「これでどう?」 いつもの如く階段教室の通路側の席に座る僕の前に、黒髪美人の上級生・槙坂涼が何かを置いた。友人たちとの会話と読書をやめ、本を閉じてそれを見てみる。―― 一枚の紙だった。 「何だ、これは?」 「あのね藤間くん、そういう質問をする前にまずよく見ましょうね。そんなに難しくないから」 清楚を絵に描いたような槙坂先輩は、出来の悪い弟に言い聞かせるように、大人っぽい笑みとともに優しくそう言った。僕は改めてその紙に目をやる。 それは大学の合格通知だった。 しかも、受験生なら誰でも知っているような有名難関校。果たして、この明慧学院大学附属高校の過去10年の卒業生の中に、そんな超一流大学の合格者がいったい何人いただろうか。おそろしいことに、それを彼女は突きつけてきたのだ。 「おめでとう。これでエスカレータ組と同じく受験勉強から解放されて、存分に遊べるというわけだ。ぜひ僕にかまわず、目いっぱい遊んでくれ」 「あら、藤間くん。もうあの約束を忘れたの? そんなに前のことじゃないはずよ」 「……」 さて、何だっただろうな。 「あれは今月の初め、わたしがクリスマスは一緒に過ごしましょうと提案したときのことよ。あなたは、受験生がそんなことしてていいのか、そんなのは合格通知をもらってからにしろと、そう言ったわ」 そして、槙坂先輩はそこで一拍。 「ちゃんと合格通知をもらってきたわ。約束通りこれでクリスマスはわたしにつき合ってくれるわよね?」 「……」 ちっ。やっぱり覚えてたか。 僕もあの台詞の後、これは失敗したなと後悔した。あの槙坂涼ならすぐにでも推薦入試で合格をもぎ取ってきかねないと思ったからだ。成績優秀なのは誰もが知るところ。学校を選ばなければ絶対どこかに合格するし、明慧大へ行くことを望めば成績優秀者上位数名にだけ許される無試験合格だ。そして、実際こうして僕の前に合格通知を持ってきたわけだ。まさかこんな難関校とは思わなかったが。 とは言え、こっちも約束を忘れていたわけではない――というのは実はおおいにひかえめな表現なのだが、やはり素直に認めるのは業腹だな。 僕はため息をひとつ。 「約束? 悪いが僕はそんなつもりで言ったわけじゃない」 「わたしはそう受け取ったわ」 「……」 「……」 お互いの主張を込めて視線をぶつけ合う僕たち。 浮田などは「お前と槙坂さんって、時々見つめ合ってるよな」などと言うが、バカめ、これは正しくは睨み合っているというのだ。 「それに、あなたには申し訳ないが、実はもうどうするか決めてあるんでね」 「そうなの?」 「ああ。ただし、正直に言おう――まだ決定じゃない。これから声をかけるところなんだ」 「わたしを優先する気はないの? 誘ったのはこちらが先よ?」 「ないね」 僕はきっぱりと言う。 「ただ単に僕がもたもたしていただけで、これは前から決めていたことだ」 「ふうん、そう」 と、向けてくる眼差しは明らかに僕の嘘を見抜いていた。しかし、ここでそれを指摘しないのが槙坂涼だ。彼女はここからさらに次の手を打ってくる。 「じゃあ、こういうのはどう? もしうまく予定が決まらなかったときでいいわ。そのときはわたしとクリスマスを過ごしましょう?」 槙坂先輩はやや大きな声で言い、おかげで周囲がざわつきはじめてしまった。きっと周りには彼女の台詞はひかえめな提案に聞こえただろう。だが、僕にとっては違う。これは完全に宣戦布告。勝負だ。 「……いいだろう」 「決まりね」 彼女は微笑み、そして、ぐっと顔を近づけてきた。 鼻先が触れ合いそうなほどの、至近距離。 「猶予は明日の昼休みまでよ」 「……」 僕にだけ聞こえる声で囁き、槙坂涼は去っていった。 ほら見ろ。やっぱり宣戦布告だ。 とりあえず、なりゆきと勢いと意地でこんなことになってしまったが、考えてみれば僕が声をかけられる相手は情けないことにそう多くない。まぁ、がんばってみるか。かたちだけでも。 そのひとりが確かこれからの授業で同じはず。 そう思って教室内を見回し――その小動物みたいな小さな背中を見つけた。この授業の後さっそく誘ってみるとしよう。 