Happy Boy & Girl (前編)
放課後の教室で女子生徒が数人、おしゃべりをしている。
その中心にいるのが巴【ともえ】だった。
中心にいながら巴は本を読んでいる。
読書をする巴の周りに仲の良いクラスメイトが集まってきた――それがこの一団の発生経緯だった。
巴はいわゆる“文学少女”と呼ばれる人間だ。
ただし、一般的なそのイメージとはやや外れている。
その相貌は極めて端整だが、同時に冷たい雰囲気もある。人に対してキツい印象を与える種類のものだ。両親はともに柔らかい容姿なのに――巴は遺伝の神秘を痛感せずにはいられない。
また、巴は人目も意識して自分をデコレートすることも怠らない。人並みにお洒落に気を遣う、という言い方すら控え目で、むしろ人よりファッションセンスは長けている方だ。同じ制服を着るにしても、巴だけは着こなしが違って見える。
結果、ここにクールな文学少女が誕生する。
おかげで巴には“巴御前”とか“クィーン”といった、あまり自分から進んで使いたくないアダ名がつけられていた。
「ねぇ。巴はどう思う?」
周りの少女のひとりが話を振ってきた。
巴は一旦読書を中断し、本を閉じた。平行してさっきまで飛び交っていた話の、必要な部分だけを抽出する。
確か、望美が誰々先輩を好きだ、だったら思い切って告白するべき、そんな話だったはず。
巴は自分の意見を口にした。
「いいんじゃない? それもアリだと思うよ」
「そんなぁ。巴まで……」
途端、望美は情けない声を上げた。
どうやら当の本人としてはそこまで攻勢に出る気はなく、周りが勝手に盛り上がっているだけのようだ。
「ま、最後は本人が決めることだけどね」
巴がつけ加えると、望美は今度は一転してほっと安堵した。
グループのリーダのように扱われている巴の発言は影響力が大きく、強力な意思決定力を持つのだ。巴がそう言った以上、この件の結論はそちらの方へ流れていく。
望美以外の少女たちは少しだけ不満そうだが、一様に「巴が言ったんなら仕方ないか」といった顔だった。
「じゃあさ、巴の方はどうなのよ?」
その中のひとりが訊いてくる。
「薫クンのこと」
「……何が?」
巴は努めて冷静に返した。
しかし、実際には心臓の鼓動が速くなって、顔が微熱を持ちかけているのが、自分でよくわかっていた。
薫【かおる】というのは、巴の幼馴染のことだった。
親同士の仲が良いため、薫とはこれまでずっと一緒に育ってきた。
彼のことを簡潔に表現するなら、見目麗しい好青年。おかげで“プリンス”などと呼ばれ、よく巴とは対にされる。
巴は、向こうがプリンスならこっちはプリンセスじゃないのか、と思うのだが、同時に自分は絶対に“お姫様”という柄ではないこともわかっていた。
その薫の名前を出されて、巴は少しだけ心を乱す。
「いやぁ、我らがプリンスとの仲は、少しは進展したかなぁって」
「進展も何も、私と薫はそういうのじゃない」
冷静を装うのを通り越して、巴は憮然として言い切った。
「あー、だめだめ。巴は筋金入りのファザコンだからね」
「そっか。そうだったね。いかにプリンスといえども愛しのパパとは比べられないわね」
「パパは関係ない」
確かに巴には俗にファザコンと呼ばれる性質があった。
巴はいつでも笑顔を絶やさない優しい父が好きだし、高校生になった今でもべったりだ。おかげで母親と壮絶な奪い合いに発展したことも一度や二度ではない。
だが、それはあくまでも親子の愛情の範囲であり、恋愛とはきちんと区別している。
そして、薫は父とは別の、特別な存在として巴の中にあった。
「じゃあ、なに? 薫クンをちゃんと恋愛対象として見てるわけ?」
「そうは言ってない。薫はただの幼馴染み」
だからと言って、自分の素直な気持ちをこの友人たちに言うつもりはなかった。巴は昔から感情を露わにすることや、心を開くといった行為が苦手だった。弱みを見せている気がするからだ。故にクールな性格の今がある。
「でも、勿体ないよねぇ〜?」
「ねぇ〜」
言葉に具体的な内容がないのにも拘らず、少女たちは意見の一致をみて頷き合う。
それがいったい何を示しているのかわからないのが巴である。
「何が?」
「だってね、巴と薫クンならすっごくお似合いじゃない?」
「美男美女のカップル誕生よね」
「……そう?」
そんなことを言われて思わず顔がほころびそうになる巴。尤も、それは気持ちだけのことで、表面上にはいっさい表れていないが。
「なんてったって、我が校のプリンスとクィーンだもんね」
「あたし、巴だったら薫クン取られても許せるなぁ」
「…………」
口々に好き勝手言うクラスメイトたちの言葉に耳を傾けながら、巴は頭の中でいくつか考えを巡らせていた。
そして、出てきた結論は“幼馴染みからステップアップできるかもしれない”だった。
