こえだDAYS そのとき、三枝小枝(さえぐさ・さえだ)は呆けていた。 中庭の小道に立ち――自分の左右と前方にそびえ立つ校舎をぐるりと見回す。 「ガイダンス会場って……どこ?」 どこかと問われれば、答えることはできる。手もとの案内によると、3101号教室。だが、果たしてそれはどこにあるのだろうか。 周りに人がいれば聞けたかもしれない。自分と同じ新入生がいれば、その流れに乗っていただろう。だが、諸般の事情で時間ギリギリに学校へ飛び込んだとあっては、それも叶いはしない。 今すぐ教室の場所がわかって、真っ直ぐに向かえば間に合うかもしれないのに……。 「おい、そこの新入生」 焦燥に駆られていたそのとき、いきなり声をかけられ、小枝は飛び上がるほど驚いた。 声のしたほうを見れば、そこに上級生らしい男子生徒がいた。一見するとどこにでもいそうな少年。だが、どこか薄情そうな印象を受ける。よく見れば意外に整った相貌がそうさせてしまっているようだ。 「今からガイダンスじゃないのか? 早く行かないと間に合わないぞ」 「あの、それが、教室の場所がわからなくて……」 初対面の上、多少恐そうだが、それでも渡りに船。小枝はこの上級生に聞いてみようと、おっかなびっくりそう切り出した。 「余裕をもって登校してこないからこうなるんだ」 「う……」 こう言われては返す言葉がない。 「よし、前を見ろ。渡り廊下があるな? その下をくぐって向こうに抜けると、さらにふたつ校舎があるから、その左だ。1階の1号教室。わかったらダッシュ」 「は、はい」 背中を叩かれ、走り出そうとするが、 「っと、もうひとつ」 「え?」 「悪いことは言わないから、履修届の書き方はしっかり聞いておけよ。かなりややこしいからな」 「わ、わかりましたっ」 そうして改めて小枝は駆け出した。渡り廊下を抜けて左。履修届の書き方はちゃんと聞いておくこと。頭の中で繰り返す。 と、そこでもっと大事なことに気がついた。 急停止し、振り返る。先ほどの上級生はまだこちらを見ていた。見送ってくれているのだろう。その彼に向かって小枝は元気にお辞儀をする。 「ありがとうございました!」 「いいから早く行け」 苦笑交じりの発音に追い立てられ、小枝は慌てて踵を返した。 こうしてどうにかガイダンスがはじまる直前に、教室に滑り込むことができたのだった。 その翌々日、 「わかる?」 「わかんにゃい」 中庭の芝生の上にある木製のテーブルとベンチに陣取り、小枝(さえだ)はさっそく仲よくなった同じクラスの少女たちと頭を突き合せ――弱り切っていた。 テーブルの上にあるのは書きかけの、もとい、ぜんぜん書けていない履修届。書き方がいまいちわからなくて、こうして記入が難航しているのだ。これぞ単位制を導入した明慧学院大学附属高校の悪名高き履修届けである。辺りに目を向ければ、そこかしこで自分たちと同じ光景を見ることができた。 「三枝さん、知り合いの先輩とかいない?」 「いない」 小枝は、自分の姿をすっぽり隠せてしまいそうなくらい広大な時間割り表を高く掲げて睨みながら、きっぱりと言い切った。 探せば同じ中学出身の上級生もいないことはないだろう。だけど、例えば同じ部活だったような見知った先輩はいない。つまり頼れる先輩は皆無だ。もう諦めて学生課に聞きに行くべきかもしれない。 そう思って時間割り表を下ろし、 「あ」 そこで小さく発音した。 正面に座ったクラスメイトの向こう、小道を歩く生徒の中に見覚えのある顔を見つけたのだ。先日、ガイダンス会場の場所をおしえてくれた先輩だ。 「むー」 小枝は通り過ぎようとしているその先輩の横顔を、穴が開くほど見つめた。今声をかけて書類の書き方を聞いたら、あの先輩ならしえてくれそうな気がする。だけど、それもどこか図々しい話だし、第一そこまで親しいわけでもない。 