12月25日の夕暮れ。 カフェ『天使の演習』で催されたクリスマスパーティの後、わたしは藤間くんとともに帰路を歩いていた。 パーティの参加者はマスターとキリカさんに、藤間くん、そして、わたし。四人だけの実にささやかなクリスマスパーティ。 「キリカさん、楽しそうだったな」 「そうね」 わたしは小さく笑う。 もしかしたら一番楽しんでいたのはキリカさんだったかもしれない。 「前に言っていたわ。常連のお客さんを集めてクリスマスパーティをするのが夢だって」 そういう意味では楽しむと言っても、料理を出したりケーキを用意したりと、主催者側としてわたしたちに楽しんでもらうのを楽しんでいるといった感じだった。 24日ではなく25日にしたのは、わたしたちのことを考えてのことかもしれないし、自分たちの都合もあったのかもしれない。 昨日はもちろん、藤間くんとクリスマスデートだった。そのまま彼の部屋に泊まったけど、大学に上がって週に一、二回は寄っているので、あまりそこに新鮮味はない。 来年はどうしているだろうか? わたしも藤間くんも、来年にはアメリカに渡る予定でいる。『天使の演習』のふたりは縁を切るにはもったいない人間関係なので、日本に帰ってきたときには顔を出したいと思っている。どうせならばクリスマスに合わせたいところだ。 それよりも――と、わたしはちらと藤間くんを見た。 (彼はどういうつもりでいるのかしら?) 現状、『藤間くんがわたしをつれていく』か『わたしが勝手についていく』かの二択になっている。どちらでも結果は同じ。でも、意味は大きく違うし、それが決まらない今は気持ちが宙ぶらりんだ。 藤間くんはそのあたりどう考えているのだろう……? 程なくして駅に着いた。 と、そのとき、駅前を行き交う人々の中に見覚えのある顔を見つけ――わたしは咄嗟に藤間くんを引き寄せ、駅前ピロティの柱を背にするかたちで彼にキスをした。 「何をする!?」 当然、唇を離した藤間くんは文句を言ってきた。もともとこういうのを好まない子だし、あまりにも唐突だったからだろう。 「あら、知らなかった? わたしってこういう女よ?」 「……」 冗談めかせて言ってみたけど、あまり成功しているとは言えず――藤間くんは懐疑の眼差をわたしに向けてきた。 「ごめんなさい。もう少しこのままでいて」 わたしは彼の腕の中に身を隠した。 端から見れば、人目を気にしないカップルが抱き合っているように見えただろう。 「どうした?」 当然、彼はわたしの様子がおかしいことに気づき、そう問うてきた。が、わたしはすぐには答えられなかった。 §§§ 近くのコーヒースタンドに場所を移した。 駅前が見渡せる窓際の席に座る。頼んだコーヒーを飲めば、『天使の演習』のほうが安くて美味しいと思った。 「……小学校のときの担任の先生がいたわ」 そのコーヒーで喉を潤してから、わたしはようやくこの件について口を開いた。 「それはまた偶然の再会だな」 「偶然だったらいいのだけどね」 これが本当に偶然で、わたしと先生の間にあるのが懐かしさだけなら何も問題はない。 そうではないことを藤間くんも察したのだろう。 「何かあったのか?」 彼はそう問うてきた。 わたしは黙ってカップを口に運ぶ。味は気に入らなくても、考えをまとめるくらいの役には立ってくれた。 「先生にプロポーズされたの」 「は?」 藤間くんが素っ頓狂な声を上げる。その反応も当然だろう。 「最近の話か?」 「いいえ、当時の話よ」 「いや、だって……」 彼は言い淀んだ。 そう。そのときわたしは私立の小学校に通う六年生だった。先生は小六の少女にプロポーズをしたのだ。 「自分で言うのもなんだけど、当時からわたしは頭の回転も速かったし、大人びていたから」 わたしは、このときばかりはそのことに自虐的に苦笑した。 頭がよくて、信頼もされていた。大学を出たばかりの先生となら、ほとんど対等に話ができていた。そして、何より将来藤間くんの目と心を奪うための容姿があった。先生が、そんなわたしに何か勘違いをしたのか、それともただ単にその手の趣味があっただけなのかは、今となっては定かではない。 事実として、先生は真剣にわたしにプロポーズしたのだった。 もちろん、わたしはそのことを両親に告げ、両親はそれを問題視して学校に抗議した。それでも父と母は可能な限り穏便にすませようとしていた。