きっと僕は間の抜けた顔で、その家を見上げていたに違いない。
 日本の平均的な家庭よりもひと回りほど広い敷地に洒落た造りの綺麗な邸。それが片瀬先
輩の家だった。
「どうしたの?」
 表でいつまでも邸を見上げている僕に先輩は声をかけてくる。
「あ、いや、きれいな家だと思って」
「去年改築したばかりだから。家はお父さんがデザインしたのよ。お父さんね、ちょっとは
名の知れた建築デザイナーなの」
 そう言った先輩は心なしか誇らしげだった。
 ということは、今流行のデザイナーハウスというやつか。格好いいなあ。うちも広いけど
物は古いから、こういうのには憧れる。
 片瀬先輩が門を開けて中に入っていく。
(ここ、先輩の家なんだよな)
 そう思うと緊張する。
 まあ、家の人がいるだろうし、ふたりきりになるわけじゃないんだから、何も身がまえる
必要はないはず。
 そう自分に言い聞かせて緊張をほぐす。
「ああ、大丈夫よ、那智くん。今日は誰もいないから」
 いやいや、ぜんぜん大丈夫じゃないですから!
 
 
Simple Life
  第七話(2) 本気?
 
 
「………」
 外観通り中も綺麗だった。
 リビングとキッチン、ダイニングが遮蔽物なしでひとつの空間を形成しているので、もの
凄く広い。庭に続く大きな窓から庭が一望できるのもそう感じる理由のひとつなのだろう。
 てか、リビングに螺旋階段がある家なんて初めて見た。
「広いですね……」
 そのまんまの感想だな、僕。
「そう見えるようにしてるだけよ。実際には普通の家とさほど変わらないわ」
 子どものような感想しか出てこない僕に、先輩はくすりと笑って言った。
 そうは言うが限られた空間を最大限に利用したり、錯覚にせよ広く見せることこそデザイ
ナーの業ではなかろうか。
「適当に座ってて」
 ただただ呆けるだけの僕に先輩が言う。
 先輩はキッチンにいる。当然のことながらダイニングに食事をするためのテーブルがある
のだが、それとは別にキッチンにもカウンター席のようなものがある。また、キッチンは使
いやすいよう配置に工夫がなされていて、きっと料理をしていても楽しいだろうと思う。
「はい、どうぞ」
 先輩が出してくれたのは冷たいお茶だった。
「ごめん。わたし、先に着替えてくるから、それ飲んでゆっくりしてて」
「あ、はい。いただきます」
 そこで僕はようやくソファに座った。
 僕にお茶と出した後、先輩は軽い足取りで螺旋階段を上って二階に上がっていった。リビ
ングから見上げたところにある二階の廊下にドアがいくつかあるので、そのどれかが先輩の
部屋なのだろう。
 と――
「ぶっ……。げほっげほっ……」
 危うくお茶を吐き出しかけて咳き込んだ。
「そんなに慌てて飲まなくてもいいのに」
「す、すみません……」
 まさか何の気なしに階段を上っていく先輩を目で追っていたら見てはいけないものが目に
入りかけた、なんて言えるはずもない。
 何で女の子って制服のスカートをあんなにも短くするんだろう? いや、それが嫌とか変
とか言うのじゃなくて純粋な疑問。僕も男なので短い方が好きだけど。でも、相手が片瀬先
輩になると、何というか激しく攻撃的だ。
 リビングにひとり残され、やることがないので庭に目を向ける。敷地が広い分やはり庭も
広く、なんとバスケットボールのゴールがあった。とは言え、所詮は日本の土地。ゴールは
ひとつだけ。コートとしては半面も取れないだろう。いいところフリースローレーン、プラ
スアルファくらいで、完全に趣味の産物だ。
「お待たせ。すぐに何か作るからね」
 やがて二階から声が降ってきた。
 反射的に声の聞こえた方に目を向けかけたが思いとどまる。またスカートが短かったらマ
ズいからだ。耳で先輩が降りてきたことを確認してからようやく先輩を見る。
「………」
 基本的にベクトルは同じだった。
 肩が剥き出しのトップスにローライズのデニムパンツ。肩出しヘソ出し。制服が私服に変
