1月2日の朝、
 目覚めた僕は布団を抜け出ると、うーん、と体を伸ばしてから、ベッドを飛び降りた。華麗に4本の足で着地する。
 ……。
 ……。
 ……。
 4本の足?
 僕は自分の行動に違和感を覚え、己の姿を改めて見た。
 まず見えたのは、床を踏みしめる前足(!)。真っ白な毛に覆われていて、太短い。床がびっくりするほど近く、見上げればそびえ立つベッドや本棚、勉強机にこれまたびっくり。
 何か嫌な予感がする。
 そこで僕は机の上に鏡が置いてあったことを思い出し、机に飛び乗った。その動きは驚くほど軽く、自分の背の何倍もの高さをジャンプしたような気がした。バスケをやっていたらヒーローだな。
 それは兎も角、鏡を覗いてみる。
 かくして――、
 
 千秋那智は朝目覚めると、自分が一匹の猫になっていることに気づいた。
 
 ……。
 ……。
 ……。
 うぇーーーーーい!!!
 
 
Simple Life
  お正月特別SS 「なっちの“変身”」
 
 
 そこに映っていたのは、どこからどう見ても猫だった。仔猫でもなく成猫でもなく、なんというか、中猫。いったい何のドッキリかと思ったけど、今までの自分の人間らしからぬ動きや、目に見えるものを考えれば、ここに映っているのはまぎれもなく僕自身だろう。
「……」
 なんてことだ。どうしてこんなことになったんだ? いや、今考えるべきは、もとに戻る方法か。でも、当然のことながら僕の周りには、朝起きたら猫になっていたなんていうぶっ飛んだ経験をした知り合いはいないから、解決法もさっぱりだ。
 ひとまず階下に降りてみようか――と机から飛び降りたところで、さっそく第一関門に気づく。部屋のドアだ。
 ドアノブは見上げるほど高いし、こんな手だから握って回すなんてこともできそうにない。それでもここを出ないことにはどうしようもないわけで……。
 思い切って僕はドアに飛びついた。ノブを両の前足で挟むようにして掴む。それからどうにかこねこねやって、それを回すことに成功。最後にいんぐりもんぐり体を振って、ついにドアを開けることができた。なんだ、やればできるじゃないか。ちょっと自信が出てきたぞ。
 部屋を出て、廊下を歩く。
 視点と体の大きさが違えば、いつも歩いている廊下もまったくの別ものだ。
 次に階段。
 これがまた怖いのなんのって。この階段、もとから急な角度でつくられていて普段でも怖いのに(実際、小さいころは池田屋階段落ちを2度ほどやった)、猫の姿だとシャレにならない。
 かと言って、最上段でぶるぶる震えていても仕方ないので、一段一段、うにゃっ、うにゃっ、と下りた。そしてラスト3段は転げ落ちた。ぐぎゅ。
 で、だ。
 階段を下りながら考えたのだけど、この姿のまま父さん母さんに会っても、ふたりだって困るのじゃないだろうか。どうも人語は話せないっぽいし、最悪コミュニケーションがとれず、勝手に入ってきた猫として外に放り出されそうだ。
 よし、一旦外に出よう。もしかしたら僕をこんな姿にした悪い魔女にでも出会うかもしれない。
 そんなわけで僕は外に出た。
 鍵が開いていたのは幸いだったけど、部屋のものより重い玄関のドアは強敵だった。
 門をくぐり、我が家の敷地を出る。
 と――、
「あら? 猫?」
 聞き慣れた声に顔を上げると、そこに司先輩がいた。細身のデニムのパンツルックに、ファーつきのコートを羽織っている。
「那智くんって、猫飼っていたのかしら?」
 司先輩はその場にしゃがむと、僕の喉を指でさすりはじめた。や、やめてくれ。なんか気持ちよくなって、喉がゴロゴロ鳴ってしまう。
「かわいいわね。……ねぇ、那智くんに会いにきたのだけど、あなた、那智くんがいるか知ってる?」
 先輩は猫(僕のことだ)に問いかける。
『もちろん、知ってますよ』
 ていうか、目の前でゴロゴロいっているのが僕です。
「わかるわけないか」
『わかるわけないですよね』
 だって猫ですから。
 先輩はひとつ微笑んでから立ち上がり、インターホンを押した。短いやり取りの後、母さんが姿を現す。
「おはようございます、おば様。那智くんいますか?」
「それが、何度も呼んだんですが、起きてこないんですよ」
 起きてるんですが、猫なんです。
 でも、助かったな。母さんは僕の部屋にまでは入っていないらしい。ドアを開けて僕がいないとわかったら大騒ぎだ。
「そうですか。まだ早いですからね。わかりました。また午後にでも寄らせてもらいます。那智くんはまだ寝かせておいてあげてください」
「すいませんねぇ」
 普段は強引グ・マイウェイな司先輩も、こういう場面では大人相手にそつのない会話をする。改めて年上なのだなと思う。
「じゃあね、猫さん」
 そして、僕にもそう言って、先輩は立ち去った。
 目の前にいるのに気がついてもらえないというのも、かなり寂しいものがある……なんて言っている場合じゃないな。なんとか騒ぎになる前にもとに戻る方法を見つけないと。
 
