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 翌日――、
 わたしは聖嶺学園の前に来ていた。
 卒業してもう二年が経つけど、ここにはあまり足を運んでいない。
 ここには三年分の思い出があるけど、思い出すのは那智くんのことばかりで、それが辛
くて機会があっても避けていた。それほどにわたしにとって那智くんは大きかった。
 しかし、今日、わたしはここに来た。
 手には一枚のメモ。
 それは、昨日、那智くんと別れ際の握手を交わしたときに密かに握らされたものだった。
わたしはこのメモを、今この瞬間ここに立つまでに、何度となく見返した。
 そこには、
 ――明日 11時 聖嶺前――
 とだけ書かれていた。
 もうすぐその十一時だ。いったい何があるというのだろう。
 聖嶺学園は駅から歩いて行ける距離にあるが、それほど街中というわけではなく、どち
らかというと周りは普通の住宅の方が多い。すぐ前には片側二車線の道路が通っているが、
あまり交通量は多くない。今のような中途半端な時間なら尚更で、時折、思い出したよう
に車が走り抜けていく。
 静かだ。
 そういえば、円の話では昨日が聖嶺の卒業式だったらしい。なら、今は生徒の数も単純
に三分の二になっているということか。だからというわけではないだろうけど、学校の方
も静まり返っている。授業中だからだろう。
 ところが――、
 その静寂を破って一台の車が爆走してきた。そして、それは耳を塞ぎたくなるようなブ
レーキ音を鳴らして、わたしの目の前で急停止した。
 それを運転していて、すでに開いていた窓から顔を覗かせたのは、誰あろう那智くんだっ
た。
「司先輩、乗って! 早く!」
 那智くんは助手席に身を乗り出しながら叫んだ。
「えっ? ええっ!?」
「いいから、早くっ!」
 状況がわからずうろたえるわたしに、那智くんが再び叫ぶ。
 兎に角、今は言われた通りに乗るしかない。わたしが乗り込むと、ドアが閉まるか閉まら
ないかのうちに車は発進した。
「ど、どうしたの……?」
 いったい何がどうなって、何が起きているのだろう?
「逃げてきました」
 ハンドルを握りながら那智くんは言った。
 それに対してわたしは 「は?」 と応えたらしい。どこか遠くで自分の声がした。
「昨日、ひとつ試してみたんです」
 那智くんは白状するように語る。
「もしあの限られた短い時間で先輩と会えたら、僕はやっぱり先輩から離れられない人間
なんだろうって。そしたら、本当に先輩と会えちゃって……」
 そこで一度言葉を切ってから、
「だから、逃げてきました」
 と、再び言った。
「………」
「な、何とか言ってくださいよぉ」
 わたしが絶句していると、那智くんは恥ずかしげに、助けを求めるように言った。
 照れたように笑う那智くん。
 あぁ、これはわたしのよく知っている那智くんだ。
 運転している横顔だけでもわかる。かつて何度も見た、ちょっとからかったときの少し
困ったような笑み。間違いない。ここにいる那智くんは本ものの那智くんだ。
「那智くん……!」
 わたしは思わず抱きついた。
「うおっ、危ねっ!」
「きゃ……」
 次の瞬間、車が大きく揺れた。那智くんがハンドルを切り誤って、隣の車線まではみ出
てしまったらしい。
「あ、危ねぇ〜。何するんですか!?」
「ご、ごめんなさい……」
 わたしは那智くんから離れ、助手席で小さくなる。
「危ないついでに、もうひとつ危ないのが後ろからついてきてるな。先輩を乗せてる間に
追いつかれたか」
「後ろ?」
 わたしは気になって後ろを振り返ってみた。
「わ……」
 見なかったらよかったと後悔した。
 後ろから一台のスクータが追い上げてきていた。乗っているのは宇佐美さんだ。ウィン
ドウ越しで聞こえないが、何やら大声で叫んでいるらしい。そして、その顔は……、物凄
い形相だ。しばらく忘れられそうもない。
「こっち六十キロは出てるんだけどなぁ」
「振り切れないの?」
「できないこともないと思う。でも、奈っちゃんがムキになった挙句に事故られたら大変
だし。確か免許持ってなかったはずだよなぁ」
 それは他人とは思えないエピソードだわ。
「あれ? そう言う那智くんは、免許は?」
 ふと気づいて那智くんに問いかける。
「この前の誕生日で十八になりました」
「ええ、そうよね。それは知ってるわ。……それで、車の免許は?」
「向こうの私有地で練習させられたんですよ。乗れるようになっとけとか言われて」
「あの、だから、免許……いえ、もういいわ」
 要するに似たもの同士、似たもの兄妹ということか。
 今更ながらさっき運転中の那智くんに抱きついたのは、あまりにも考えなしだったと思っ
た。
「仕方ない。一度止まるか」
 そう言うと那智くんは滑らかな動作でウィンカを出し、路肩に車を寄せた。
 わたしたちが車から降りると、丁度それとタイミングを同じくして宇佐美さんのスクー
タが追いついてきて、車の後ろで停車した。リアバンパーに当たってから止まったような
気がしないでもない。
「やあ、奈っちゃん」
「『やあ』じゃありません! お兄様、いったいどういうつもりですか!?」
 スクータに乗っていたときの鬼のような形相からして、たぶんそうだろうとは思ってい
たけど、やはり怒りはすでに頂点に達していたらしい。
