Happy Boy & Girl (後編)
 
 朝、巴はいつもの時間に家を出た。
 いや、出てしまった、と言うべきか。
 ついいつもの習慣で同じ時間に家を出てしまったのだ。昨日のことを考えていて、そこまで頭が回っていなかったようだ。
 昨日あんなことがあって、薫が待っているはずはないのに。
 そのことに気づいたのは、いつも待ち合わせをしている角が目の前に見えてきたときだった。
 それでも巴は足を進める。
 そこが通り道なのだから仕方がない、迂回する意味もなければ理由もない。ただ、薫がいない風景は思った以上に衝撃を受けるだろうなと、冷静に考えてしまう。
 が――、
「……よう」
 薫の声だった。
 角に隠れるようにして、薫が立っていたのだ。
 聞き慣れた声。
 でも、今まで聞いたことのない無表情な響きだった。
「薫、なぜ……」
「お前のことだから、どうせこの時間にくると思った」
 薫は淡々と言う。
「そうか」
「乗れよ」
「…………」
「でも、今日だけだ。明日からは知らん」
「……わかった」
 薫は、巴の返事を聞くと、自転車にまたがった。続けて巴もその後ろに横座りする。
 すぐに自転車は走り出した。
 いつもみたいに「いいか?」とは聞かれなかった。それだけ関係が冷め切っているということなのだろう。
「…………」
「…………」
 発進のときも無言なら、走っている間も無言。
 これほど無言が苦痛に感じたのは初めてだった。
 毎日見ているはずの風景も、今日はぜんぜん知らないものに見える。
 だが、それも今日だけのこと。
 最初で最後。
 明日からはこうして一緒に自転車に乗ることもなくなる。
「…………」
「…………」
 やがて自分と同じ制服を着た生徒の姿がちらほらと目につきはじめ、学校が見えてきた。
 徒歩で登校する生徒に混じって自転車に乗ったまま校門をくぐる。
 学園のプリンスとクイーンそろっての登校は日常であり名物のワンシーン。そして、そのふたりに生徒たちが声をかけるのもまた馴染みの風景である。
「あ、薫クンだ。おっはよーう」
「ん。おはよーさん」
「先輩、こっち向いてくださいっ」
「今はムリだってーの」
 薫はいつも通りだった。
 昨日と今日で違うのはただ一点。巴に対する態度だけ。
 つまりそれは薫の怒りが巴に集約していることを意味する。
 巴は改めて自分のしでかしてしまったことの大きさを思い知った。
 いつものように巴に呼びかける生徒の声もあったが、そんなものに応える気にはなれず、すべて無視した。
 駐輪場の手前で自転車は止まった。
「……着いたぞ」
「…………」
 これっきりだと思うと薫から離れるのが躊躇われる。
 だが、ずっとこうしていられるはずもなく、ひと呼吸おいてから自転車を降りた。
「……薫」
 自転車を押して駐輪場へ向かおうとする薫を呼び止める。
 薫は振り返らず、背を向けたまま巴の言葉を待っていた。
「…………」
「…………」
 だけど、次の言葉が出てこない。そもそも何を言おうとして呼び止めたのかもわからなかった。
 そして、先に口を開いたのは薫の方だった。
「……巴」
「…………」
「明日からは一緒に行けない。だから、ちゃんと遅れないように家を出ろよ」
 薫はやはり背を向けたままそう言って、巴の返事を待たずに歩き出した。
「私はお前に酷いことをしたんだぞ……」
 わからない。
 なぜ薫は自分を気遣うようなことが言えるのだろうか……
 
 教室に入るといつものクラスメイトたちが、恐る恐るといった様子で近づいてきた。
 彼女たちは昨日のことをしきりに詫びていた。
 だけど、巴は「気にしなくていいから」と言って、追い返した。確かに彼女たちのせいですべてが台無しになったが、かと言って、彼女たちを責める気にもなれなかった。
 今の巴は怒ったり、誰かを責めたりする以上に、ただただ無力感に支配されていた。
 