「私と薫がつき合ったら面白いってこと?」
巴は今初めてその話題に興味を持ったかのように訊いた。
「そりゃあもう話題独占、人気独占って感じよね」
対する返答は大正時代に戻りそうな勢いで返ってきた。
「ふうん……」
そして、巴はしばし考える真似をする。
やがて――、
「つまり私が薫を墜とせばいいわけね」
「え? やるの!?」
「ついに!?」
「ふん。薫を墜とすのなんて簡単だ」
巴は自分の魅力というものをそれなりに自覚していたし、意味ありげな視線、急な態度の変化、気まぐれな話題の切り替え、そういうもので男を一喜一憂させて手玉に取る術も知っている。
これでも高校に入って男の告白を受けた回数は、片手では足りないくらいあるのだ。
巴は携帯電話を取り出すと、メモリィから薫の番号を呼び出した。
「出たっ。プリンス直通ホットライン」
「薫クンって番号もメアドも女の子には教えてくれないのよねぇ」
そんな会話を耳で拾いながら、巴は小さな優越感を覚えた。
『よー、巴。どうした?』
すぐに薫が電話に出た。
「薫。今どこにいる? まだ学校にいるか?」
『いるぜ。学食で駄弁ってる。巴もくるか?』
「いや、それよりも話があるんだ。今から中庭にきてくれないか?」
『今から? 明日の朝じゃダメか?』
「大事な話なんだ」
『わかった。すぐ行く』
「頼んだ」
巴がそう言うと薫は「じゃ、あとで」と言って通話を切った。
「ふう……」
大きく息を吐き出してから巴も携帯電話を折りたたんだ。
舞台は思いの外あっさりと整った。
約5分後――、
巴は中庭のベンチに座っていた。
先ほどの電話の後すぐにここにきてみると、薫の姿はまだなかった。
「すぐ行くって言ったくせに……」
口では文句を言いながらも、どこかほっとした気持ちがないでもない。
巴はベンチに座った。少し離れた場所でクラスメイトたちが隠れて様子を窺っているはずだ。
手持ち無沙汰なので文庫本を開く。
が、1ページも読まないうちにそれは中断された。
「悪い。遅くなった」
顔を上げると薫の姿があった。こちらに向かってくる。
スラリとスマートな長身に、メタルフレームの眼鏡が似合う甘いマスク。それが薫だった。
「いや、巴のところに行くっつったら、周りの奴らがついてこようとしやがるんだ。あいつらを振り切るのに時間がかかっちまった」
そう言って薫は人懐っこい笑顔を見せる。
薫はその恵まれた容姿にも拘らずキザなところがまったくなかった。誰とでも気軽に話すし、周囲の人間にとっても彼は気安い存在だった。だから薫の周りには男女関係なく人が集まってくる。
「で、話ってなんだ?」
「ああ、そうだったね」
立ち上がった。
巴は女の子にしては身長のある方だったが、薫がそれ以上に高いため、向き合えば顔を見上げるかたちになる。
「話というのは他でもない。私たちのことなんだ」
前置きを述べると、薫の顔から笑みが消えた。
巴は普段から感情の起伏が乏しい。今もそうだ。だけど、薫はその中から真剣なものを読み取ったようだ。
「俺たちの?」
「そう。私たちは今まで幼馴染みという関係だった。でも、ここで一度それに区切りをつけようと思う」
「…………」
「きちんとつき合ってみないか、私たち。そういうのも悪くないと思うんだ」
巴は淀みなく言い切った。
このような台詞をすんなり言えたのは、感情が表に出ることを忌避して生きてきたせいだろうか。冷静を装うのが上手いこの性格も、ときには役に立つものだ。
巴の言葉を聞いて、薫はメタルフレームの眼鏡の奥で目を丸くした。それから居心地悪そうに視線を逸らした。
そのまま黙り込む。
その沈黙は何かを考えているのか、それともただ口を開くタイミングを計っているのか。
やがて――、
「……悪い」
「…………」
最初のひと言で巴には結果が見えてしまった。
薫は少し長い前髪をかき上げながら続ける。
「今の話、なかったことになんねーかな? そうすれば俺たちは明日からも幼馴染みとして、今日と同じ顔をして会える」
「…………」
「…………」
「……わかった」
巴はそれに素直に応じた。こんなときでも往生際の悪い、見苦しい姿を晒したくないという思いが先に立った。特に今は相手が薫だ。
「悪いな」
「いや、私こそ唐突に変なことを言ってすまなかった」
そうして巴は振られた――
その夜、巴は珍しく本も読まずに、ベッドに寝転がって考え込んでいた。
思い出すのは放課後のこと。
『今の話、なかったことになんねーかな?』
薫のそのひと言で、巴の告白はあっさりと拒絶された。
友人たちの手前、格好つけて『薫を墜とす』なんて言ったが、本当はそんな軽い気持ちではなかった。
今まで幼馴染みとして育ってきた薫。
何の抵抗もなく、ごく自然に一緒にいたから、彼も自分と同じ気持ちだろうと思っていた。どちらかがきっかけを作れば次の段階へ進めるものだと思っていた。