 とりあえずきてみた……というか、きてしまったのは、居内さんの家だった。猫の僕は門の前に座って、しげしげとその家を見上げる。
『……』
 いかん。何とかしてくれそうな気がするし、どうにもならない気もする。さっぱり予想がつかない。……ここはパスだ。
 と、次に行こうと決めたところで、ひょいと掴み上げられた。お? 誰かと思ったら、居内さんだった。家の中にいるのだとばかり思っていたら、外に出かけていたのか。
 彼女は僕を目線の高さまで持ち上げた。
「……」
『……』
 表情に欠けた目が僕を見つめる。
「ぶい……、ぶい……」
 何で飼う気でさっそく名前を考えているんだ。
 そのとき、ふいに居内さんが何か閃きでも降りてきたかのようにして、急に僕をいろんな角度から観察しはじめた。……持ち上げて下から見るのはやめなさい。
 そうしてから、
「……なっちん?」
 なぜわかる!?
 僕は首をぶんぶん振って否定した。頭がもげそうだ。ここだけ猛烈に反応したら、よけい怪しい気もするが。
「……飼う」
 ちょっと待てええいっ! 何が決め手になった!? 薄々僕だと勘づきつつ飼う気じゃないだろうなっ。
 さすがにこれは不味い。
 僕は居内さんの手を振りほどき、逃げ出した。
 
 思えば遠くへきたもんだ。
 辺りは閑静な住宅街だった。和風、洋風、様々。一軒一軒の敷地面積も大きく、広い庭付き一戸建てばかり。ここはたぶん僕の家からふた駅隣の、高級住宅地だな。
 この辺りを歩くときは、いつも思う。中はどんなふうだろう、と。豪華なお屋敷の外観はある程度窺えるのだけど、庭までは見えない。きっと立派なのだろうな。
 幸い今の僕は猫だ。勝手に入って、その好奇心を存分に満たすことができる。
 と、安易に踏み込んだのが間違いだった。
 敷地の中に入った途端、僕の体の中で警報が鳴り出した。獣としての第六感だろうか。こんな大きなお屋敷なのだ、不審者対策にセキュリティがあって、実際にそれが作動したのかもしれない。
 そこに人が駆けてくる足音。
 そして、
「勝負よ、千秋那智!」
 お前の家だったのか!?
 飛んできたのは、お嬢様ルックの姫崎さんだった。
「って、あら? 千秋那智がきたと思ったのに、ただの猫ですの?」
『……』
 いったい僕は何に引っかかったのだろうな。
 ややこしくならないうちに、この猫屋敷から出て行くことにしよう。
 