 そうして一日のほとんどを終え、
 夜。
 巴は自室のベッドで寝転がっていた。
 読書をする気も起きない。何をするわけでもなく、すでに考えることも放棄していた。ただ定期的に天井に向かってため息を吐くだけ。
 と、そこにドアがノックされる。
「僕だけど?」
「パパ!?」
 巴は飛び起きた。
 バタバタと無駄の多い動作でドアへ行き、それを開ける。
 父が立っていた。ちょっと童顔で、男としてはあまり背が高い方ではない。それでも巴の大好きなパパだ。
「帰ってたの?」
「うん。30分ほど前かな?」
「あ、そうなんだ……」
 ぼうっとしていたせいで、ぜんぜん気がつかなかった。
「どうかしたの、パパ」
「それはこっちの台詞。僕が帰ってきたらいつも必ず飛んで出てくる巴が、今日は部屋にこもったままだし。ママも巴の様子がおかしいって言ってたよ。何かあった?」
「…………」
 巴は黙って父に背を向けた。そして、ベッドまで戻ると、ぼすん、と腰を下ろす。
「……私、薫に酷いことして、嫌われた」
「そっか」
 父は入り口でドアにもたれたままだった。
 ポケットからタバコの箱を取り出し、口に一本くわえると、その先にライタで火をつけた。キン、と硬質な音を立ててジッポーを閉じて、再びポケットに戻す。
「何があったか知らないけれど、それなら謝ればいい」
「!? ……でも、許してくれないかもしれない」
 巴がそう言うと、父は顔だけを廊下に向け、部屋の外に煙を吐いた。
「巴、僕はエスパーの娘を持った覚えはないよ」
 父が何を言いたいのかわからず、巴は首を傾げる。
「許してくれるかどうか、巴が決めることじゃないって話」
「でも……」
 と、また俯く。
 確かにそうかもしれない。だけど、やはり薫は許してくれないだろう。些細な行き違いがあり、結果的にとは言え、薫の心を踏みにじったことには変わりないのだから。
「巴はひとつ勘違いをしているね」
 顔を上げる。
 父は真っ直ぐこっちを見ていた。相変わらず戸口にもたれている。組んだ腕。指の間にはタバコ。今動いているのは、そこから立ち上る紫煙だけだ。
「謝るのは相手に許してもらうからじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「自分に対するけじめかな。許してくれないから謝らない? 違うだろ? まずは自分のしたことを謝る。許してくれる許してくれないは、その次の話だよ」
「でも……」
「“でも”が多いね、今日の巴は」
「ごめんなさい……」
「いや、それはいいことだ。それだけ巴が拘っている証拠だからね」
 父は優しく微笑んだ。キツい面立ちの自分では真似のできない、柔らかい表情だった。
 そして、父はポケットから携帯灰皿を取り出すと、そこに灰を落とした。そんなものを用意していたということは、最初から娘の話をゆっくり聞くつもりだったのだろう。
「“でも”、なに?」
「あ、うん……」
 父に先を促され、巴は続ける。
「それでも私は薫に許して欲しい」
「じゃあ、尚更きちんと謝らないといけないね」
「…………」
「気持ちがあっても、それを伝えないとダメ。言葉にしても気持ちがないとダメ。気持ちと言葉。どっちが欠けてもいけない。巴に足りないのはどっちだろう?」
 それは今ここで答えを求める問いではない。それを考えろと父は言っているのだ。ここまで言われれば巴ももう答えは出ている。思えば簡単なことだったのだ。
 父はいつもそうだった。巴が迷っていると、こうして道を示してくれる。
「ありがとう、パパ」
「どーいたしまして」
 父はタバコを口に運びながら応えた。
「パパ、大好き。ねぇ、キスしていい?」
「ぶ……っ」
 ぶはっ、と煙を吐く。
「いきなりだね。その唐突なところ、ママによく似てる」
「そうなの?」
「まぁ、ね……」
 父は苦虫を噛み潰したような表情になった。その顔を見る限り、母もそうとう父を困らせたようだ。
「じゃあね、巴。おやすみ」
「うん。おやすみ」
 紫煙を燻らせて階下へ降りていく父を、巴は廊下まで出て見送った。
 