だが――、
「私の思い込み、か……」
自嘲交じりのため息を吐く。
救いはこの告白自体がなかったことになったことか。だから振った振られたの関係も存在しない。薫は自らが言った通り、明日も同じ顔で巴に接するのだろう。
「私にはそれができるだろうか……」
正直、自信はなかった。
またため息が漏れる。
と、そのとき、階下で玄関のドアが開く音がした。
「パパだっ」
巴は勢いよく起き上がった。
とりあえず陰鬱になりそうなこの気持ちを切り替えるためにも、父親のお帰りのキスをしようと部屋を飛び出した。
翌朝、巴は今日も登校するために家を出た。
そして、いつもの曲がり角で、いつもと同じようにいつも通りの顔で薫が待っていた。
「おっす、巴。おはよう」
「……おはよう」
巴もいつもと変わらぬ挨拶を返した。表面を取り繕い、変化を悟らせないのは巴の得意とするところだ。
「これ、小父さんに返しておいてくれないか」
巴は一冊の本を差し出す。
「なんだ? また親父から借りてたのか?」
「この前、そっちに行ったときに十冊ほどな」
「お前も親父も読みすぎだ」
俺にゃついていけねー。呆れたように薫は言った。
その薫は父親似だが、その読書家の性質はまったく受け継がず、容姿だけを受け継いだようだ。尤も、巴だって人のことは言えない。両親はともに読書家ではないにも拘わらず本の虫だし、容姿も両親にないキツさを持ち合わせているのだから。
薫は受け取った本を鞄に仕舞うと、自転車にまたがった。続いて巴がその後ろに、横を向いて座る。
「いいか?」
「ああ」
そうして自転車は発進する。
ここから学校まで自転車で十分ほど。巴と薫は、毎朝この角で合流して、二人乗りで学校へ行くのが習慣だった。
本当にいつも通りだな。巴は思った。
昨日、あんなことがあったというのに、いつも通りの朝模様。
薫は本当に昨日のことをなかったことにしてしまったのだろうか。それはそれで複雑な思いだ。
「…………」
巴はふと思った。
薫は自分のことをあくまで幼馴染としてしか見ていないのだろうか。少しは女として、例えばこうして身体を寄せていることに何か意識するものはないのだろうか。
そんなことを思って、薫の腰に回した腕に力を込めた。巴の決して小さくない胸のふくらみが薫の背に押しつけられる。
その瞬間――、
「うおっ!?」
薫が悲鳴を上げ、キュッ、と自転車に急ブレーキがかけられた。
バランスを崩した自転車から巴は軽やかに飛び降り、薫は薫で倒れる寸前で足を踏ん張り、それぞれことなきを得た。
「…………」
まさか自分が変なことをしたからだろうか。
「わ、悪い。いきなり猫が飛び出してきたからさ……」
「……は? 猫? どこに?」
「ど、どこにって……そんなのいつまでもいるかよ。もう行っちまったよ。そこの家の敷地に入ってった」
「……そうか」
別の巴のせいというわけではなかったようだ。
なんともタイミングが悪い。結局、薫がどういう反応を示すかわからずじまいだった。
再び自転車は二人乗りで走り出した。
それにしても考えれば考えるほど、自分は薫にとってただの幼馴染みでしかないのだなと思う。
毎日顔を合わせているのに女として見てもらえない。その魅力を感じてもらえない。むしろ距離が近すぎるのがいけないのかもしれない。
だったら取れる道や術は限られている。薫との関係をこのままにしておきたくないなら尚更だ。
「よし……」
巴はひとつの決心をした。
やがてふたりの前に学校が見えてきた。ここまでくると生徒の姿も一気に増えてくる。
「あ、薫クンだ。おはよー」
「おはよーさん」
「先輩、今日も格好いいですっ」
「おだてても何も出ないぜ?」
と、投げかけられた声にいちいち応えていく。こういう気さくな人柄もプリンスと呼ばれる理由のひとつなのだろう。
当然、クィーンたる巴にも投げかけられる声はある。
「巴ちゃん、おはよー」
「……気安く呼ぶな」
「御前様、今日も綺麗だねっ」
「やかましい。馬鹿者」
巴は母の胎内に社交性というものの一切を忘れて生まれてきたらしい。
こうしてふたりの乗る自転車は校門をくぐり、自転車置き場を目指す。
これが朝のいつもの光景だった。
巴が教室に入ると、昨日のメンバーがそばに寄ってきた。
「巴、大丈夫?」
「その、あまり気にしたらダメだよ?」
などと口々に言う言葉は、勿論、振られた巴を心配してのものだ。
「ん。大丈夫……」
「そ、そう?」
「そう。それにね、相手にされてないのなら、むりやりにでもこちらに振り向かせればいいだけの話だしね」
巴はこともなげに語った。
それが巴の結論。
「ふん。薫なんかすぐに墜としてやる」
それが巴の決意。
少女たちは思った。ついにクィーンが本気になった、と――
2007年3月8日公開 |