「どういうつもりと聞かれたら、まあ、見たまんまなんだけどね」
 那智くんは同意を求めるように一度わたしの方を見た。
「見逃してくれないかな?」
「わけないでしょーがぁっ!」
「あ、やっぱし」
 予想通りの答えに苦笑する。
「今すぐにお父様に連絡します」
 宇佐美さんはぴしゃりと言い放つと、携帯電話を取り出しながら背を向けた。
「あ、お父様? 聞いてくださいよ。お兄様ったら――」
 すぐにつながったらしく、宇佐美さんは怒りを隠しきれない様子で話しはじめた。
 こちらでは那智くんがわたしに小声で囁く。
「先輩、今のうちに逃げましょうか?」
「結果は同じだと思う」
 それか素敵な三面記事と化すか、ね。
「……お兄様」
 いきなり声をかけられ振り返ると、拗ねたような膨れっ面で宇佐美さんが携帯を差し出
していた。
「お兄様にかわれって……」
「僕に?」
 那智くんはそれを受け取り、耳に持っていこうとする。
 わたしもどんな会話が交わされるのか気になるので、一緒に聞こうと顔を寄せた。途端、
那智くんが少し顔を赤くして身を仰け反らす。何だか懐かしい反応だ。
 那智くんはすぐに意図を察して耳から少し離す形で携帯を構えた。
「僕だ」
『よう、俺の息子。話は聞いたぜ』
 ……誰よ、このとっぽいお兄さん。
「そっか。でも、何を言っても無駄だぞ。僕はどこまでも逃げ――」
『おお、行け行け。お前の好きなようにやれよ』
「は?」
 今度は予想外の答えだった。
『どうせ三年で返すことになってたしな。それが一年短くなったところで、たいしてかわ
りゃしねぇよ』
「ちょっと待て。三年って何の話だよ!?」
『今まで黙ってたけどな、もともとお前は三年だけって約束で千秋の夫婦から預かってた
んだよ』
 その語り口はまるで仕掛けた悪戯の種を明かすようだった。そのわりにはどこか憎めな
い雰囲気がある。
『もしその間にお前が俺のところにずっといてもいいと思いはじめたら、そのときは改め
てお前の将来について考えるってな』
「き、聞いてないぞ、そんなこと!」
『だから、黙ってたっつってんだろーがっ。聞いてねぇガキだな』
 この口の悪さは大人としてどうなのだろう?
 しかし、次に出された言葉はこれまでとは違って、一点の曇りもなく真剣な調子だった。
『だいたいあれっぽっちの金を肩代わりしただけで手に入るほどお前は安かねぇよ』
「………」
『ま、いいとこ三年のレンタル料?』
 そう言って可笑しそうに笑った。わたしにはそれがひとつ前の台詞の照れ隠しのように
感じた。
『結局、いくら離れたところで忘れられないものは忘れられなくて、諦められないものは
諦められないんだろ? だったら、お前の好きなようにすればいいさ』
「……蒼司?」
 ようやく那智くんが口を開いた。
『あン?』
「ありがとう」
『礼を言うのは俺の方だよ。二年も親をやらせてくれてありがとうな。楽しかったぜ』
「……うん。たぶん、僕も」
『そうか』
 回線の向こうから微かに笑みが伝わってきた。
『奈津とかわってくれ』
「わかった」
 そう返事をすると、那智くんは携帯を耳から離した。
 ずいぶんとあっさりしていて、それでいいのかと心配になったけど、きっとこれっきり
というわけではないだろうし、那智くん自身もそう感じているのだろう。
「はい、奈っちゃん。返すよ」
 那智くんは携帯を宇佐美さんに差し出した。
「もしもし?」
 宇佐美さんは黙ってそれを受け取り、耳に当てた。
 やがて――、
「なんですってーっ!?」
 絶叫した。
 それきり固まってしまったので、ふたりで肩をすくめた後、もうそっとしておくことに
した。
「ということです」
 わたしも聞いていたからか、那智くんは話を思いっきり端折った。
「ええ、そのようね。でもその前に那智くんの申し開きを聞かないと気がおさまらないわ」
「えっと、その……」
 那智くんはそう言い淀んで、困ったように鼻の頭を掻いた。
 やがて――、
「すみません」
 少し項垂れて素直に謝る。
「あのときのことは、わたしは気にしてないから、那智くんも気にしないこと。いい?」
「……はい」
「もう黙って勝手にいなくならないこと」
「そ、それは事前に断ればいいってことかなぁ〜、なんて思ってみたり?」
 責められっぱなしの那智くんはどうにか誤魔化したいと思ったのだろう。苦笑いを浮か
べながらそんな冗談を口にした。
 勿論、わたしは誤魔化されたりはしない。
「そうね。ひと言言ってくれたら、わたしの方がどこまでもついていくわ」
「う、うぇ!?」
 那智くんは目を丸くした。
「そうそう。それとね、もうひとつ言い忘れていたわ……」
「ま、まだありますか……」
「ええ、当然だわ」
 だって、これを言わないことには何もはじまらないのだから。
 わたしは那智くんの手を掴んで、ぐい、と引っ張った。
 いきなりのことにバランスを崩す那智くん。
 わたしはその那智くんの頬に素早くキスをした。
 そして――、
「おかえりなさい、那智くん」
 これからすべてをはじめるためのひと言を囁いた。
 あぁ……、
 やっぱりわたしは那智くんが好きだ――
 
 
Simple Life −了−
 
2006年3月21日公開
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コメントへのお返事は、後日、日記にて。