「こえだ」 授業が終わった後、僕は教室を出たところで三枝小枝(さえぐさ・さえだ)――通称こえだを呼び止めた。 ショートヘアを髪留めで留めて、おでこも広く露になった顔が振り返る。 「ん? なに?」 「ちょっといいか? 話があるんだ」 「歩きながらでいいんなら。……ごめん。先いってて」 こえだが一緒にいた友達に断り、僕らは彼女たちから離れていくようなコースで歩いた。 講義棟を出て、冬の空の下を行く。 「なに? 話って?」 「こえだ、お前、クリスマスは空いてるか?」 「うわ、本当にきた!?」 直後、こえだが驚きの声を上げて立ち止まってしまった。隣りを歩いていた彼女の姿が視界の隅から消え、僕も遅れて足を止める。 「なんだって?」 「う、ううん。何でもない」 彼女は慌ててぶんぶんと首を横に振り、ちょこちょこと駆けてきた。僕もそれにタイミングを合わせるようにして歩き出す。 「ど、どーせ真のことだから、槙坂さんから逃げるためにあたしを誘おうって魂胆だろー」 「話が早くて助かるね」 彼女は僕と槙坂涼との関係を正確に把握している人物のひとりだ。 「確かにそれも3分の1くらいはある」 「残りの3分の2は?」 「いくら槙坂先輩から逃げるためとはいえ、好きでもない女の子に声をかけたりはしないってこと」 「あ、そうなんだ。ふーん……」 「……」 「……」 それきり会話が途切れた。 しばし歩き、どうにもこえだの様子がおかしいような気がして隣りを見てみれば、ちょうど彼女が顔を赤くしてうつむくところだった。こんな反応をするとは少々意外だ。これは収穫だな。 「こえだ?」 「……」 彼女はなぜか怒ったように頬をふくらませながら、ゆっくりとこちらを見た。 そして、おもむろに僕に脹脛の辺りに蹴りを一発。 「痛いだろ」 「ふんだ。お生憎様、あたしはもう友達と約束があるの。タラシの真はいいかげん観念して、クリスマスは槙坂さんと楽しく過ごせばっ」 ついでに、べー、と舌を出して走り去る。子どもか、こいつは。 僕は小さくなっていくこえだの背中を見送った。 「観念、ね……」 あまり早々に観念はしたくないな。すぐに白旗を揚げるのは主義じゃない。特に槙坂涼相手には。 翌日の午前中。 「先輩」 「あン?」 僕はもうひとりアテにしている人をつかまえた。ざっくりしたウルフカットが男前な古河美沙希(こが・みさき)――美沙希先輩だ。 本当は次の休み時間にでも電話で連絡を取るつもりだった。というのも、僕の記憶によれば美沙希先輩はさっきの時間は体育のはずで、今はまだ電話には出ないだろうと思っていたからだ。ところが、偶然ばったり会った。僕の記憶を裏づけるかのように彼女はジャージ姿。男前度増量中だ。 「話があります」 「おう。いいけど、クリスマスならつき合わないからな」 「……」 話ははじまる前に終了した。 まさか、じゃあこれで、というのも失礼なので、体育館方面へと一緒に歩く。更衣室が体育館の中にあるのだ。 「何か予定でも?」 「バイトだよ、バーイート。金に困らないお前と違って、思い切り遊ぶためには働かないといけないんだよ。アタシは」 情報屋で稼いでるくせに。いったい何に使ってるんだか。というか、受験はどうなってんだ? 「お前、涼から誘われたんだって?」 美沙希先輩はくつくつと笑いながら言う。 彼女は槙坂先輩のことを『涼』と呼ぶ。いつの間にか仲良くなったらしい。性格に共通点がないから、そんなことにはならないと思っていたのだが。世の中わからないものだ。しかも、時々結託するのだから質が悪い。 「ご存知でしたか」 まぁ、知っていて当然か。一日あれば美沙希先輩の情報網に引っかかるには十分だ。 「で、逃げるためにアタシに声をかけたってわけだ」 「いや、それは……」 「わかってるよ。お前のことだ。興味もない相手に声をかけたりはしないだろうしな」 よくわかっていらっしゃる。ま、これも長いつき合い故か。もちろん、悪い気はしない。自分をよく知ってくれている人がいるというのは嬉しいことだ。 「そういや去年はお前と一緒だったな」 「でしたね」 確か朝までふたりでカラオケをやって死にかけた覚えがある。