2月14日。
 朝。
「最悪だな」
 僕は電車に揺られながらつぶやいた。
 現在の時刻は、僕がいつも登校している時間よりも約30分遅い。少々寝坊してしまったせいでここまでずれ込んでしまったのだ。それでもまだ学校に間に合う時間ではある。
 しかし、電車はこの時間帯が最も利用客が多いらしい。僕は今、混み合う車内で押し合いへし合いしながらドア付近に立っていた。こういうフィジカルな当たりが苦手だから、いつも早く家を出ているというのに。――この現状が先ほど僕がぼやいた理由だ。
 もう少しの辛抱だと自分に言い聞かせ、耐える。
 暑い。2月なら寒いはずなのだけど、電車に慌てて駆け込んだ上に、この人口密度だ。普段はありがたい暖房も今は新手の拷問のようだ。
 程なく次の駅に着くというアナウンスが流れた。
 電車が減速をはじめる。外を流れる景色も速度を落とした。体には慣性による横向きの力。やがて電車はホームに進入し、止まった。
「……」
 さて、今の心境をどう表現したものか。
 というのも、まだ開いていないドアの向こうに司先輩の姿があったのだ。先輩も僕を認めて少し驚いた顔をした後、いたずらっぽい笑みを浮かべた。新しいいたずらを思いついた。そんな顔。
 ドアが開く。
 と、同時に僕は逃げ出したい衝動に駆られた。なぜ逃げる必要があるのか。わからない。でも、本能が逃げろと告げている。
 が、しかし――、
「おはよう、那智くん」
 もとより逃げる場所などあるはずもない。一歩と動けず僕は、乗り込んできた司先輩に真正面から組みつかれた。
 そして、ドアは閉まった。
 