「あ」 そして、発音再度。 睨みつけていたせいだろうか、小枝の視線を感じ、向こうもこちらに気がついた。彼は一緒に歩いていた友人の肩を叩いて、ひと言ふた言短いやり取りをすると、方向を変えてこっちに向かってきた。何か面白いものでも見つけたようなその笑みは、意外に人懐こいものだった。 「よ、新入生。ちゃんとガイダンスには間に合ったか?」 「あ、はい。おかげさまで」 「そりゃよかった」 そして、続けてテーブルの上に目をやる。瞬間、小枝は「やば」と口の中だけでつぶやいた。 「で、今度は履修届で悩んでるってところか?」 「う……」 「ちゃんと聞いとけって言っただろ。いちおー僕みたいな凡庸な人間にも理解できるようにはできてるんだから」 「……」 凡庸、ね。 確かに一見すると、どこにでもいる気さくな上級生に見える。だけど、小枝にはどうにも彼はそんな言葉の範疇に収まるタマだとは思えなかった。 「よし、簡単なレクチャーだ。わからないやつは一緒に聞いとけよ」 まるで今から遊びでもはじめるかのように、彼はそう宣言した。 最初、小枝以外の女子生徒たちは、彼の登場に「誰?」と顔を見合わせていたが、小枝の知り合いだとわかると、ここぞとばかりに遠慮なく教えを乞うことにしたようだ。みんな身を乗り出し、耳を傾ける。 だが、さていざ解説というときだった。 「ん? 『さえぐさ・さえ』? ゴロがいいんだか悪いんだかわからない名前だな」 そう言った彼の目は、小枝の履修届の名前の欄で止まっている。彼女の名前が気になったようだ。ただし、気になりはしても、どこかつまらなさそうなもの言いでもあった。 「あ、そう思わせておいて、実は"小枝"は『さえだ』って読むんです」 「へぇ、『さえぐさ・さえだ』か。面白いな」 しかし、読みを知ると、一転して彼はそれをいたく気に入った様子だった。 「そういう先輩は……」 お返しにと小枝は、記入の実例として出してきた彼の履修届を見る。 「ふじま、まこと……先輩、ですか?」 「いや、そこは"まこと"じゃなくて、s-i-n ――『しん』だ」 「読みはわかりましたけど、普通ヘボン式で書くから、"s-h-i-n"なんじゃないですか?」 「"sin"だと罪って意味になるんだ。格好いいと思わないか」 「……」 なんだこの中二病的カッコつけは。小枝は軽く引いた。 そんな小枝の心中などおかまいなしに、藤間という名の先輩は履修届の書き方の説明をはじめるのだった。 「よう」 それから一週間以上が経ち、履修内容が確定した初日、とある授業で大教室に入ろうとした小枝の肩を誰かが叩いた。 振り返れば、そこにいたのは藤間だった。 「あ、先輩」 「授業、一緒だったんだな」 「ええ。そうみたいですね」 嘘だった。 あの日、藤間のレクチャーを受けた際に見た彼の履修内容を覚えていて、いくつかの授業で小枝が意図的に合わせたのだ。ほとんどは2年次からしか受けられない授業だったが、いくつかは1年生の小枝も希望できる授業があった。 「あー、えっと……こえだだっけ?」 「違うわっ」 がすっ、と小枝は反射的に、藤間のふくらはぎの辺りにローキックを決めていた。 しまった――と、やらかしてしまってから、はっとする。ついうっかり友達相手のいつものノリでやってしまった。 「蹴るなよ。痛いだろ」 だが、藤間はさして気にした素振りもなく、笑っていた。別に爆発する直前というわけでもないようだ。 藤間は少々荒っぽく小枝の頭を撫でた。 「じゃあな、こえだ」 そうしてから先に大教室の中へと入っていく。 「こえだじゃないってーの」 小枝はそれを見送りながら、手櫛で乱れた髪を直した。 そんなことを何回か繰り返せば、藤間とは並んで歩くくらいには親しくなっていた。 「"こえだ"っていうの、やめてくれます?」 