Happy Boy & Girl (中編−2)
 
 校内で薫を見つける。
 廊下を歩いていた巴はそちらに進路を変え、迷いのない歩調で近寄っていく。
「薫。私と――」
 瞬間、薫はもの凄い勢いで、脱兎の如く逃げ出した。
 一度も巴の顔を見ず、ただのひと言もなく逃げの一手。
「えらく嫌われたものだ」
「重症だな、ありゃ」
 そう言ったのは薫と一緒にいた九鬼だ。ふたりして逃げ去る薫の背中を眺める。
「ここのところ顔を合わせれば必ずだったからな。少ししつこかったか」
「いーや。それくらいで丁度いいんじゃないか」
「そうか。ならこのままこの路線でいくとしよう。恋する乙女は粘り強いのだよ」
 ひらひら蝶のように、唄うように言って、巴は再び歩き出す。
「頑張れよー、巴御前」
 九鬼の声援に、巴は背中越しに手を振って応えた。
 
 そんなこんなで何度も薫に言い寄るものの、結局、何の成果も効果も上がらないまま数日が過ぎ。
 ある日の放課後――
「面倒なことを頼まれたものだ」
 巴は愚痴めいたものを零しながら、放課後独特の解放感を含んだ喧騒の廊下を進む。
 ことの起こりは授業を終えて図書室に本を返しにいったときのことだ。一部の書架からごっそり本が抜け落ちていて、そこに収まっていた本がすべて床に散らばっていたのだ。そばでは図書室担当の初老の教師が、ゆっくりとした動作でそれを元に戻している最中だった。
 聞けば昼休みに男子生徒同士の派手な喧嘩があり、これはその被害とのこと。
 そこで巴はその教師に復旧作業を頼まれてしまったのだ。押し付けられたとも言うが。
 巴は乱れた書架を眺める。なかなか骨の折れる作業になるであろうことは明らかだった。応援が必要かもしれない。
 そうして今に至る。
 巴は手伝ってくれそうな人間を求めて廊下を歩く。第一候補は教室に残っているクラスメイトだ。
 誰かいればいいが――そう思って渡り廊下を歩いていると、窓の外、見下ろした先に薫の姿があった。九鬼を含めた友人数人と通り過ぎようとしている。
「薫」
 巴は窓を開け、幼馴染みの名を呼んだ。
 途端、薫は顔を引きつらせる。
「私は化け物か……」
 何か妙なトラウマでも植えつけてしまったのかもしれない。
「今日はそういう話じゃなくて、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ。こっちにきてくれないか?」
「ああ、そういうことか。わかった。すぐ行く」
 薫は快諾した。
 いつもこうだった。用がある、手伝って欲しい、と巴が言えば、薫はその内容も聞かず飛んでくるのだ。巴はそういう薫が好きだった。
 巴が窓を閉めようとしたとき、下から薫と九鬼の話し声が届いてきた。
「お前、彼女から逃げ回ってたんじゃなかったっけ?」
「そりゃあいつが変なことを言うからだよ。別に嫌ってるわけじゃない。あれさえなけりゃ……ていうか、あってもなくても巴は俺にとって大事な幼馴染みだよ」
「…………」
 巴の頬が熱を持つ。
 薫は巴がまだ声の聞こえる範囲にいることをわかっていないのだろうか。巴は気づかれないように、そっと窓を閉めた。
 
 作業は思っていた以上に面倒だった。ただ単に本を拾って書架に収めればいいというものでもなく、請求番号の順に並べる必要があるからだ。
 まずは床に散乱している本を拾い上げ、ブックトラックを使って大雑把に分けていく。
「しっかし、まぁ、よくも好き好んでこんな活字ばかりの本を読むよな。お前も親父も」
 その途中、単調な作業にだんだんと飽きてきたのか、薫が本を一冊手に取り、パラパラとページをめくりながら言った。薫は巴とともに校内で一、二を争うくらい成績優秀だが、読書が趣味と言えるほどに本を読む方ではない。
「好きだから読んでるんだ。小父さんは薫に本を薦めたりはしないのか?」
「ないな。挙句、俺が面白い本がないか聞いたら、『俺が決めることじゃない。面白いかどうかはお前が自分で読んで決めろ』とか言うしな」
「それは小父さんらしいな」
 薫の父の性格をよく知っている巴は苦笑するしかなかった。
「巴、よかったらテキトーに何冊か見繕ってくれよ」
「それはかまわないが……私の趣味でいいのか?」
「ああ。いいよ。別に特異な趣味はしてないだろ?」
「ヤマなし、オチなし、イミな――」
「待て」
 薫が巴の言葉を遮る。
「お前、そんなの読んでるのか!?」
「たまにな。なに、世の中にはこういう世界もあると思えば充分に許容範囲だ」
「そりゃそうかもしれないがな。でも、それは俺に勧めてくれるな」
「そうか。残念だ」
 巴は言う。
 そんな彼女に薫は「まったく……」と呆れたようにつぶやいた。
 