校長と理事長にだけ話をして、先生を担任から外して近づけないようにしてくれればいいと。それで手を打とうとし、学校もそれに応じた。 だけど、所詮は学校という小さな社会での話。唐突で不可解な担任の交代があれば話題にもなる。やがて事実はほかの先生方の知るところとなり、保護者にも伝わった。 「保護者たちはそんな教師のいる学校に子どもを通わせられないと猛抗議して、結局、学校はその先生を解雇せざるを得なくなったわ」 「ま、自業自得だな」 藤間くんは呆れたように言い、コーヒーを呷った。 「そうね。自業自得だわ。でも、それですまなかったのよ」 「まだ続きがあるのか?」 「ええ、あるわ」 後日先生は、事前に連絡してきた上で、家を訪ねてきた。 謝罪をしにきたのでもなく、恨み言を言いにきたのでもなく――改めて娘さん(わたし)をくださいと頼みにきたのだ。土下座までして。 両親は取り合わず、追い返そうとした。 そして、先生が顔を上げたとき、手には隠し持っていたサバイバルナイフが握られていた。狙いはわたしだった。わたしを殺し、自分も死ぬと口走っていた。 「父はわたしを身を挺して守ってくれたわ」 「……それで、お父さんは?」 藤間くんが緊張の面持ちで尋ねる。 わたしは首を横に振った。 「大丈夫よ。少し怪我をしただけ。後から聞けば、最初から様子がおかしかったから警戒していたのだそうよ」 少なからず武術の経験があった父は、軽い怪我をしつつも先生を組み伏せ、警察へと突き出した。当然、先生は殺人未遂の現行犯で逮捕だった。 それがそのときの顛末だ。 「その先生がいたのか?」 「ええ。見間違いでなければ」 確か先生には実刑判決が下されたと記憶している。あれから六年。罪状が殺人未遂なら刑期を終えていてもおかしくはない。風貌はかなり変わっていたけど、おそらくあれは先生だろう。 「まさか責任を感じているのか?」 「え?」 藤間くんの思いがけない言葉に少し驚きつつも、わたしは己を顧みた。 「……そうね。確かにそれは少しあるわね」 わたしが先生をおかしくさせたのだろうか。そのせいで父は怪我をすることになったのだろうか。――そういう思いはある。 「気にするな。ただの犯罪者予備軍だ。むしろ槙坂先輩と家族のおかげでよけいな被害者が出なくてすんだくらいだ」 「ええ、そうね」 彼の乱暴な慰めに、わたしは苦笑する。 「ねぇ、藤間くん。藤間くんが当時のわたしと会ってたらどうしてた?」 気まぐれに聴いてみる。 「どうもするか。小学生だろうが」 「そう? わたしは藤間くんが真剣に交際を申し込んできたらOKしてたと思うわ」 「人を犯罪者にしてくれるな」 藤間くんは不貞腐れたように、そう言い放つ。照れているのかもしれない。 わたしとしてはまんざら冗談でもなかった。尤も、その当時のわたしはピュアだから清いおつき合いになったことだろう。中学生だったら、彼に女の子のことをおしえてあげて、反対に少しくらいいやらしいことをおしえてもらっていたかもしれない。 「さ、そろそろ帰るわ」 面白い想像をして、少し気が晴れた。……うっかりすると変な初夢を見そうだけど。 わたしは席を立った。 「送ろうか?」 「ありがとう。でも、大丈夫よ。わたしももう大学生だもの」 こうしてわたしはここで藤間くんと別れた。 §§§ 駅で改札を通る藤間くんを見送ってから家路を急ぐ。 わたしが住んでいるところは、いわゆる高級住宅地と呼ばれている場所で、北部にそびえる山に向かって緩く傾斜した坂の街だ。わたしの家はその中ほどにある。 駅からは十分少々の徒歩圏内。普段からあまり人気(ひとけ)のあるほうではないのだけど、今日はいつも以上に人影がないように思えた。コーヒースタンドに寄ったせいで、遅くなってしまったからだろうか。 夜道にわたしの足音だけが響く。 「……」 いや、かすかにわたし以外の足音がもうひとつ。まるで歩調を合わせることで、足音を隠そうとしているかのようだ。 誰か後ろを歩いている? 気のせい? 神経質になっていて、そう聞こえる気がするだけ? それを確かめるため、わたしは唐突に足を止める――と、ひとつ多く足音が聞こえて、それっきりだった。 「っ!?」 わたしのはるか後ろ。確かに誰かいる。その誰かはわたしが歩みを止めると、同じようにして――でも、一歩遅れて、立ち止まったのだ。 わたしは再び歩を進める。 後ろの人物も歩き出した。 