今も同じ授業を受けた後、ふたりは一緒に歩いていた。 「別にいいだろ。気に入ってるんだよ、"さえだ"って読むお前の名前がさ」 「言ってることとやってることがバラバラじゃん」 むしろ正反対と言えるかもしれない。 「だったら、こっちも"真"って呼びますよ?」 「お、いいな、それ」 「……」 ……いいのかよ。予想だにしなかった反応。本当にこの先輩は読めないと、小枝はつくづく思う。 「呼び方なんてテキトーでいいよ。好きに呼べばいいさ。あ、でも、いちおう敬意は払えよ。仮にも僕は先輩なんだから」 「じゃー、いちおーの敬意で」 適当な調子で唄うように返す。とは言え、小枝も藤間を気さくなよい先輩だとは思っていた。 藤間真は凡庸、平凡を自称する。もしくは、ただ本が好きなだけの一介の高校生、とも。 確かに新入生の間で噂になるようなこともなければ、実物を前に女の子がきゃーきゃー騒ぐこともない。……噂になるような有名人なら、ちゃんと別にいるのだ。 小枝はそんな凡庸な先輩を、正直ちょっといいなと思っていた。 むしろ凡庸大歓迎。 自分だって突出した才能も能力も、容姿もないのだ。高い倍率の前では敗北は必至だ。 「凡庸っていうか、汎用性高すぎんだろー」 だが、小枝は現在の状況に対し、ぼやくようにつぶやく。 藤間と親しくなって程なく紹介されたのが、古河美沙希(こが・みさき)だった。 彼女にまつわる話は、新入生である小枝の耳にも偶然入ってきて、知る人ぞ知る有名人であるらしかった。藤間とは同じ中学校の出身で、そのときからの先輩後輩。彼のことを舎弟と呼んでいて、ずいぶん気に入っているようだった。小枝のこともかわいがってくれる。 そして、極めつけが槙坂涼(まきさか・りょう)だった。 知る人ぞ知るの古河美沙希に対し、こちらは知らない生徒はいないと言われるほどの超有名人。 端的に言うなら、黒髪のストレートロングがよく似合う大人っぽい美人だ。整いすぎるほど整った美貌は、ともすれば冷たく硬質になりがちだが、彼女の場合はやわらかい雰囲気をもまとっていた。そのせいか男女問わず憧れの的となっている。 そんなハイスペック完璧超人が、どういうわけか凡庸を自称する藤間に熱烈なアプローチを仕掛けているのだ。 自称凡庸にあるまじきつき合いの広さ。 世の中わからないものだと、小枝は首をひねる。 「何のことだよ?」 「さーねー」 しらばっくれる小枝。 あまりにも奇妙な事態のせいか、槙坂涼の出現に小枝はそれほどショックを受けなかった。所詮は憧れ以上恋愛未満だったということだろうか。その上、1年生ではなかなかお近づきになれない彼女と次第に親しくなりつつあるのだ。得した気分はある。 「でもさー、槙坂さん>真、なんだから、あたし的にはプラス?」 「よくわからないけど、確実に失礼なこと言ってるだろ」 今日も今日とて同じ授業を受けた後、中庭の小道を歩きながら、隣の藤間がそう返してくる。 「え、何か異論ある? 特に、槙坂さん>真ってところ」 「いや、ないな」 藤間はあっさり認めた。 「僕とあの人じゃ比べるべくもないよ」 「……」 小枝は、こんな彼の態度を見ていると、最近では「韜晦してるなー」と思うようになっていた。確かに前々からそうは思っていたが、今では確信している。何か隠している、と。少なくともあの槙坂涼が熱を上げるくらいの何かが、藤間にはあるに違いない。 「あー、もう、むかつくー」 とりあえず蹴ってみる小枝。 「痛っ。……お前ね、何があったか知らないけど、僕に八つ当たりするのやめろよな」 でも、藤間はやっぱりいつも通りで、隠された何かが見えてくることはなかった。 その女、小悪魔につき――。 2013年2月14日公開 |
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