 
Simple Life
  02’ ショコラ Ver.2008b
 
 
 100%を優に越える乗車率の車内で、司先輩と僕は向かい合って立っていた。いや、向かい合うっていうかさ……
「那智くん、わたしを見て逃げようとしなかった?」
「い、いえ、まさか。だいたい逃げるところなんてないし」
 逃げる場所があったら逃げていたかもしれないけど。
「そうね。とても混んでるわね」
 しかし、言葉のわりには司先輩は嬉しそうだった。
 僕たちの距離は通常ではありえないほど近かった。鼻と鼻が触れ合いそうな距離。境界線を曖昧にしてしまうほどくっついた体。電車という特異空間でも、これはおかしい。
 新雪を思わせる香りが鼻をくすぐる。
「せ、先輩、ちょっと近くないですか?」
「そう? でも、仕方ないわ。混んでいるんだから」
「……」
 いや、でも、だからってこれはおかしすぎるだろ。司先輩は僕の腰に手を回して、がっちりホールドしていた。満員電車というよりは、むしろいちゃついているバカップル。
 しかし、今の司先輩は無敵だった。満員電車という強大無比の大義を振りかざし、襲ってくる。……比喩じゃなくて本当に襲われそうな勢いだ。
「え、えっとですね。そろそろ放してくれませんかね……?」
 僕はおそるおそる尋ねた。
「那智くんは放して欲しい?」
「……」
 ……これほど恐ろしい質問もないよな。返答に詰まってしまう。
「い、いちおうここは公共の交通機関であるところの電車の中でして……も、もう少し人目を気にした方がいいんじゃないかなぁと……」
「……」
「……」
「そうね。那智くんの言うことももっともだわ」
 ひとまず納得した様子の司先輩に、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「ここじゃたいしたこともできそうにないものね」
「……」
 ぁにをするつもりだったんでぃすかー?
 そんな怖い冗談は兎も角。
 僕の腰に回されていた司先輩の手がようやく外れた。
 で――、
 ……。
 ……。
 ……。
「どうしたの、那智くん?」
 解放されたはいいが、まったく離れようとしない僕に、司先輩は問いかける。
「そ、それが……動けないんです……」
「ぇ……」
 司先輩が小さく声を上げた。
 はい。離れたくても離れられないんです。
 このフレーズだけを聞くと、人間関係を文学的に表現したようにも聞こえるけど、実際は物理的な問題だ。司先輩と僕がぴったりくっついた状態で、車内にいる人間の立ち位置が最適化されたらしい。動けるだけの余裕がなかった。
「ど、どうしましょう、先輩……」
「え、ええ、そうね……」
 司先輩は、先ほどとは一転して自信なさげに発音した。自らの意志でくっついているのと、それを外部から強制されるのでは、先輩内部では何か決定的な差があるらしい。
 僕らはお互いの吐息が感じられそうな距離にあった。
 満員電車というのは不思議なもので、通常では考えられないような距離を他者と共有させられる。しかも、それが赤の他人にも拘らず許容できてしまうのだ。だけど、これが自分のよく知る人物だと逆に気まずさを感じてしまうという。――僕らの現状がそれだ。
 僕は司先輩の顔を見るのが気恥ずかしく、視線を落ち着きなく辺りに彷徨わせていた。先輩も同じようだ。そのくせたまに先輩の様子が気になってそちらを見てみたら、先輩も同じタイミングで僕を見ていたりするのだ。
「ぁ……」
「ぅ……」
 僕らは小さくうめいてから、また慌てて目を逸らした。
 そんなことを何度か繰り返していると、やがて電車は次の駅に着いた。ドアが開き、人が動くのに合わせて、僕も司先輩から離れた。ようやく人心地ついた。
 ドアにもたれるようにして司先輩が立ち、僕はその先輩が窮屈な思いをしないように壁になった。
 電車が再び走り出した。
「せ、せっかくだから那智くんにいたずらしておけばよかったなぁ、なんて……」
「ま、またそんなことを……」
 どこかぎこちない会話。
 たぶんそれはさっきまでの気まずい思いをリセットするための冗談だったのだろう。でも、お互いに乾いた笑いを漏らすだけの結果にしかならなかった。だいたいけっこう洒落になっていないし。
「ね、ねぇ、那智くん?」
 と、再び司先輩。
「何か欲しいものある?」
「は? 何ですか、いきなり」
 唐突、且つ、曖昧な質問に、僕は目を点にする。
「えっと、あのね、那智くん、何か欲しいものあるかなって」
「……」
 言葉が変わっただけで、言っていることはさっきと同じだ。そして、言わんとしているところは、相変わらずわからない。
「そ、その……甘いもの、とか……」
 ここでようやくピンときた。
「先輩?」
「え? な、なに?」
 司先輩は怯えるように体を一度震わせた後、目を泳がせた、
「変なことを聞くようですが――」
 と、僕は前置きした。
 というか、変なことを聞いているのは先輩の方なのだけど。
「バレンタイン、ですか……?」
 瞬間、ぴたり、と先輩が動きを止めた
「……」
「……」
 そして、やや長めの沈黙の後、司先輩はため息を吐いた。なんか反省と呆れが入り混じったような、複雑で深いため息だった。
「実はね、わたし、今まで誰かにチョコをあげたことなんてなかったの」
「ええっ!?」
「そんなに意外?」
 先輩は少し睨むようにして僕を見た。
「い、いえ……」
 どうだろ。確かにそういう場面は想像できないな。したくないってのもあるけど。
「だから、どんなふうにあげたらいいのかわからなくて……。それにわたしたち、つき合ってるわけでしょう? それでもあげるのかなって」
 なるほど。それで先輩は探り探りやっていたわけだな。
「僕はチョコをあげる女の子の気持ちはわかりませんが、まぁ、特に何かを意識する必要はないんじゃなかな、と。それでも気にするっていうのなら……じゃあ、僕にチョコをください。甘いもの好きですから」
 僕がそう言うと、司先輩は晴れやかな笑顔を浮かべた。
「ええ、わかったわ。じゃあ、降りたらあげるわね」
「ありがたく頂きます」
「あぁ、初めてチョコをあげる男の子が那智くんだなんて、すごく幸せだわ」
 それは光栄だな。
 しかし、次に発した先輩の言葉が僕を凍りつかせた。
「そうだわ。学校に着いたら香椎君にも渡さないと」
「……か、香椎先輩のもあるんですか?」
「ええ」
 先輩は当然だと言わんばかりに、はっきりと頷いた。
「昨日、このチョコを作るのにちょっとしたコツを教えてもらったの。そのお礼ね」
「あ、なるほど……」
 果たして僕は今、どんな顔をしていたのだろう。
 香椎先輩にあげるチョコ。
 それはいわゆる義理チョコですらなく、バレンタインに関係しながらもバレンタインチョコではないと先輩が説明してくれた。そして、僕も成る程と納得した。にも拘らず、何らかの感情が顔に出てしまっていたらしい。
 司先輩が僕に問う。
「嫌?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
 本当のことなど子どもっぽくて言えるはずもない。
 しかし、先輩はそんな僕を見てくすくすと笑った。
「わかったわ。香椎君には別の日に別のものでお礼をすることにするわ」
 そこで一度言葉を切り、そして、一拍おいてから続けた。
「でも、ひとつだけ条件」
「条件?」
「ええ。……わたしも那智くんが他の誰かからチョコを貰うのは嫌。わたしの初めてのチョコが他の子のチョコと一緒にされるのが嫌なの。だから、条件。那智くんもわたし以外の女の子からチョコをもらわないで。義理でも勿論ダメ」
「……」
「わかった?」
 先輩は顔をぐっと近づけて確認してくる。
「あ、はい。わかりました」
 僕はその勢いに圧されて、思わず返事をしてしまった。
 司先輩は満足げににっこりと微笑んだ。
「バレンタイン・ディって昔から自分には関係ないと思っていたけど、こんなに素敵な日だったのね」
 先輩は改めて僕を見て、楽しげな笑みを浮かべる。
「那智くんにヤキモチも焼かせちゃったし」
「うあ゛……」
 いや、でも、それを言ったら先輩だって同じなんじゃないかなぁって……思ったんだけど、まぁ、いいか。黙っておこう。
 そのとき、また車内アナウンスが流れた。次の駅が近いらしい。
 僕らが降りるのはもう少し先。
 そこに着けば先輩のチョコがもらえる。
 だけど、今のこの居心地の悪さをどう乗り切るかが、当面の問題だな。
 
 
2008年2月16日公開
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