三日ぶりに登校した。
 袋叩きに遭った翌日にようやく病院に行ってちゃんとした手当てを受け、それから丸二日
安静にしていて、今日登校というわけだ。
「どーしたの、お前、それ?」
 教室に入り懐かしい顔に会うなり友人に訊かれた。顔の腫れや傷の生々しさはだいたい消
えたが、まだいくつか傷痕があるので、その反応も当然だろう。
「ちょっとした事故だよ」
 無鉄砲にも不良の前の飛び出してフクロにされましたー。
「大丈夫なのか?」
「まあね。肋骨にヒビが入ってるから、そっちがまだちょっとね」
 さすがにこれはすぐに治らない。あまり叩いたりしないようにと頼んでおく。
「何番だ?」
「五番と六番を持っていかれた」
「判るのか!?」
「馬鹿にするなよ。それくらい判る。何せ病院でレントゲン見せてもらったからね」
「………」
「素で被害箇所が判るほど折られ慣れちゃいないよ」
 そこで会話を切り上げ、僕は自分の席へと向かった。
 
 
Simple Life
 第二話 無視?
 
 
「おはよう、一夜。久しぶり」
 机に鞄を置きながら後ろの席で文庫本を読んでいる遠矢一夜(とおや・いちや)に声をか
ける。
 一夜は端正な顔にスタイリッシュな眼鏡の似合う、同性の僕から見てもなかなかの知的美
少年だ。背が高く、雰囲気が落ち着いているせいか実際の歳より大人びて見える。そして、
何よりも一夜を語る上で欠かせないのが、いつも読んでいる文庫本だ。
「何か変わったことあった?」
「……ない」
 一夜は本から顔を上げずに言った。
 一夜はいつも文庫本を読んでいる。仲間と一緒にいるときだろうが、授業中だろうが関係
ない。起きている時間の大半を読書に費やしている筋金入りだ。それなのに話しかければ返
事が返ってくるし、先生に当てられたらしっかりと問いに答える。とんでもない奴だ。
「ああ、そう言えばひとつあったわ。……片瀬先輩が前の廊下を通り過ぎていった」
「それってすごいことなのかな?」
「そうとちゃうか? 事実、みんな騒いどった」
 形の良い口から淡々と関西弁が紡がれる。
 まあ、冷静に考えて、それは事件かも知れない。学園一の美少女、片瀬司先輩がすぐそば
を通れば街中で見かけた芸能人ほどではないにせよ、それなりに注目を浴びるだろう。
(片瀬先輩かぁ……)
 途端、顔が熱くなった。片瀬先輩と聞いて、遅まきながら三日前の接触事故のことを思い
出したのだ。
「那智、顔が赤い」
「えっ、いや、これは……」
「なんや、ホンマやったんか。ちょっと鎌かけてみただけやってんけどな」
 そう言われて一夜を見ると、相変わらず本に視線を落としたままだった。
「冷静に人をからかうなんて、嫌な奴……」
 もっと文句を言ってやるつもりだったのだが、先生が入ってきてショートホームルームが
はじまってしまい、結局、それもできずに終わった。きっと一夜はいつも通り本を読みなが
ら連絡事項を聞いていることだろう。かく言う僕は別のことを考えていて、先生の話は右の
耳から左の耳だった。
(そうか、先輩、ここ通ったんだ。昨日、無理にでも来てたらよかったな)
 