 次に僕がきたのは、やはり同じ住宅地にある純日本風の屋敷―― 一夜の家だった。
 塀の上にちょんと座り、広大な敷地を眺める。
 庭にはドッジボールくらいならできそうな場所があったり、踏んだら怒られそうな芸術的な日本庭園みたいな場所があったり。家屋は平屋建て。一夜の部屋である離れとは渡り廊下でつながっている。
 さて、じゃあ、行ってみようか。僕は塀からにゅるんと降りた。
 とりあえず離れを目指す。一夜はいるだろうか。庭を横切っているが、今のところ特にセキュリティの類が作動するような様子はなし。
 と思ったら、何やら視線を感じる。
 見つかった!? いや、でも猫だから大丈夫だろう。にしても、妙に身の危険を感じる視線だ。僕はおそるおそる振り返る。
 と、そこに土佐犬が――いた。
 ……。
 ……。
 ……。
 はい?
 すでに何人か殺ってそうな感じの土佐犬。人間の姿でも会うのはかなり遠慮したい。そんなのがこちらを見ている。ちょっと待て。一夜ってこんなの飼っていたのか!? 聞いてないぞ。
「ばう?」
 ひいぃ、ロックオンされたっ。
 直後はじまる駆けっこ。ほぼ同時に土佐犬と僕は走り出し、僕はすぐ近くにあった木に駆け上がった。爪を立てて一気に登る。なんとか追いつかれる前に、土佐犬の手の届かない高さまで逃げることができた。ひぃひぃ。死ぬかと思った。どうせ地名を冠するなら秋田犬にしろよ。
 枝にしがみつきながら、下を見てみる。
「ばう、ばうっ」
 木の幹に前足をかけた体勢で吠え立てている。掴まったら確実に八つ裂きにされるな。
 さて、これからどうしよう?
「こら、スサノオ」
 思案していたら、声。
 母屋のほうから歩いてきたのは、和服に身を包んだ、日本人形みたいな女の人。―― 一夜のお姉さん。あの人だ。
 土佐犬(スサノオという名前らしい)はひとまず吠えるのをやめた。
「姉さん、どうかしたんですか?」
 続けて一夜も出てきた。
「ええ、どうやら猫が入ってきて、それをスサノオが見つけたみたいなの」
「なるほど」
「スサノオ、こっちにきなさい」
 一夜のお姉さんが呼ぶと、スサノオはおとなしくそちらに戻っていった。
「預かるときに聞いていたけど、本当だったのね。猫が好きだって」
「そのようですね」
 この土佐犬、猫が好きだから追いかけてきていたのか。こっちは殺されるかと思ったぞ。どう考えても、好物とかそういう意味での『好き』だろう。
「私はスサノオを向こうにつれて行きますので、一夜さんはその猫をお願いね」
「わかりました」
 お姉さん、荒ぶる土佐犬スサノオ君をつれて撤退。一夜は枝に引っかかっている僕に首の後ろを掴むと、ひょいと持ち上げた。そのままプライベート用の眼鏡の薄いブルーのレンズ越しに僕を見る。
「……あいつに似とんな」
 どいつ? もしかして僕か?
「いや、あいつはどっちかというと犬か」
 そう言うと一夜はかすかに笑った。珍しい。
 僕ってそんなに犬なんだろうか。
 それから、一夜は猫である僕を胸に抱いた。意外にも危なげのない抱き方で、こちらとしてもなかなかに悪くはなかった。一夜はおそらく猫を飼ったことがないはずだ。それでもこういう丁寧な使いができるのは、一夜が優しい人間だからだろう。普段からクールで人間関係もあまり評判がいいとは言えないけど、僕はそう信じている。
「飼うてやりたいのはやまやまやけど、うちのもんがうるさいしな」
 一夜は大きな門から家の敷地を一歩出ると、僕をそっと下した。
 まぁ、僕もそんなつもりできたわけじゃないしな。ここには僕がもとに戻るための手がかりはないようだ。
 よし、次に行こう。
 
「あらあら、かわいい猫さんですねぇ」
 張り切って駅の付近を、にゃっほにゃっほ歩いていると、少々間延びした声が聞こえた。顔を上げれば、そこには五十嵐優子先輩――通称ゆこりん先輩がいた。フリルのついたピンクのロングスカートに、赤いジャンパー姿。
 先輩は僕の正面で腰を落としてしゃがんだ。
「猫さんは迷子さんなんですか?」
 そして、まだ喉をさすられる。むぅ、先輩のほんわかした声と合わさって、気持ちよくて寝てしまいそうだ。
 するとゆこりん先輩は、今度は両手で僕の前足をそれぞれ掴み、揺らしはじめた。
「あーあ、悲しいね〜。悲しいね〜♪」
『……』
 なぜに踊らないといけませんか。しかも、林檎殺人事件かよ。こんなことしている場合じゃないんですって。僕はその手を振り解いた。
「きゃっ」
 途端、バランスを崩して尻もちをつくゆこりん先輩。
 で、
 目線の低い猫の僕の目に映ったものはというと――スカートの奥の白い下着に、やはり白いストッキングと……えっと、日本語で言うところの靴下吊り? ……ぶふっ。
 先輩は慌ててスカートを押さえて、いわゆる女の子座りになった。
「み、見ました……?」
『……』
「……」
 猫と人間の間に発生する奇妙な沈黙。
 そして、
「そんなえっちな猫さんには……えいっ」
 拳で、こつん、と狭い額を叩かれた。
『……』
 い、いかん。おそろしく和む。
 ここにいてはダメだ。ダメになる。不思議時空に引きずり込まれる。早くここから立ち去らねば。次だ、次に行こう。
 僕は踵を返した。
「猫さん、また会いましょうね」
 ゆこりん先輩が見送ってくれる。いえ、少なくともこの姿ではもう会いたくありません。
 
