2月14日。
 朝。
「最悪やな」
 駅のホームで遠矢一夜はつぶやいた。
 現在の時刻は、一夜がいつも登校している時間よりも約1時間遅い。朝から3人の姉のうち2人に捕まり、時間を取られたせいでここまでずれ込んだのだ。しかし、それでもまだ学校には充分間に合う時間なのだから、一夜が普段いかに早く家を出ているかがわかる。
 一夜がホームに上がったときに丁度出ていった電車は、見るからに混んでいた。おそらく次にくるのもさほど変わらないだろう。いつも乗っている電車はガラガラなのに。1時間の差でここまで違うとは。――これが先ほど一夜がぼやいた理由だ。
 一夜はホームに立ち、本を読みながら電車を待った。
 寒い。ただでさえ2月という最も寒い時期なのに、加えてこの駅のホームは高い位置にあるのだ。防風のための壁もあるにはあるが、あまり役に立っているとは言い難い。
 程なく次の電車の到着を告げるアナウンスが流れた。それを合図に一夜は文庫本をブレザーの内ポケットにしまい、電車を待った。
 車両がホームに滑り込んでくる。加速度をマイナスにし、速度ゼロへの漸近。そして、停止。一夜の目の前には電車の乗車口があった。
「最悪やな」
 一夜はもう一度その言葉を口にした。
 まだ開いていないドアの向こうに四方堂円の姿があったのだ。彼女も一夜を認め、「お」の発音に口を動かした。
 ドアが開く。
 と、同時に一夜は体の向きを変えた。別の乗降口へ移ろう。できれば隣の車両へ。可能な限り遠くへ。
 が、しかし――、
「ちょい待ち」
 一歩と進むことなくその腕を円が掴んだ。そのままズルズルと一夜を車内に引きずり込み、
 そして、ドアは閉まった。
 