 今、僕の鞄にはハンカチが二枚入っている。
 一枚は片瀬先輩のもの。三日前、僕の傷の応急処置に使われ、先輩は「返さなくていいよ」
と言っていたが、さすがにそうもいくまい。綺麗に洗って、アイロンもかけて、返すつもり
で持ってきた。もう一枚は、お礼の意味で用意したブランドもののハンカチだ。
 これを渡そうと昼休みに三年の校舎、片瀬先輩のクラスまで行ったのだが、これまた会い
難いったらありゃしない。先輩は教室の奥の方にいるわ、いつもの如く友達に囲まれてるわ、
先輩をひと目見ようとやってきて遠巻きにこっそり見てる男子生徒はいるわ。ついには近く
にいた先輩に「何か用?」と訊かれ、それはそれでチャンスだったのに思わず「いえ、通り
かかっただけです」と答えてしまい、すごすごと帰ってきたのだ。
 そんなこんなでとうとう放課後になってしまった。
「なに拗ねとんねん」
 終礼が終わってもまだ教室に残っている僕に一夜が声をかけてきた。彼が未だ教室にいる
のは、読書をキリのいいところまで進めてから帰るのが習慣だからだ。
 椅子に横向きに座って足をバタバタさせてる僕の姿は、どこか拗ねているように見えるら
しい。
「ぶえっつにぃ〜」
「何が『別に』や。やりたいことが思い通りいかんて顔しとるわ」
「よく言うよ、人の顔なんか見てないくせに」
「そうでもない。俺かて人の顔くらい見とる」
 そう言うものだから一夜を見てみたら、いつも通りのスタイル――つまり文庫本を読んで
いた。
「せ、説得力な〜い」
 脱力して一夜の机に思わず突っ伏した。
「邪魔や」
「ああ、そうですか」
 机から額を離し、首を横に向けると教室の後ろのドアに見覚えのある姿を見つけた。片瀬
先輩だ。開け放たれたドアの前を横切っただけなのですぐに見えなくなったが、見間違える
ことはない。跳ねるようにして立ち上がると僕は前のドアへと走り、教室から飛び出した。
「きゃっ」
 悲鳴を上げられて、そこではたと気づく。僕の目には片瀬先輩しか映ってなかったけど、
先輩はクラスメイトと一緒にいたのだ。そして、悲鳴は手前にいた、片瀬先輩とは別の人の
ものだった。いきなり人がぶつかりそうな勢いで飛び出してきたら、そりゃあ驚きもする。
「ど、どうかしたの!?」
 その人は目を丸くしながら訊いてきた。
「え〜っと……」
 口ごもりながらちらりと横目で片瀬先輩を見た。
(え……?)
 思考が停止した。
 片瀬先輩は全く表情を変えずに僕を見ていた。まるでそれこそ見知らぬ生徒が飛び出して
きた程度の、何の感動も持っていないようだった。僕を見ても何の反応も見せないし、何も
言ってくれない。
「ねえ、君……?」
「あ、いえ、何でもないです。失礼しました」
 ようやくそれだけを口にして、僕は一歩下がって教室に引っ込んだ。先輩たちが通り過ぎ
ていく。あの人は一度も振り返ることはなかった。
 先輩たちが廊下を曲がって、その姿が見えなくなるまで見送ってから僕は席へと戻った。
「何をしとるんや、お前は」
 一夜が珍しく呆れたような響きを含んだ言葉で僕を迎える。読書が一段落ついたらしく、
文庫本は閉じられて机の上に置かれていた。一夜が顔を上げて真っ直ぐ僕を見ていることも
また珍しいことだ。
「さあ、ね。僕もいったい何がしたいんだか」
 いや、やりたいことは明確なんだけど、それができなかっただけだ。
「俺はてっきり玉砕イベントが間近で見られるんかと思たわ」
「まさか。僕はそこまで無鉄砲じゃないよ」
 四人の不良相手に喧嘩売る程度には無鉄砲だけど。
「そうか、そら残念や」
「なに期待してんのさ」
「何やろな。……ほら、帰んで」
 そう言うと一夜は立ち上がり、文庫本で僕の頭を一発叩いた。その文庫本はブレザーの内
ポケットにしまわれる。定位置だ。
「あ、待ってよ」
 僕も慌てて帰り支度をして一夜の後を追った。
 