 作業は一時間ほどで終了した。
 互いの苦労をねぎらう意味で、学生食堂で買ってきた缶コーヒーを飲みながらくつろぐ。
「いいのか? ここ、飲食厳禁だろ」
「いいさ。どうせ今日は臨時の休み。私たち以外に誰もいない」
「確かにな」
 それで安心したのか、薫はリラックスした様子で椅子の背もたれに身体を預けた。長い足を組み、手では缶を弄ぶ。それだけでやけに様になっていた。さすがプリンス様だな――と、巴は思った。
 薫は心持ち顔を上に向け、遠い地点の天井に目を向けていた。
 物憂げな瞳。
 何を考えているのだろうか。
 巴は薫の思考をなぞってみようと試みたが、すぐに諦めた。ただ黙って彼を見つめる。
「巴さ――」
「ん?」
 薫が天井を見つめたまま、心をどこか遠くに置き去りにしてきたような様子で口を開いた。
 巴は前触れもなくいきなり発音した薫に驚きはしたものの、決してそれを表情には出さず、応じる。
「今日はいつもみたいに“つき合え”って言わないんだな」
「それどころじゃなかったからな」
 今はすっかり片付いた書架を見る。
「言えば薫はまた逃げる。逃げた薫を捕まえるのは大変だからな」
「大変か?」
「大変だ。正直、こんなに逃げられるとは思ってもみなかった」
 巴は自嘲する。
 薫にとって自分はさほど特別ではなかったことと、今までそれに気がつかなかった自分を嘲笑う。
「そうか。だったら、そろそろ逃げるのやめるか」
「……は?」
 その言葉がどういう意味を持つのかわからず、巴は思わず彼を見る。薫もまた巴を見ていた。目が合う。
「俺たち、ちゃんとつき合ってみるか」
「い、いや、ちょっと待て。今までずっと逃げ回っていたくせに、なんで急に……」
「うちのお袋とか巴の小母さんとかさ、俺たちが小さいときからずっと俺たちをくっつけようとしてただろ? だから、そうなるのって大人のいいなりになるみたいで嫌だったんだよな。でも、それもアリかなって、な」
 そう言って薫はばつが悪そうに苦笑した。
「そ、そうか……」
「返事、聞かせてくれよ」
「あ……。も、もちろん、私はかまわない……」
 赤くなった顔を隠すようにして伏せる巴。
「……でも、私の方が薫に答えを迫っていたはずなのに、最後の最後で逆転するのは狡くないだろうか……」
 消え入りそうな声で言う。
 それでも願いは叶ったのだから文句はない。
 巴は顔を上げられなかった。
 薫の顔が見ることができない。
 自分は今まで、感情を抑え、本心を隠すことが得意だと思っていた。でも、それでも隠しきれない感情があることを知った。
 どうしようもなく照れくさくて、
 嬉しさが止まらない。
 もう少し自分はクールだと思っていたのだが。
 と、そのとき、まったく予期せぬ声が聞こえてきた。
「うっそぉ!? ほんとにプリンス様、墜としちゃった!」
 驚いて顔を上げると、貸し出しカウンタの内側から巴のクラスメイトのいつもの面々が顔を出していた。
「なに? 信じてなかったの? あたしはやると思ってたわよ。巴が自分で言ったんだしね。絶対墜とすって」
「それにしても、これって歴史的瞬間ってやつ? さっすが巴」
「ずっと隠れてた甲斐があったってものよね」
 口々に勝手なことを言って盛り上がる。
「ちょっと、あんたたち――」
「おい、巴」
 巴が彼女たちを問い質そうとしたとき、そこに薫の声が重なった。
 明らかに尋常ならざる調子の薫の声。振り返ると彼は、怒りをむりやり薄い笑みで押さえ込んだような表情を浮かべていた。
「どういうことだ、これは」
「薫、これは、その……」
「説明できないか。できるわけないよな。どうやら今までのことは遊びか何かでやってたみたいだもんな」
「違う! 私は本当に――」
「もういいよ」
 薫は静かな発音ながら、ぴしゃりと巴を制した。
「お前がそういうつもりだったってのを見抜けなかった俺がマヌケなんだろうさ」
 そう言うと図書室の出入り口に向かって歩き出す。
「薫っ」
「じゃあな」
 嫌悪、忌避、隔意……。薫はあらゆる拒絶を込めて吐き捨てる。
 巴はそれ以上彼を追うことができず、薫が消えていったドアを見つめ、立ち尽くした。
 
 
 2007年4月1日公開
 
 
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コメントへのお返事は、後日、日記にて。
 
  
 

 

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