わったところで、露出度が高いのはそのまんま。足か上半身かってだけの違いだ。
 つまり――
(心臓に悪いです、先輩……)
 そんな僕の精神根幹部への負荷なんて知る由もなく、先輩はリビングを抜けてキッチンへ
と向かった。
「那智くん、オムライスでいい?」
 冷蔵庫を覗き込んだまま訊いてくる。
「別に何でもいいですよ。こっちはご馳走になる身ですから、贅沢は言いません」
「そう、よかった。今あるもので作れそうなものがそれくらいしかないってこともあるんだ
けど、オムライスは、わたし、けっこう得意なのよ」
 カウンタの向こうで自信満々に言う。
「じゃあ、楽しみに待たせて頂きます」
「ええ、そうして」
 そう言うと先輩は早速作業に取りかかった。
 
 程なく料理ができあがった。
「「いただきます」」
 僕らはテーブルに向かい合わせに座り、合掌してから食べはじめた。
 片瀬先輩が作ったオムライスは本人が得意だと言うだけあって、実に美味しかった。その
ことを僕は素直に伝える。
「このくらい朝飯前なんだから」
 得意気に先輩は言う。
「お父さんが仕事に出てる以上、家のことはわたしがやるしかないもの。自然にこれくらい
できるようになるわ」
「………」
 それは、つまり――
「そう。お察しの通りうちは父子家庭よ。若くしてお父さんが建築デザイナーとして独立し
て、夫婦で頑張ってきたみたいだけど、その苦労がたたったのね。わたしが六歳のときに病
気で亡くなったわ」
 意外にあっさりと、先輩は言った。
「大変、だったんですね」
「みんなそう言ってくれるわ」
 けれど、その表情が少しだけ曇り、
「『大変だったね』『苦労したのね』。でも、そんなの結局は当事者じゃないとわからない
もの」
 今度は寂しそうにそう漏らした。
「……すみません」
 確かにそうだ。僕には父子家庭の辛さはわからない。
「ううん。ごめんなさい。わたしの方こそ変なこと言っちゃって」
 先輩は笑ってそう言ったが、気まずい沈黙が残った。
 黙々とオムライスを食べる。
 話す言葉はなく、スプーンと皿がぶつかる音だけがあった。
「そうだ。先輩んちの庭ってバスケのゴールがあるんですね」
 思い出したように話題を振る。
「うん。お父さんの趣味なの。物置にボールもあるはずよ。後で行ってみる?」
「あ、ちょっと触ってみたいかも。少し真面目に練習しようかな? 今日、円先輩にコテン
パンだったし。そしたら再戦……でっ!?」
 正面から脛を蹴られた。
 その蹴った犯人は何事もなかったような顔で食事を続けている。……ちょっと怖かった。
「………」
「………」
 気がつけば先程よりもさらに気まずい雰囲気になっていた。
 いったい何だというのだろう?
 
 食後――、
 物置からボールを引っ張り出してきて少しばかり遊んでみた。
「お父さんって高校までバスケをやってたらしいの。それで去年の改築の際に、ね。とは言っ
ても、休みの日にちょっと身体を動かす程度にしか使えないみたい」
 たぶんそんなところだと思っていた。
 ここには広さ以前に致命的な欠点があった。それは地面が芝生だという点だ。芝生だとボー
ルがぜんぜん跳ねない。実際、ここに来てみてボールをついてみたがドリブルをするにはか
なり厳しく、シューティング程度しかできないだろう。
 ついでに言うとゴール自体も安上がりにできているようだ。
「那智くんはバスケ部には入らないの?」
 シュートする僕に先輩が訊いてくる。
 先輩は開け放ったリビングの窓に腰掛けて、横で見ている。
「僕? う〜ん、背がね、どうしても……っと」
 リバウンドしたボールがもうちょっとで植木鉢に突っ込みそうになって、僕は慌てて拾い
に走る。
「高校でバスケやろうって奴はみんな体格もいいし、実力もあるから。僕程度じゃ、ね」
「え〜っ。確かに那智くん、小っちゃいけどもの凄く上手いのに。ほら、あのときだってジャ
ンプした後にこうして、こうして、こう……」