 翌日、
 巴はいつもより早く家を出た。
 いつも。
 すなわち、薫と自転車で一緒に登校するときの時間。
 今日はそれよりも少しだけ早く。
 巴は家を出た。
 待ち合わせの角。いつもなら薫が先にきて待っているが、今日は巴が薫を待つ。
 程なく薫が自転車に乗ってやってきた。
 薫は眼鏡をかけているが、矯正後の視力は悪くない。むしろ眼鏡はファッションでかけているのではないかと思うほど、よく見えている。
 そして、巴も視力はいい方だ。
 そうとうな距離がありながらも、互いの目が合った。
 薫が静かな怒りを孕んだ目で巴を睨む。
 胸が痛んだ。
 あの“学園のプリンス”として誰からも慕われる、温和な性格の薫を傷つけ、怒りに駆り立てた自分は、あまりにも大罪人だ。
 それでも巴は真っ直ぐ薫を見つめ返した。
 すると、今度は薫が目を逸らした。無視を決め込むつもりのようだ。
 距離が縮まっていく。
 案の定、薫は巴の横をすり抜けていこうとした。
 仕方ないので、巴は持っていた制鞄を投げつけた。
「うおっ!?」
 しかし、薫は側方から襲来してくるそれを、抜群の反射神経で反応して、身を低くして避けた。
 自転車が急停止した。
「……お前、どういうつもりだ」
「薫が止まらないからだ」
 ふん、と鼻を鳴らし、巴は答える。
「実力行使に出る前に、まずは呼び止めろ」
「そうしたら薫は止まってくれたのか?」
「さぁな。……で、何か用か?」
「私を乗せていってくれ」
 巴が言うと、しばらくの間、薫は押し黙った。
 そして――、
「昨日言ったはずだ。明日からは知らないってな」
「しかし、このままでは私は遅れてしまう」
「自分を人質にするかよ。だけど、それこそ俺の知ったことじゃない」
 冷たく言うと、薫は再び自転車を漕ぎ出した。
「待ってくれ」
 それをすぐさま呼び止める。
「話があるんだ。どうしても薫に言っておきたいことなんだ。返事はしなくていい。ただ私の言うことを聞いてさえくれれば……」
 自転車が止まる。
 だが、薫は振り返らない。
 サドルにまたがったままハンドルに両肘を突き、組んだ手に額をつけて、身を伏せるようにして考え込む。
「…………」
「…………」
 しばしの沈黙。
「……乗れよ」
 やがて薫は無表情な声で言った。
 巴は、自分の中にある何かを確認するように一度頷いてから、薫の後ろに座った。
 またここに座れたことを嬉しく思う。
 が、自転車が発進し、そんな感慨にひたっている場合ではなくなった。走り出した以上いずれは目的地に着く。タイムリミットは遠くない。
 自転車が緩い等速度運動に変わってから、巴は話しはじめた。
「薫、一昨日のこと、本当にすまなかった。からかったりするつもりはなかったんだ。信じて欲しい」
 だけど、薫は何も言わない。
 聞くだけでいいと言ったのは巴の方。だから、巴は先を続けた。
「私は自分の気持ちを表にすることに慣れていないし、苦手だ。だから、友達の前で薫を墜とすなんてポーズを取ってしまったんだ。でも、そんなふうに私が無駄に格好をつけたことで、薫を傷つけた。本当にすまなかった」
「…………」
 薫は相変わらず黙ったまま。
 つまりそれはまだ薫が怒っているということなのだろう。
 でも、言うべきことは言った。けじめはつけた。後は父の言う通りだ――信じてくれる信じてくれない、許してくれる許してくれないは、薫が決めることだ。
 沈黙が巴の心に重くのしかかる。
「薫、もう降ろしてくれ。後は歩いていく」
 ここのままこうしているよりは遅刻した方がマシに思えた。
 だが、自転車は止まらない。
「薫?」
「……巴さ――」
 ようやく薫が口を開いた。切った風に乗って前から声が流れてくる。
 何を言うのだろうか。巴の鼓動がにわかに速くなる。
「言いたいことはそれだけか?」
「え……?」
「本当にそれだけなら止めてやる」
 そう言って薫はペダルを漕ぎ続ける。
 巴は、変わらず流れる景色を見ながら、考えた。
 答えはすぐに出た。いや、それは昨日すでに出した答えだった。
「そうだな。まだあった」
 巴は心をニュートラルに戻す。
「あの日、中庭でつき合ってくれと言ったその気持ちは本当だ。嘘じゃない。だから、改めて言う。私とつき合ってくれないか?」
 それは昨日の夜に決めていたこと。
 薫に一昨日のことを謝って、その上でもう一度自分の気持ちを伝えよう、と。
 だが、薫から返ってきた答えは巴が望んだものではなかった。そして、望まなかったものでもなかった。
「お前は確かに自分の気持ちを表に出すのが下手だな。バカみたいにストレートなときもあるのに、肝心なところで素直じゃない」
 薫は笑うわけでもなく、バカにするわけでもなく、だた事実だけを述べるように指摘する。
