ては地下の洋菓子店に書店……。統一性がない。何を買おうとしているのか、端から見ていてさっぱりわからない。というか、藤間くん自身も買うべきものがわかっていないのかもしれない。
 不意に彼が携帯電話を取り出した。電話をかけはじめる。
 わたしだったらどうしようと思った。着信音で気づかれるほど近くにはいないけど、通話中の背後の喧騒ですぐそばにいることがバレるかもしれない。
 だが、それも杞憂に終わる。相手はわたしではなかったようだ。そして、横にいる美沙希でもない。……誰だろうか? わたしたちは顔を見合わせる。
 話は意外に短く、すぐに終わった。
 藤間くんは、そのままその足で書店へと向かった。今度は先ほどとは違い、ぶらぶらと見て回る。単なる時間潰し、その間に面白そうなものが見つかったら儲けもの、といったところか。
 わたしのその印象は正しかったようで、約20分ほどしてから藤間くんは再び移動した。
 向かった先は、百貨店のすぐ外にあるフードコート。かくして、そこで待っていたのは、黒セーラー服に黒のオーバーニソックス、切りそろえた前髪と長めの黒髪が人形めいていて、意外に和風の顔立ちをした女の子――。
「ナンパか?」
「妹さんでしょ」
 切谷依々子(きりや・いいこ)さんだ。
「ああ、そう言えばそんなことも言ってたな」
 美沙希は会ったことがなかったらしい。わたしは何度かある。
 切谷さんは目を吊り上げ、藤間くんに短く文句を言った後、颯爽と歩き出した。藤間くんは肩をすくめてから、彼女の後を追う。並んで百貨店の中へと入っていった。
 今度はふたりで店舗巡りをはじめる。
 だが、
「おい、揉め出したぞ」
「みたいね……」
 何せ、そこは女性用の下着売り場――ランジェリーショップの前。男女でくれば、揉める要素はいくらでも出てくる。
「真が買ってやるとか言い出したのか?」
「切谷さんが買って欲しいって言ったんじゃない?」
 ここまで先を歩いていたのは彼女のほうなのだから。ここに入ると言い出したのも切谷さんに見えた。とは言え、何となくどちらの想像も違う気がする。
「真のやつ、女に着てほしいのを買うくらいしろよな」
「ダメね。あの子にそこまでの積極性はないわ。こちらから言っても恥ずかしがるだけだし」
「は?」
「え?」
 美沙希が驚いたようにわたしを見る。わたしも思わず彼女を見――そして、ゆっくり目を逸らした。
「そ、そもそも兄妹でしょ」
「誤魔化したな、おい」
「……」
 勿論、誤魔化せているとは思っていないけど。
「因みに、槙坂の感触として、あいつの趣味ってどんなの?」
「え、藤間くんの? そうね。あまり過激なのはダメみたいね。でも、適度にセクシャルなやつなら――」
「……」
 にやにやと笑う美沙希の視線に気づき、わたしははたと言葉を止めた。
「あ、あなたねぇ」
「おっと、動くみたいだぞ」
 確かに美沙希の視線の先では、再び状況に変化があった。
 藤間くんが踵を返して歩き出したのだ。こんなところに入れるわけがない、といったところか。
 彼の背中を見ながら、切谷さんが肩をすくめた。その仕草は、自覚はないのだろうが、どことなく藤間くんと似ていた。新しい発見だった。さすが兄妹。
 切谷さんが藤間くんを追う。
 それからふたりは小一時間ほどをかけていろんな店舗を回った。
 主導権を握っているのは、常に切谷さんのほう。
「何か買ってやる気か?」
「かもしれないわね」
 答えながら、ふと、藤間くんがバレンタインにもらったチョコの最後のひとつは、彼女だったのかもしれないと思った。なら、今日のこれはそのお返し? ホワイトディにはまだ早いし、本人に選ばせるのは少々邪道のような気もするけど、あり得ないことではなさそうだ。
 でも、結局、ふたりは何も買わず、最初に待ち合わせたフードコートに戻ってきた。
 そして、ここにきて初めての買いもの。藤間くんがバニラのソフトクリームを買い、切谷さんに手渡した。
 彼女はふた口ほど食べた後、食べかけのソフトクリームを藤間くんへと差し出した。勿論、彼は掌を見せて断る――が、切谷さんもさらにずいと目の前に突きつけてくる。仕方なく藤間くんはそれを受け取り、食べた。意外と美味しかったのか、彼は歯を見せて笑った。
 再びソフトクリームが切谷さんの手に戻る。
「……」
「……」
「兄妹でしょ」
「いや、アタシは何も言ってないから」
 わたしの感情は兎も角として、心温まる兄妹の図――と思いきや、切谷さんはこれで用なしとばかりに、藤間くんに向かって億劫そうに手を振った。もう帰っていいよ。ずいぶんな扱いだ。
 藤間くんは苦笑しつつも、じゃあ、と軽く片手を上げ、それを別れの挨拶にして去っていった。
 切谷さんは、ソフトクリームを舐めながらその背を見送り、十分離れたのを確認してから――あろうことか、わたしたちのほうに体を向けた。目は明らかにこちらを焦点している。
 ソフトクリーム片手に、黒セーラー服の少女が近づいてくる。揺れる短いスカートとオーバーニーソックスの間に見える素肌の部分が少し色っぽい。一方、こちらはテーブルのひとつに陣取り、おしゃべりする二人組の女の子を装い中。まさか今から逃げるわけにはいかない。
「こ、こんにちは」
 ついにテーブルの横に立たれ、わたしはばつの悪い思いで挨拶を口にした。
「真ね、バレンタインのお返しの中に、ひとつだけ特別なのがあるんだって」
「ぇ……」
 切谷さんは真っ直ぐわたしを見ている。
「じゃあ」
「……」
 そして、彼女はそのふた言だけを発すると、身を翻し去っていった。
「……」
「……」
「それって、わたしだと思っていいのよね?」
「いいんじゃないの」
 美沙希はあっさりと同意した。
「……帰りましょうか」
「そうするか」
 なら、わたしは、今日藤間くんが何を得て、それをどう活かすのか、楽しみにホワイトディを待っていようと思う。
 
 
 
その女、小悪魔につき――。
 
 2013年3月16日公開

 


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