タイトル未定


  
 ここに引っ越してきて一週間がたった六月の中旬。
 僕は今日も真っ直ぐに家へと帰る。
 別に転校してきたばかりだから友人がいないというわけではない。友達と言えるやつは何人かできたし、今日もどこかに遊びにいこうと誘われた。
 ただ、僕がそんな気分になれないだけ。
 今日も何ごとにもやる気が出ないまま学校の授業を終え、帰ってきた。まだ慣れないアパートの階段をのぼる。三階建ての二階が我が家だ。

「おかえりなさい、聖也さん」

 階段をのぼりきり、ドアの前に立ったところで声をかけられた。
 さらに上へと続く階段に、ひとりの少女が座っていた。
 黒髪の美少女。
 学年は、高校二年生の僕のふたつ下で、現在中学三年生。誕生日は聞いていないので、歳は十四歳か十五歳かは知らない。
 名前を黒江美沙という。
 このアパートにおいて同じ階段、同じ階――つまりはお隣さんということになる。建物の構造上、玄関同士が向かい合っていることを考えると、お向かいさんと表現するべきだろうか。
「ああ、黒江か」
 彼女はとっくに帰宅して着替えたらしく、初夏らしい半袖のカットソーにミニスカート姿だ。そもそも登下校の時間が合わないらしく、僕は黒江の制服姿を未だ見たことがなかった。
 そんな恰好で階段に座っているものだから、決定的な部分は見えないものの、太ももの裏側を惜しげもなく晒していた。
 黒江は平均よりも背が高い。そして、それに見合うだけのスタイルもある。それだけに僕は、彼女のそんな座り方にどきっとする。
「……黒江」
「はい?」
「誰かきたらどうするんだ」
 曖昧な言い方だが、彼女は僕の言いたいことを察したらしい。それでも特に慌てはせず、座り方を直そうともしなかった。
「大丈夫ですよ。ここを通るのは上の階の人だけですし、そろそろ聖也さんが帰ってくるころだと思って、ついさっきここに座ったばかりです」
「あっそう」
 僕は素っ気なく答えると、制鞄から家の鍵を取り出し、ドアの鍵穴に挿し込んだ。視線を少し上にやれば、『比良坂』という表札がついている。
 それが僕の姓だ。十七年間使い慣れたものから変わった、新しい姓。
 比良坂聖也。
 この新しい家同様、この名前にもまだ慣れない。
「あ、それとももっと無防備な座り方のほうがよかったですか?」
 複雑な心情の僕に、黒江がからかうように言ってくる。
「えっちですね。それならそうと言ってくれたらいいのに。何なら指摘されて顔を真っ赤にしながら慌ててスカートを押さえるおまけまでつけてあげます」
「……そういうのは僕のいないところでひとりでやれ」
 僕が努めてフラットに言い返すと、黒江はくすりと笑った。そのやけに大人っぽい笑い方が僕の耳朶を打つ。
「それじゃあ。早く帰れよ」
「わたしがただ単に聖也さんを出迎えるためにここにいたと思ってるんですか? 遊びにきたに決まってるじゃないですか。もう、わかってるくせに」
 黒江は口を尖らせながら、でも、怒ったふうはなく、まるで僕の心の動きを見透かしたように苦笑しながら言う。
「……だと思ったよ」
 そう、こいつはよく僕の部屋に遊びにくる。ここに引っ越してきて一週間。もう四回は部屋に上がり込んだだろうか。
 鍵を回し、開錠する。
「……入れよ」
 僕はため息を吐いてから、そう告げた。
「あら、入れてくれるんですか?」
「そういう約束だからね」
 約束である以上、守るべきだろう。少なくとも守る努力をしなくてはいけない。
 僕がドアを大きく開けて中に這入ると、黒江も僕の後に続いた。
「お邪魔しまーす」
 自分のスリッパに足を突っ込む僕ぼ横で、彼女は来客用のスリッパの中でいちばんかわいらしいものを選び、それを履いた。
「誰もいないよ」
「礼儀ですよ。よその家にお邪魔するときの」
 それだけ聞けば礼儀正しい女の子のようだが、黒江は本当にここをよその家だと思っているのか怪しい振る舞いをするから困りものだ。
 このアパートは単身、或いは、子どものいない世帯用なので、間取りは2LDK。
 我が比良坂家も僕と母だけなので、これで十分だ。
 リビングを抜けて、僕の私室へと這入る。黒江も、何の警戒もなく一緒に入ってきた。彼女が遊びにきたときに母がいたのは最初の一回だけなので、今さらではある。
「ここ、座らせてもらいますね?」
「ベッドに座ろうとするな。そっちに座れ」
 僕はライティングデスクのキャスタ付きチェアを指さす。
 彼女がそちらに腰を下ろしたのを見届けてから、僕はライティングデスクのそばに制鞄を置き、僕自身はベッドに座った。
 黒江はイスに座ったまま、嬉しそうに部屋を見回している。
 面白くもなんともない部屋だと思うのだけどな。
 そう。この部屋には何もない。
 前はもっといろんなものがあった。ボールがあった。選手のポスターが貼ってあった。教本も専門誌もあった。
 だけど、ぜんぶ捨てた。
 それを諦めざるを得なくなったとき、すべて捨てたのだ。
 そうしたら何もない部屋になった。
 この部屋はまるで今の僕を表しているかのようだ。
「あ、そうだ」
 急に黒江が立ち上がった。
「外は暑かったし、喉が渇いたんじゃないですか? 何か飲みもの、とってきますね」
「お前、本当にここが人の家だってわかってるか?」
「わかってますよ。でも、聖也さんのお母様に好きに使っていいって言われてますから」
 得意げに言い返して、黒江は部屋を出ていった。
 実際、本当だから困る。母が彼女をいたく気に入った結果だ。
 外面はいいのだ、黒江美沙は。礼儀正しくて気が利いて、かわいいけど少し大人っぽくもある美少女。だけど、中身はあの通り。中学生なのに年上の僕をからかって楽しむ悪魔のような少女だ。
「どうしてこうなった……?」
 僕はそのまま仰向けにベッドに倒れ込んだ。

 

 

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