 次に辿り着いたのは、司先輩の家だった。
 先輩の家の正面には、通りをはさんで円先輩の家があり、ふたりの先輩はたまたま顔を合わせたのか、立ち話をしていた。円先輩は、黒のデニムにブルゾンという男前なスタイルだ。
「ん? 猫?」
「あら、この子、那智くんの家で会った子かしら?」
「なに、アンタ、そんなところから遥々やってきたわけ?」
 円先輩は僕をつまみ上げた。
「こいつ、どことなくなっちに似てない?」
 そうしてから居内さんがしたように、目線の高さまで持ち上げて、睨めっこ。
「そう? 那智くんは犬じゃないかしら?」
「そりゃ同感」
 笑いながらそう言い、円先輩は僕を胸の前に抱き直した。一夜とは違う意味で座りがいいな。
「む。ちょっと体が冷たいわね」
 そうかな? 今年は暖冬だし、今日は陽が照っているし。それに自前の毛皮が意外に防寒に優れているので、あまりそんなふうには感じなかったな。
「おっし。こいつを猫なっちと名づけて、アタシが風呂に入れちゃる」
『ぶっ』
 僕は慌てて円先輩の腕から抜け出した。
 ところが、アスファルトの上に着地した途端、今度は司先輩に拾い上げられてしまった。
「いくら猫でも那智くんの名前をつけて、そんなことしないでもらえる?」
 そうだそうだ。
「この子はわたしがお風呂に入れます」
『ぎゃあ!』
 それも違う!
 しかし、逃げ出そうにも司先輩は僕をがっしり掴んで離さず、それも叶わなかった。
「じゃあね、円」
「あいよ。くれぐれもバスタブの中に落とすんじゃないわよ」
「わかってるわよ」
 そうしてふたりはそれぞれの家に戻っていく。
 僕は司先輩に抱かれて先輩の家へ。そのまま一直線に脱衣場につれてこられた。
「はい、到着」
 僕は下ろされた瞬間、すぐにドアノブに飛びついた。この姿になって体得したドア開けの技を……と思ったら、さっぱり回らない。鍵をかけられたらしい。
「ちょっと待ててね。わたしも脱ぐから」
『ひぃ! あ、開けてくれーっ』
 僕は背中で衣擦れの音を聞きながら、ドアをカリカリする。
「こら。そんなところ引っ掻いたらダメでしょ」
 あ、すみません。じゃあ、爪は立てません。てしてしてし、にゃーにゃーにゃー。
「はい、お待たせ。さぁ、入りましょうね」
『……』
 えっと、それは準備完了ってこと? も、もうダメだ……。僕は目をつむってうずくまった。
 しかし、先輩はおかまいなしに僕を抱え上げ、胸に抱いた。
 胸?
 てことは?
 ……。
 ……。
 ……。
 これはもう絶対に目は開けられないな。
 そうして浴室のドアが開く音。
 僕はこれから司先輩と一緒にお風呂に……って、やっぱりそんなのダメだ! は、離してくれっ!
「あ、こら。そんなに暴れたら……きゃ」
『ぇ?』
 ドボォン!
 次の瞬間、僕はバスタブの中に真っ逆さま。
 水泡だらけの視界。
 体はどこまでも沈んでいくような気がして……。
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 ……。
「うわあああぁぁぁ!!!」
 そして、ようやく僕は目が覚めた。布団を跳ねのけながら、絶叫とともに起きる。
「夢か……」
 しかも、よりによって正月2日になんちゅー夢を。
 ひどい初夢だ。
 僕は気を取り直して、うーん、と体を伸ばしてから、ベッドを飛び降りた。華麗に4本の足で着地する。
 ……。
 ……。
 ……。
 え?
 
 
2010年1月5日公開
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。