「……」 緊張に心臓の鼓動が速く、大きくなる。 息苦しかった。 それでもわたしは心の中でみっつ数え、立ち止まると同時に振り返った。 ――そこに男の人がいた。 顔は暗くてよく見えない。でも、少なくとも身近な人物ではないことは確かだ。 「せ、先生……?」 呼びかけたつもりの声は、自分でも驚くほどかすれていた。 「そこにいるのは槙坂じゃないか」 「ッ!?」 わたしの口から声にならない悲鳴がもれた。 「偶然だなぁ。……そうか。覚えてくれたんだな、先生のこと」 これが偶然のはずがない。先生はわたしを探していたのだ。わたしはてっきり駅前でやり過ごしたと思っていたけど、そうではなかったようだ。 にも拘らず、先生の話し方はわたしが知っているそれと何ら変わらなくて、逆にそれが不気味だった。 先生が足を踏み出した。こちらに近づいてくる。 「大きくなったなぁ、槙坂。もう大学生か? なぁ、今ならわかるだろ、先生の気持ちが、だから、今度こそ……」 逃げなくてはと思う。 でも、足が思うように動かなかった。足がカタカタと震えている。 誰か呼ばなくてはと思う。 でも、喉がひりついて、声が出なかった。浅い呼吸が繰り返されるだけ。 やがて先生が街灯の明かりが届くところに出てきた。間もなく顔が見え―― 「おい」 と、そのとき、誰かが先生の肩に手をのせ――そのまま後ろに引き倒した。先生が道に転がる。 現れたのは藤間くんだった。 「大丈夫か?」 「え、ええ……」 彼の姿を見て、ようやく声が出せた。でも、逆に足からは力が抜けて、今にも崩れ落ちそうだった。 「な、何なんだよ、お前。お、俺の邪魔をしてっ」 先生がのそのそと立ち上がる。 「邪魔? そ、そうか。ま、また俺の、じゃ、邪魔をするつもりなんだな。ふひ、ふひひひっ」 先生の様子が明らかにおかしくなった。吃音気味の声の間に、奇怪な笑い声が混じる。 そして、今回もまた隠し持っていたのだろう。手にはナイフが握られていた。 「下がってろ」 「藤間くん!」 わたしは、先生に向かっていく藤間くんの名を呼ぶ。 先生はおそらく彼にあの日の父を――自分の邪魔をした父を重ねていたのだろ。それと同じように、わたしもそこに父の姿を見ていた。わたしのために怪我をした父を。 だけど、藤間くんは止まらなかった。 「お、お前がっ。お前があっ!」 先生が奇声を上げながらやたらめったらとナイフを振り回し、藤間くんを切りつけようとする。が、彼にはかすりもしない。 その一方で、喧嘩にはめっぽう強い藤間くんも、闇雲に凶器を振り回すだけの先生に対し攻めあぐねているようだった。ナイフの切っ先を躱したり、ぶつかってくる先生をよけたりするだけで、自分からはかなか手が出せないでいる。そのせいかふたりの位置はめまぐるしく入れ替わった。 それをわたしはオロオロと、ただ見ているしかなかった。 そして、その瞬間は唐突に訪れる。 先生がひと際大きな奇声を上げて突き出したナイフの刃が、深々と藤間くんの体に刺さったのだ。――少なくとも、わたしからはそう見えた。 「藤間くんッ!」 思わず彼の名を叫ぶ。 だけど、藤間くんはそのまま先生の腕をつかむと、自分の側に引き寄せた。腹に膝蹴りを見舞う。二度、三度と、そのたびに先生の体が浮き上がる。 先生が倒れた。その拍子に手から離れて転がったナイフを、彼が蹴飛ばし遠くにやる。 「これでっ」 なおも立とうとした先生の顎を、彼は容赦なく蹴り上げ――それで終わり。それきり先生は立ち上がることはなかった。かすかにうめき声は聞こえているが、戦意は喪失したのだろう。 「藤間くんっ」 わたしは慌てて彼に駆け寄った。 「ああ、大丈夫だ」 「で、でも、さっき刺されて!」 藤間くんの体をまさぐる。すぐに手当てをしないと。傷が深いようだったら救急車を呼ばないといけないかもしれない。 「ごめんなさい。またわたしのせいで……」 「涼!」 そんなわたしを彼は言葉を遮るようにして一喝した。両肩に手を置き、一度大きく揺さぶる。 「落ち着け。僕は大丈夫だ。誰も怪我なんかしてない」 「え?」 その声でようやくわたしは動きを止めた。 「見ての通りだ。暗いし、そっちからはそう見えたかもしれないが。うまい具合に脇の下を通るかたちになったから、そのまま腕を固めてやったんだ」 よく見れば確かに傷などどこにもなかった。服すら破れた様子はない。 