「俺、お前をこうして後ろに乗せて走っている時間が好きなんだ」
 そして、今度は一見して関係ない話へ。
「くだらない話をしているのもいいし、黙っていても居心地がよかった」
「そうか……」
 それは日ごろから巴が考えていることと同じだった。薫が同じように思っていてくれたことに嬉しくなる。
「だから、俺が好きなこの自転車の上で、お前がまだ一度も口にしていない言葉を言って欲しい」
「…………」
 言われてみればそうだった。詰め寄りながら、『私とつき合え』とは何度も言った。だけど、そこに至る根源的な気持ちは一度として口にしていなかった。
 気持ちと、言葉。
 結局、自分にはまだ言葉が足りていないのだと、ようやくわかった。
「俺の聞きたい言葉を聞かせてくれないか?」
「……聞きたいのか?」
「ああ、聞きたい」
「……そうか」
 なら、言おう。
 ストレートな言葉を何食わぬ顔で吐くのが巴という女ではないか。
 自分に言い聞かせる。
 一度静かに息を吸い、それと等量の空気を吐いた。
 それから首を傾け、薫の背に触れさせる。
「私は薫が好きだ。ずっと前から好きだった」
 そして、言った。
 世界から音が消える。
 巴は薫の言葉を待った。
 永遠のような沈黙。
 無音の世界を、景色だけが緩慢に流れていく。
「そうか」
 ようやく返ってきた薫の返事は簡潔だった。
 だが、そこにはこれまでと違って、ほんの少しだけ微笑むような響きが含まれていた。
「ちょっと待て。それだけなのか?」
 だけど、巴にはそこにカチンとくるものがあった。
「そうだな。今はこれだけにしておくか」
「狡いぞ。私はちゃんと言ったのにっ」
「ああ、そうだな」
 今度は明らかに笑っていた。
 それが余計に巴を怒らせる。
「そうか。薫がそういうつもりなら、私にも考えがある」
「どうするんだ?」
「こうする」
 巴は薫の腰に回している腕に力を込め、それと同時に自ら身を寄せるようにした。
 薫の背で豊かな胸がつぶれる。
「バカ。お前、なに押しつけてるんだ!?」
 薫の動揺を表すかのように、自転車が蛇行をはじめた。巧みにハンドルを切りながら、文句を言う。
「何って、私の胸だが?」
 巴はこともなげに言った。
「そんなことはわかってるっ」
「なに、減るものではない」
「それは男の台詞だ」
「ふむ。確かにそうかもしれないが、しかし、それを言うような状況になった場合、男として最低だと思うが?」
 巴はそう言いながら渋々身体を離した。
 再び自転車の走行が安定する。
「まったく。何てことするんだ……」
 薫の呆れ声。
「言葉と気持ちで足りないようだったから、それなりに自慢できる体も加えてみた」
「意味がわからん」
「ママはそうやってパパを捉まえたらしいぞ」
「本当かよ。小母さんがそう言ったのか?」
「言っていないが、きっとそうに違いない。なにせパパみたいな素敵な男を捉まえたんだ。それくらいの積極性は必要だろう。私も見習いたいものだ」
「あー、そーかい……」
 薫はどうでもよさげに応えた。
「私はこれでも遠回しに薫が素敵だと言っているのだが?」
「…………」
 薫はまたも沈黙した。
 巴は黙り込んだ薫から、自分へと意識を向けた。
 体に感じる風の感触が変わっている。そして、さっきまでとは打って変わって、今ここにいることを心地よく感じている。それは一昨日までの気持ちに似ているが、戻りつつあるのか変わりつつあるのかは判じかねた。
 どちらにしろ、この場所をその意味の上で失っていたのは一瞬。でも、その一瞬でどれだけ自分にとって大切なものかよくわかった。
「薫、私を許してくれるのか?」
「そうだな。でも、反省しろよ?」
「わかった」
 叱られた。それでも自然と笑みがこぼれてくる。
「ついでに、私も薫から聞きたい言葉があるのだが?」
「…………」
「…………」
「それはまた今度な」
「そうか。今度か。それは楽しみだ」
 さて、どんなふうに聞かせてくれるのだろう。
「薫」
「なんだ?」
「好きだ」
「…………」
「…………」
「それはさっき聞いた」
「わかってる。でも、これからは毎日言うつもりだ」
「…………」
「だから、薫も早く言うことだ。私はいつでも待っているから」
 いつでも。
 でも、そのときがこの自転車の上ならいいのに、と思う。
 この心地よい時間と、この場所で。
 自分の気持ちを言葉にして打ち明けたこの場所で。
 流れる景色と風を感じながら、その言葉を聞きたい。
 巴はそう思った――
 
 
 2007年7月7日公開
 
 
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。
 
 
 

 

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