「今の気に入ったから、もう一回歌え」とか平気で言うからな。 「しっかし、色気のないクリスマスだったよなぁ」 「別にそんなものを求めてたわけじゃないでしょうに」 「確かにな。あのころのアタシは、クリスマスなんてバカ騒ぎできたらいいと思ってたからな」 そこで美沙希先輩は、僕の肩にぽんと手を置いた。 「誘ってくれたのは嬉しいけど、今年は相手が違うんじゃねーの?」 頭の後ろで手を組み、そのまま体育館方面へスタスタと歩いていってしまう。その背中は「そんなわけで、この話はもう終わり」と言っていた。 「……」 前言撤回。 つき合いが長いのも考えものだ。……本当によくわかっていらっしゃる。しっかり見抜いているようだ。さすが僕の人生の先輩。 さて、結局アテにしていたふたりに断られ、リミットである昼休みを迎えてしまった。 昨日のこえだの台詞からヒントを得て、別に女の子でなくてもいいんだと思い当たり、最後の手段として浮田らに声をかけてみた。 「断る」 「お前だけは断じて仲間に入れん」 「飛び散れ」 が、結果は散々だった。 挙句の果てには、しっしと追い払われ、昼メシを一緒に食べることすら拒否されてしまった。どうでもいいが、飛び散れってなんだ。 「あっはっは。そりゃそうなるよな」 そこに入れ替わるようにして現れたのは、午前中の休み時間にも会った美沙希先輩だった。今は制服姿。一部始終を見ていたらしく呵々大笑である。 「なんだかこうなって当然みたいな言い方ですね」 「だってそうだろ。聞いた話だと涼のやつ、周りにも聞こえるようにお前に勝負を吹っかけてきたんだろ? その時点でお前以外はぜんぶ味方なんだよ」 「は?」 「お姫様が何をご所望なのかわかってるんなら、忠実な家臣はそっちへ動くに決まってる。普通ならお前にだけいい思いはさせるかってなるところだけど、そうならないのがあの槙坂涼の人望だろうな」 「……」 つまり最初から僕に勝ち目のない勝負だったわけだ。……どいつもこいつも簡単に騙されやがって。 「で、どうするんだ? テキトーに嘘ついて突っぱねるか? 涼は、相手は誰だなんて問い詰めてくるようなバカ女じゃないからな、どうにでもなると思うが」 「むしろそんな相手に嘘を吐く度胸はないです。……ま、潔くいきますよ」 本当のところ、美沙希先輩やこえだを誘ったのも、そこまで本気じゃなかったしな。僕だってクリスマスは楽しく過ごしたい。意地を張りすぎた挙句、引き際を誤って、せっかくの機会をふいにしたら元も子もない。……予定通りと言えば予定通りか。 「そう言うと思ったよ。ほら、お姫様がお待ちかねだぞ」 言われて学食を見回してみれば、いつもの窓際の席に槙坂先輩が座っていた。 ひとりだ。 噂によると、槙坂涼があの席に座っているときは人を待っているときだから空気を読まなくてはいけないらしい。いったいどこから出てきた噂だ? また机の落書きじゃないだろうな。 彼女は僕を見つけ合図を送ってくる。僕も片手を軽く上げ、それに応えた。 「それじゃあ先輩、失礼します」 「おう」 先輩と別れ、ランチを買ってからテーブルへ行く。 「どーも」 「こんにちは、藤間くん」 僕は彼女の大人っぽい笑顔に迎えられ、向かいに座った。 「美沙希さんと一緒だったのね。もしかして誘いたい女の子って美沙希さん?」 美沙希先輩が槙坂先輩を『涼』と呼ぶように、彼女もまた美沙希先輩を『美沙希さん』と呼んでいる。ついでに、こえだのことは『サエちゃん』。どうにも学校生活がアウェーだ。 「まぁね。でも、見事に断られたよ」 「そう。残念ね」 と、くすくす笑う。 これは勝者の、いや、黒幕の笑みか。 僕はだんだんと居心地が悪くなり――知らない振りをしていようかと思ったが、どうやらできそうになかった。 「というか、この勝負こういう結果になる以外なかったみたいだな。あなたが周りを味方につけた時点で僕の負けは決まっていたも同然だ」 「ええ、そうよ。勝負はする前から勝つために手を打っておくものよ」 出来のいい弟を褒めるような口調の槙坂先輩。