緊張の糸が切れたのか、彼に何事もなくて安心したのか、わたしは今度こそ膝から崩れ落ちそうになり――それを藤間くんが支えてくれた。 §§§ そこからはバタバタと事後処理だった。 警察を呼んで、先生は二度目の現行犯逮捕。わたしと藤間くんも警察署で事情を聞かれたが、詳しいことは後日で、今日のところは簡単な話で終わった。 両親はこんな時間でも忙しいようで、ともに電話に出なかった。もうすべて終わったし、帰ってから話せばいいと思い、切り替わった留守番電話には何も入れなかった。 そんなわけで今は藤間くんと、本日二度目となる帰路の途中だった。 先生の身柄はすでに警察にあって、もう危険はない。でも、送っていくと言ってくれた彼の言葉に甘えることにした。 「何が、もう大学生だから大丈夫、だ」 「仕方ないじゃない」 呆れた調子言う藤間くんに、わたしは不貞腐れたように言い返す。 どうやらわたしが思っていた以上に、わたしの抱えるトラウマは大きかったようだ。わたしに真剣に愛を告げた先生が豹変したことや、わたしのせいでまた誰かが傷つくこと。それらすべてがあの日のことと重なった。 「それよりも、あなた、わたしの後を尾けていたの?」 わたしは話題を逸らすようにして、彼に問うた。 「ああ。改札を通った後、何となく振り返ってみたら、槙坂先輩を尾つけてるふうの男がいたから追いかけてみたんだ。何もなければそれでよしで帰るつもりだったんだが、案の定だったな」 「そう……」 そうひと言だけ返す。 恐怖がぶり返してきた。自分が気づかないまま誰かに尾行されているなんて、ぞっとしない。藤間くんが機転を利かせてくれなければどうなっていたか。 そのままわたしたちは黙って歩いた。 「日本も物騒になったな」 「そうね」 しばらくして藤間くんが口を開き――わたしはため息まじりの相づちを打った。 と、そのとき、 「僕と一緒に、アメリカに行かないか?」 「え?」 それはあまりにも唐突で、思わず藤間くんを見た。 だけど、彼は前を向いたまま。こっちを見ようとしない。たぶん恥ずかしかったり心配だったり自信がなかったり、いろんな感情が入り混じっているに違いない。 その姿がおかしくて。 おかしくて。 「泣くことないだろ」 「……」 おかしいはずなのに、わたしは気がつけば泣いていた。ポロポロと涙がこぼれる。足はもう止まっていた。 「遅いのよ、もう」 手の甲で涙をぬぐう。 「悪かったよ。決心するのに時間がかかったんだ。……それで、その、返事を聞かせてくれないか?」 わたしはハンカチを取り出し、改めて目もとを拭いた。これだけ待たせておいて返事はすぐにほしいだなんて、本当に自分勝手。 「……80点」 「おい」 だって、どうせなら『ついてきてくれないか』とか『つれていきたい』とか、もう少し強引で男らしい言葉がほしかったのだから。 でも、そんなことは些末なことだ。 「ええ、もちろん一緒に行くに決まってるわ」 それ以外の返事は持ち合わせていなかった。 「そうか。それはよかった。うん」 藤間くんはぶっきらぼうにそれだけを言うと、再び歩き出した。わたしも後を追う。 「ねぇ、藤間くんのお母さま、お正月にお時間とれるかしら?」 「うん? なんでまた?」 「新年のご挨拶よ」 尤も、まずは、だけど。 「残念ながら、一流のシティホテルは年末年始も繁忙期らしくてらしくてね。それが落ち着いてから正月休みだそうだ」 「そう。お忙しいのね」 「でも、ラウンジで会うくらいならできると思う」 お母さまの働くホテルのラウンジか。初めてお会いしたのもそこだった。ご挨拶には着物でいくつもりだったけど、ホテルのラウンジでは浮かないだろうか。なかなかのインパクトだとは思うけど。 「じゃあ、それでお願いするわ」 お母さまに挨拶をした後は、藤間くんと一緒に初詣と洒落こもう。それから――そろそろ父と母に彼を紹介したい。藤間くんには今日、危ないところを助けてもらったし、ちょうどいい機会だと思う。 (問題はこの子が素直に会ってくれるか、だけど) と、わたしは彼の横顔を盗み見る。案の定、こちらの両親に挨拶することなんて、欠片も考えてもいない顔だ。 仕方がないので、さっそくわたしは彼を両親に会わせる算段を立てるのだった。 その女、小悪魔につき――。 2016年12月24日公開 |
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