1.千秋那智の場合
 僕が2年ぶりに日本に帰ってきたのが――2月。
 司先輩は、僕の帰国と同時に大学が春休みに入ったらしく、ほぼ毎日うちに足を運んでいる。昼に遊びにきたり、夕方から夕食を作りにきたり。
 今はふたりそろって夕食の買いものに出かけて、その帰りだったりする。
「すみません、先輩。毎日いろいろと」
「ううん、気にしないで。わたしも楽しんでるから。だって、2年も離ればなれだったんですもの。那智くんがこうしてそばにいて、那智くんのために何かできることがすごく嬉しいの」
 近所のスーパーからの帰り道、司先輩はそんなことを言ってくれた。せっかくだからもうしばらく厚意に甘えておこうと思う。
「そう言えば、もうすぐバレンタインね」
「ああ、もうそんな時期でしたか」
 などと惚けてみる僕。
 実は何日か前、リビングに司先輩が読んでいたらしい雑誌が置きっぱなしになっていて、ちょうどバレンタイン特集の手作りチョコのページが開かれていたのだ。
 もしかしたら――と、少しばかり期待してしまう。
「ねぇ、那智くん。逆チョコって知ってる?」
「逆……? なんですか、それ」
「今年は男の子が女の子にチョコをあげるのが流行ってるんだって」
 待て、それは製菓会社の罠だ。
「あぁ、那智くんはいったいどんなチョコを、わたしにくれるのかしら?」
「うぇ!?」
「きっと心を込めた手作りなんだわ」
「……」
 あのさりげなく置き去られていた雑誌は、僕への無言の催促だったのか。
「それで、放っておかれた2年の歳月を埋めるように、指輪なんかが添えられていたら最高だわ」
「うわあ……」
 夢見心地で妙なことを口走ってるけど、合間に恨み言が挟まってる……。
 まぁ、指輪は兎も角。期待に応えられるよう、努力はしないといけないな。先輩をほったらかしにして、勝手にどこかに行こうとしたのは確かだし。
 
 かくして、2月14日――、
 バレンタインディ。
「すみません、無理でした」
 と、遊びにきた司先輩をリビングに招き入れ、僕が差し出したのは市販のチョコだった。
 いちおう本を片手に手作りに挑戦したのだけど、結局、大量の生チョコを無駄にした挙句、少量のチョコ爆弾を作っただけだった。
 先輩はきれいにラッピングされたそれを見て、きょとんとした顔をしていた。
「あ、本気にしたんだ、那智くん」
「はい?」
「あれ、冗談だったんだけどな……」
 先輩はばつが悪そうに、苦笑しながら斜め上を見た。
 なんじゃ、そりゃあ! 僕の努力と、チョコ爆弾で一時的に破壊された味覚の犠牲は何だったんだ。
「でも、せっかくだからもらっておくわ。那智くんの気持ちだもの」
 司先輩は、固まる僕の手からチョコを取り上げた。
「それで、指輪はどこにあるのかしら?」
「そ、それはさすがに……」
「冗談よ」
 そして、楽しそうに微笑む。
 それから、おもむろにバッグを持って立ち上がり、僕の横に座り直した。長いソファに先輩と僕が並ぶ。
「逆チョコなんて、そんなもの切羽詰った製菓会社の陰謀だわ。昔からバレンタインは、女の子が好きな男の子に気持ちを込めてチョコを贈る素敵な日って決まってるの」
 それだってもとを辿れば製菓会社が煽ったって話もあるけど。
「だから……はい。那智くんにあげるわたしからのチョコ」
 バッグからチョコが取り出され、僕に手渡された。それはおそらく先輩の手作りなのだろう。ラッピングもリボンもハンドメイド。でも、僕の目にはデパートの店員の手による洗練された包装よりも素敵に映った。
「あ、ありがとうございます」
「それからこれは、わたしのために頑張ってくれた那智くんへのご褒美よ」
 直後、僕は頬にキスをされていた。
 
 
Simple Life
  ショコラ Ver.2009
 
 
2.遠矢一夜の場合
 屋敷の離れ、
 ワンルームマンションにも似た構造の遠矢一夜の自室には、今、非常に甘い匂いが充満していた。
「……おい」
 一夜はさすがに耐えかねて、不満に満ちた声を上げた。
 原因は当然ながら、現在高校3年生、明日の大学入試に向けて勉強中の彼ではない。一夜が目を向けた先、部屋の一角にある簡易のキッチンには四方堂円がいた。
「……ぁによ」
 彼女は目下、手作りチョコと真剣勝負の真っ最中だった。
「何しとんねん」
「見ればわかるでしょ。チョコ作ってんの。今年こそはいいかげん手作りじゃないと、女としての面目が立たないでしょうが」
 実力は拮抗しているらしく、声に余裕がない。
「だからって何でわざわざここでやるねん」
「細かいこと気にしてんじゃないわよ。どうせ今まで受けた中に、ひとつくらい合格してるのがあるんでしょうが」
 円は、一夜には見向きもせず、手元と本を交互に見ながら答えた。
 確かに手応えとして合格ラインを越えたであろう試験はいくつもあった。だが、それもまだ合否通知が届いていない以上、油断はできない。
「そういう問題やないわ。そんなもん家でやればええやろ」
「失敗したらどうすんのよ。掃除と片づけが大変じゃない」
「そんな派手な失敗、人ンちでしてくれるな」
 いったいどれだけ盛大に失敗するつもりなのか。
「うるさいわね。そのときはお詫びにメイドの格好してあげるわよ」
「なんや、それ」
「持ってきてんのよ。胸と背中が大きく開いたやつ。成功でも失敗でも、アンタの好きな方を祈って待ってなさい」
 こんなときだけ円は一夜の方を向き、口の端を吊り上げて言った。
「もうええ。勝手にし」
 一夜は逃げるようにして机に向き直り、集中力を総動員して無視することに決めた。
 尚、この夜、微妙な出来のチョコを、メイドの格好で一夜に差し入れる円の姿があった。
 
 
2009年2月14日web拍手にて公開 / 2009年3月1日通常公開
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