birth
 【birth】 1.誕生 2.血統
 
 時計が午後9時を回っても仕事が片付く気配はなかった。早く帰りたいときに限ってこれだ。
 顔を上げると我らが会長様が自分の机で漫画雑誌などを読んでいらっしゃった。……マグカップぶつけたろか。
「お前もよくやるよな、ほんと」
 僕の視線に気がついたのか、蒼司もこちらを見た。
「仕方ないだろ。終わらないんだから」
 それに縁故で会長の側近なんてものをやってると風当たりも強いから、人一倍働かないといけないんだ。
「俺だったらやだね。騙されて働かされるなんて。初日で逃げる」
「……」
 そう思うんだったらやるなよな。僕を騙してここに引っ張ってきたのはお前だろうが。
 蒼司のタワゴトにいちいちつき合っていたら仕事が進まないので、無視することにする。
 すると――、
「ん?」
 と、蒼司が何かを思い出したような声を上げた。そして、ポケットから手帳を取り出し、ページをめくり出す。……おいおい。何か忘れてたとか言って、いきなり仕事を増やすんじゃないだろうな。前科が腐るほどあるだけに、嫌な予感が拭えない。勘弁してくれよ、こんな日に。
「おい、お前さ、子どもいつだっけ? そろそろ生まれるんじゃなかったか?」
「……今日だよ」
 僕は仕事の手を休めず、短く答えた。
 昼間、「順調にいけば今日の夜にょー」と病院にいる“白衣の悪魔”から連絡があったから、今日生まれるのはまず間違いないだろう。
「だったら、こんなところで油売ってんじゃねぇよ。とっとと帰れ」
「わかってるよ。だから急いでやってるんだろうが。邪魔すんなよ」
「それが油売ってるっつってんだよ。バカ」
 蒼司の口調が、口は悪いが軽さの抜けたものに変わっていく。嫌な展開だな。
「そんな仕事、俺が真剣になりゃすぐにすむんだから、お前は早く病院に行ってやれ」
 ……やれよ、最初から。真剣に。
「そういうのを公私混同って言うの。仕事ほっぽり出して行けるわけないだろ」
「あ? 公に私が侵食されてるお前が言うかよ。それも立派な公私混同だろうが」
 蒼司は呆れたように言った。
「俺はな、お前みたいなやつが嫌いなんだよ」
「なんだとっ」
「親父を思い出す」
 睨む僕にかまわず、蒼司は続ける。
「親父もな、仕事人間だった。それだけなら別に『こっちの知ったこっちゃない』ですむんだが、それを人にまで押しつけるやつでな。おかげで俺は奈津が生まれる瞬間に立ち会えなかった」
「……」
「お前のときに至っては、生まれたことすら知らなかった。どうよ、この最低の父親っぷりは」
 と、自嘲する。
「子どもが生まれるときにはちゃんとそこにいてやるモンだ」
「……」
 この手の言い合いは、基本的にいつも僕に勝ち目がない。それでも何か言い返さないと気がすまない。僕もけっこう天邪鬼だな。
「子どもはひとりだけとは限らないからね。次の子が生まれるときには、何とかして駆けつけるようにするよ」
「どんな子どもも生まれる瞬間は一度きりだ。今日生まれる子には今日しかない」
「……」
 わかってるさ、そんなことは。
「ヤることヤって、後は人任せって男としてどうよ?」
「うるせーよっ」
 その言い方こそどうよ、人として。
「兎に角、早く行け」
「それは命令か?」
「おう。会長としての命令だ。背いたらクビな。うわ、子どもが生まれるのに無職? 恥ずかしいやつ」
 ぷぷ、とか言って笑う蒼司。いっぺんどついたろか。
「わかったよっ。行けばいいんんだろ、行けばっ」
「ったく。最初から素直にそうしろよな」
 蒼司は苦笑しながらそう言うと、机上の電話を取った。
「あ、私です。タクシーを一台、呼んでおいて貰えませんか? 湖城総合病院です。はい、よろしくお願いします」
 蒼司の好青年モードな声を聞きながら、僕は荷物をまとめる。
「ほら、とっとと行けよ」
「悪い」
「タク代くらいは自分で出せよ」
「わかってる」
 そうして僕は執務室を出た。ドアを閉める前、蒼司がひらひらと手を振っていた。
 省エネのため明かりが最小限に落とされた廊下を歩く。このまま行くのはどうも癪だな。僕は一旦引き返し、執務室のドアを再び開けた。
「どうした、忘れものか?」
「蒼司、僕に子どもができたら、お前、おじいちゃんだな」
「……」
 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。これでよし。僕は再びドアを閉めた。
 廊下を歩いていると、しばらくして「あ゛ーっ」という悲鳴が聞こえてきた。さて、病院に急ごうか。
 
 
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