でも、残念ながら僕はこの解答を人からおしえてもらったわけだが。 「勿論、手はひとつじゃないわ」 「聞きたいね」 「簡単よ。美沙希さんやサエちゃん、あと藤間くんが声をかけそうな女の子何人かにお願いしておいたの。彼が誘ってくるはずだから断ってねって」 僕は唖然とする。 それでこえだは予め僕がくるのをわかっていたような口ぶりだったし、美沙希先輩も僕が話を切り出す前に速攻で断ったのか。 「待て。でも、それは汚くないか?」 「そうでもないわ」 と、槙坂先輩。 「だって、それを言っておいたの、昨日藤間くんに会う前だもの」 「言ったでしょ? 『勝負はする前から』手を打っておくって」 「……」 今度は絶句。 つまり、僕に合格通知を突きつけて約束の履行を迫れば、こういう流れになると読んで予め美沙希先輩やこえだを抑えておいたのか? 『誘ってくるはずだから断って』――見事に断定形だ。 「あなたは悪魔だな。きっと先の尖った尻尾がついてるにちがいない」 「あら、今まで何度か機会があったのに、ちゃんと見てなかったのね。そう。だったらクリスマスの夜にでも確かめてみたらいいわ」 「……」 またきわどい台詞を。おおらかなのはいいが、もう少し場所を考えてほしいな。 「これでもクリスティの『アクロイド殺し』よりはフェアのつもりよ」 「確かに。論争の余地もないな。いいだろう。僕の負けを認めよう。……それで、当日の希望は? どこか行きたいところとか」 「どこでも。藤間くんとならどこだって楽しんでみせるわ」 きっぱりと言ってくれる。 「でも、そうね、最後にあなたの部屋に行けたら最高だわ」 「あのな……」 軽い頭痛がしてくる。 と、そこで槙坂先輩はぐっと身を乗り出してきた。彼女がこうするときは回りに聞かせられない話をするときであり、イーコールろくでもない台詞を吐くときだ。 「もしかして藤間くんは、あの夜のことを忘れたのかしら」 「なっ」 ほら見ろ。しかも、今回は最悪の部類だ。 赤面する僕をよそに槙坂先輩は、頬に掌を当てて芝居じみた調子でさらに続ける。 「それとも藤間くんがそういう気分のときしか呼んでもらえないのかしら?」 「おい」 「えっ」 思わず語気が強くなってしまい、彼女は怯えたように体を振るわせた。 「あ。いや、悪い。驚かすつもりはなかったんだ。でも、あまりそういう話をこんな人の多い場所でするのは……」 「そ、そうね。謝るわ。ごめんなさい。ちょっと浮かれてたみたい」 反省して項垂れる槙坂先輩。 浮かれてた、か。 僕は頭をがしがしと掻いた。こんなこと言いたくないんだけどな。 「まぁ……本当のことを言えば、僕だって浮かれてるさ」 それにこれじゃ僕がいじめているみたいだ。槙坂涼をいじめるだって? それこそ学校中を敵に回すようなものだな。 彼女は顔を上げ、僕を見た。 「そりゃそうだろ、クリスマスなんだから。なんて言って誘ってどう過ごそうか、ずっと考えてた」 僕はそっぽを向きながら言う。 槙坂先輩は少しの間こちらを見ていたが、やがておかしそうにくすりと笑みをこぼした。果たして、おかしかったのは僕の姿か、それとも言ってる内容か。 「それって誰のため?」 彼女は訊いてくる。 「言っただろ? 僕が誘おうと思っていた女の子のためさ」 「名前はおしえてくれないの?」 「もちろん。そんなの本人に言ったら負けだと思ってるからね」 「天邪鬼」 笑い、そして、やはり芝居じみたため息を吐く。 「どこで育て方を間違えたのかしら?」 「少なくともあなたに育てられた覚えはないね」 槙坂先輩は「だったら、これからわたし好みに育てるとして――」などど、おそろしいことを言い置いてから、さらに問うてくる。 「それで、その子を部屋に呼んだりするの?」 「ま、そのときの流れ次第かな」 「いやらしい」 しかし、その単語が示す意味とは裏腹に、どこか楽しそうな槙坂先輩。 そう言われたら、こう返すしかない。 「男だからね」 その女、小悪魔につき――。 2010年12月24日公開 |
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