 
Simple Life
  02’ ショコラ Ver.2008a
 
 
 100%を優に越える乗車率の車内で、遠矢一夜と四方堂円は向かい合って立っていた。
「逃げるとは失礼なやつね」
「別に。混んでたから隣にいこうと思ただけや」
 一夜は不機嫌全開な精神状態を隠そうともしない。
「ま、確かに混んでるわね」
 円は居心地の悪そうな顔で同意した。
 ふたりの距離は通常ではありえないほど近かった。この特異な空間ならではの現象といえるだろう。
 かすかな香水の香りが一夜の鼻をくすぐった。一夜はそれがどこからくるものなのか、努めて考えないようにした。自分の気を逸らす意味でも本を読もうと思ったが、この狭い空間ではそれも叶いそうにない。かと言って、目の前にいるふたつ上の先輩と話すような話題も持ち合わせていない。
 と、そこで円が自分の顔を見ているのに気がついた。
「俺の顔になんかついてますか?」
「いや、ついてないけど。ちょっと遠矢っちの顔見て、いろいろ考えてた」
「……そうか」
 一夜は短く答えただけだった。もとより人の行動に干渉しない主義で、それが思考となれば尚更だ。
 そのとき、電車が揺れた。
「おっと……」
 ドアにもたれるようにして立っていた一夜にはたいして影響はなかったが、円の体が大きく振られた。
 円が一夜にしがみつく。
「悪い、遠矢っち」
「……別にかまわん」
 一夜は普段通りの口調で応えた。
「けど、いつまでそうしてるつもりや」
「いやぁ……」
 答える円は、相変わらず体を密着させたままだった。一夜の体に女性特有の柔らかさを持った肢体が押しつけられている。体表面の距離はゼロ。境界線は限りなく曖昧。
「こういうの、遠矢っちはどうかなと思ってさ」
「何がどうやねん」
「どうよ?」
 一夜の疑問は無視して、円は質問を重ねた。
「……別に。どうもせんけど」
「……」
「……」
「……あ、そ」
 円はつまらなさそうに言って、ようやく体を離した。
「しっかし、アタシってそんなに魅力ないかな? 女として自信なくすわよ」
「……そうは思わんけどな」
 ぽつりと一夜がひと言。
 円が一夜を見た。しかし、その直前、一夜が顔を逸らしたので、その視線が絡むことはなかった。
「……」
「……」
 そして、微妙な空気の中で押し黙るふたり。
 やがて――、
「あー……」
 と、円がタイミングを計るように発音し、
「そ、そだったんだー」
 どこか乾いた照れ笑いがもれた。
 一夜はそれに対して特に何も答えなかった。円が「何か言いなさいよっ」とばかりに半眼で睨んできたが、それも無視を決め込んだ。
 丁度そこで電車は次の駅に到着した。ドアが開き、少量の乗客を吐き出し、それ以上の量の人間を飲み込む。人が乗ってきた勢いが波となって伝播し、円まで到達して、その背中を押した。再び円が一夜にしがみつく構造になった。
「ご、ごめん、遠矢っち。すぐに離れるからっ」
 円は先ほどとは違い、赤い顔であたふたした。が、人口密度が増したせいで、なかなか距離をあけることができない。
「少し待っとき」
 対する一夜は冷静だった。
 ドアが閉まり、直後、乗客がそれぞれ適正な立ち位置を確保しようとする運動に合わせて、一夜は自分と円のポジションを入れ替えた。円がドアを背にして立ち、それに対して一夜が壁になる。ふたりの体が再び離れた。
「ごめん、遠矢っち」
「またやられてもかなわんしな」
 一夜は、何がかなわないかについては、あえて言及しなかった。
「あ、そうだ」
 確保された小さな空間の中で、円がごそごそと自分の鞄を漁りはじめる。
「こんなとこでなに出すつもりや」
「まーまー」
 と、ひとまず一夜の抗議を聞き流す円。そうして鞄から取り出したのは、赤い綺麗なラッピングが施された小さな直方体だった。
「チョコ。今日、バレンタインでしょ。遠矢っちにあげるよ」
 円はそれで、こつん、と一夜の胸を叩いた。一夜は突きつけられたそれを黙って見下ろし、しばし考えた。
 そして――、
「ありがたくもろとくわ」
「ん。そうしなさい」
 一夜は、満足げに頷く円の手からバレンタインチョコを受け取った。ここでは鞄にしまうことはできそうにないので、今は手に持っておくことにした。
「言っとくけど、けっこう本命よ」
「けっこう?」
 一夜は問い返した。
「実はなっちの分も用意してんのよ。それに比べたら本命に近いかなってね」
「なんや、あいつの分もあるんか」
「嫌?」
「……別に」
 憮然とした返事。
 イメージは天秤だった。片方には千秋那智。おそらく自分よりも大事にしなくてはいけない友人だ。もう片方には――何が乗っているのかよくわからなかった。たぶん自分の中にある何かだ。未知のものが乗っている以上、その天秤がどちらに傾くかなどわかるはずもない。
「しようがないやつ」
 円が笑った。
「いいわ。なっちには渡さないでおく」
「……俺はなんも言うてへんけどな」
 一夜は不機嫌そうに言い、そっぽを向くようにして窓の外に目をやった。風景が高速で流れていく。どうでもいい景色ばかりだった。それよりも気になるのは円が自分を見ていることだ。もう笑っていない。どちらかというと真剣な表情に見える。
「俺の顔になんかついてますか、四方堂先パイ」
 それは少し前にも口にした問いだ。
「みんな遠矢っちのこと格好いいって言うけどさ、アタシ、そう思ったことないのよね」
「……人それぞれやからな」
 どう思おうが人の勝手だ、という意味だ。
「アタシ、遠矢っちってかわいいって思うのよ」
「……」
「……」
「……人それぞれとちゃうか」
 どうでもよさそうに一夜は言った。
 そのとき、次の駅への到着を告げるアナウンスが流れた。降りるのはさらにもうひと駅先である。
 もうひと駅。
 その距離はきっといつもより長く感じるに違いないと一夜は思った。
 
 
2008年2月10日公開
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