 一夜とは帰る方向が同じなので、タイミングさえ合えば一緒に帰ることも多い。
 最寄りの駅から電車に乗る。足が止まると途端に本を読み出すのが一夜だ。鞄は網棚に置
き、右手でつり革、左手で本を持つ。そんな態度に腹を立てるものも多いが、気にせず話し
かけるとしっかりしたレスポンスが返ってくる。たぶん一夜は脳をパーティションで区切っ
て複数の作業を同時にできるのだろう。
 次の駅名を告げるアナウンスが流れると、一夜は文庫本をポケットに収めた。
「ほんじゃ、また明日」
 一夜は僕よりも学校に近いところに住んでいるため、ふた駅はやく降りる。電車の中で別
れの挨拶をするのが常だ。
「あ、うん。また明日」
「期待しとんで」
「まだ言うか。とっとと帰れよ」
 そうしてひとりになって電車に揺られることふた駅分。ちょっと考え事に没頭していて危
うく乗り過ごしそうになった。
 駅から自宅へ歩いてる間もひとりぶつぶつと考え込む。
(片瀬先輩、どうして……)
 繰り返し思い出すのは放課後のこと。
 なぜ先輩は僕を見ても何も言ってくれなかったのだろう。何の反応も見せなかったし、ま
るで会ったこともない赤の他人を見るような目で僕を見ていた。それともあの日の出来事自
体、夢か何かだったのだろうか。いや、手元に先輩のハンカチがある以上、それはないはず。
 なら、後は本当に接触『事故』だった可能性だけど、そうなると無視する理由がわからな
くなる。あの日、あの場所で、一度は会ってるはずなのだから。
「あーっ、もう。わけがわかりません」
 いくら考えても納得できる答えが出てこない。苛立ちまぎれに額に落ちてきていた前髪を
かき上げた。
 と、そのとき――、
「わっ」
「わあっ!」
 いきなり背後から誰かに驚かされた。完全に周りに対して無防備になっていたので、僕は
跳び上がるほど驚いた。
 そして、弾かれるように振り向いて、二度びっくり。
「か、片瀬先輩……」
 そう、そこにいたのは片瀬先輩だったのだ。だが、なぜか僕を驚かせた片瀬先輩までもが
目を丸くし、口に掌を当ててびっくりした顔をしていた。
「ご、ごめんなさい。そんなにびっくりすると思わなかったから……」
 ああ、そういうことか。
「ちょっと考え事をしていたもので……って、いや、そうじゃなくて、何で先輩がここに!?」
「うん、もちろん君を追いかけてきたんだけど……。あ、やっぱり迷惑だった?」
 そう言うと片瀬先輩は恐る恐るといった様子で、上目遣いに僕を見た。
(うわ、やっば。間近で見る先輩って洒落にならないくらい可愛い……)
 先輩に見つめられて僕は一瞬後ずさりしそうになった。ひとまずそれは踏み止まり、さり
気なく目を逸らす。
「迷惑なんてこと決してないんですけどね、学校じゃ何だか無視されたし」
「それは、ほら、周りに人がいっぱいいるでしょ? あんまり目立つとマズいかな〜って、
ね」
 まあ、それも一理あるか。片瀬先輩は何かと注目を集める人だし、下手に僕と一緒のとこ
ろを見られでもしたら、何を囁かれるかわかったものじゃない。そう考えたところで、例の
ものを渡すのは今しかないと思った。
「あ、そうだ。これ、忘れないうちに渡しておきます」
 僕は片瀬先輩に渡そうと思って持ってきたハンカチ二枚を鞄から取り出した。剥き出しの
ままっていうのも素っ気ないので、家にあったファンシーショップの巾着袋にいれておいた。
「何かしら? 開けてもいい?」
 僕が「どうぞ」と答えると、先輩はさっそく袋の口を開いた。
「あら、これ、あのときの。返さなくていいって言ったのに。でも、わざわざありがと」
 そう言って先輩が顔を上げた拍子にばっちり目が合ってしまった。
「あ……」
「う……」
 瞬間、僕たちは同時にあの日のことを思い出した。先輩は顔を赤くしてうつむき、僕は気
恥ずかしさで目を泳がせる。
「え、え〜っと……。も、もうひとつは何かな?」
 誤魔化すように言うと、次に一緒に入っていたものを取り出す。僕が用意したブランドも
のの奴だ。気取った箱に入っているが表面部が透明になっているので、それが何なのか一目
瞭然だ。
「先輩の、血で汚しちゃったし。もし良かったら使って下さい」
「気を遣わなくていいのに」
 くすりと笑う先輩。
「でも、せっかくだから使わせてもらおうかな。……あ、そうだ。怪我はもう大丈夫?」
「ええ、まあ……」
「ん、どれどれ」
 そう言うと先輩は僕の顔を覗き込んできた。傷痕を見て「わ、痛そう」とか「ここちょっ
と腫れが残ってる」とか言っているが、今の僕はそれどころじゃなかった。先輩の顔が目の
前にあるわ、甘い香りは鼻をくすぐるわ、もう頭がくらくらしてくる。
「よかった。これなら傷残らずにすみそう」
 と、先輩が嬉しそうに笑う。
「あ、よく見ると君、けっこう可愛い顔してるね」
「そ、そうですか?」
 それは男の僕としてはあまり嬉しくない。
「うん、してるしてる。そうねぇ、今ちょっと考えただけでも君に似合いそうなスタイル、
いくつか思いついちゃった。どう、今度お姉さんに任せてみない? 服選び」
「え? あ、はぁ……」
 突然の提案に頭がついていかず、僕は曖昧な返事を返す。
(つーか、お姉さんって誰でぃすかー?)
 どうもさっきから思考の焦点が合っていないみたいだ。調子が狂う。
「えっ、ホントにいいの? やったあ。じゃあ、張り切っちゃおうかな」
 にも関わらず、片瀬先輩は僕の曖昧な相づちを肯定の返事と受け取ったようだ。まあ、先
輩が喜んでるならそれでいいんだけど。
「あ、ゴメンね。ひとりではしゃいじゃってた。しかも、まだ君の名前も聞いてなかったし」
 そう言って自分の頭を拳でこつんと叩き舌を出す仕草は、先輩が年下の女の子のように見
えて可愛らしかった。
「僕は千秋那智(ちあき・なち)です」
「千秋くんかぁ」
「できれば名前の方で呼んでくれた方が嬉しいです」
 千秋の姓は名みたいで、しかも、女の子を連想させるのであまり好きじゃない。ついでに
言うとフルネームも驚くほどゴロが悪い。
「ふうん、まだ二度しか会ってない女の子に名前で呼ばせるんだ、千秋くんって」
 今度は一転して悪戯っぽい笑みを浮かべて言ってくる。
「あ、いや、そう言う意味じゃなくて。千秋って名前は……」
「いいよ。可愛い君に免じて那智くんって呼んであげる」
 うわ、何だか誤解されたままだ。
「あ、もうこんな時間。……じゃあ、またね、那智くん」
 先輩は一方的に話を収束させると、その手を僕の前髪に突っ込み、少し乱暴に頭を撫でた。
それから駅の方へ駆けるように去っていった。
(僕、もしかしてからかわれてる?)
 先輩が立ち去って道端にひとり残されると、途端にあの片瀬先輩とふたりきりで話してい
たという実感が湧いてきた。
「まいったなあ……」
 そうつぶやいて乱れた前髪をかき上げる。
 ……何が『まいった』のか自分でもよくわからないけど。
 
 
2004年12月21日公開
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