 言いながら先輩は右腕を上げたり下げたりした。
「ん? ああ、ダブルクラッチですか? あれはあれでテクニックとしては高度だけど、器
用な奴ならわりとやってのけるから」
 そこでふと湧いた疑問に首を傾げる。
 先輩は言う“あのとき”っていつだろう? 今日、円先輩と一対一をやったときにはダブ
ルクラッチはやっていない。となると、先輩がいてそれをやったときと言えば……
「あれ? 先輩、もしかしていつぞやの昼休みの3on3、見てたんですか?」
「うん。見てたわよ」
「うわ、ぜんぜん気づいてなかった」
「だから言ったでしょ? 那智くんが何かに一生懸命になると周りが見えなくなることくら
い知ってるって」
「………」
 いや、もう全くもって面目ない。
「ねえ、那智くん。那智くんならフリースロー、何本くらい連続で入る?」
「フリースロー、ですか? どうだろう。五、六本なら決めれるかな?」
 答えながら一本、シュートを撃ってみる。
 リングに当たって激しい音を鳴らしながらも、何とかゴールした。
「ふうん。……じゃあ、十本。連続十本入ったらキスしてあげる」
「ぶっ! 何それ、その唐突な提案!?」
 ボールを追っていた僕は危うくひっくり返りそうになった。
「いいじゃない。……なあに? 那智くんは男の子なのにチャレンジ精神ってものがないわ
け?」
「む」
 先輩、えらく挑戦的だな。
 謎な商品は兎も角、そこまで言われたらやらないわけにはいくまい。僕は長年に渡って身
体に染み込んだ感覚で、ゴール真下から四.六メートルの距離を取った。
 まずは一投目……
 ガンッ
 ボールはリングに嫌われて見事に外れた。
「せ、先パ〜イ……」
「はいはい。今のは練習でいいわよ」
 先輩は笑いながら先回りして言った。
 交渉の末、五本だけ練習をさせてもらえることになった。
 実は中学レベルでも十本連続というのはそれほど難しいものでもない。五本の練習で三投
目までにシュートをしっかり決めて、残り二投でそれをトレース。その感覚を身体に覚え込
ませれば十分に可能だ。
「では、本番いきます」
 改めて一投目……
 スパンッ
 と、小気味よい音を鳴らしてボールはリングを撃ち抜いた。
「ナイスシュート!」
 先輩が手を叩いて歓声を上げた。
 ボールが地面を転がり、僕のところへ戻ってくる。シュートの際、手首のスナップがしっ
かり効いていて、且つ、ボールがリングにノータッチで通ると、回転の関係で元の位置に戻っ
てくるのだ。この辺りからも僕は理想的なシュートが撃てていると実感した。
 続く二投目から六投目までもほぼ同じ軌道を描いてリングを抜けた。
 七投目でリングに当たって一瞬ひやっとしたが、リングの淵を二周した後、内側へと落ち
た。
 八投目でズレた軌道を修正し、九投目では再び理想型のシュートを決めることができた。
 そして、最後となる十投目――
 僕はあまり跳ねない芝生に力を入れてボールをつき、むりやりドリブルをしながら精神統
一をはかる。
 と――、
「那智くん、あと一本。決めたらご褒美のキスが待ってるぞっ」
「え……」
 あー、え〜っと……
 フリースローを十本連続で決めるという課題にばかり意識がいっていて、そのことをすっ
かり忘れていた。
 本気、なのか?
 聞けばすむことなのだが、何だか怖くて聞けなかった。てか、顔すらまともに見られない。
 いや、そんなの訊くまでもなく冗談に決まっている。そうに違いない。……でも、過去に
二度、前科があるし。もし仮に、万が一、ひょっとして、何かの気まぐれで本気だった場合、
それは口なのか頬なのかが問題になる。いったいどっちだ?
 ………。
 ちょっと待て、僕。何を真面目に考えているんだ。これはあれだ、僕の動揺を誘うための
先輩の罠だ。今一度冷静になれ。よし、何か別のことを考えよう。6,28と来て496の
次は何だったっけ? ……ええい、ダメだ。思い出せない。
 ………。
 そう言えば僕、今までに二度もキスされてるんだな。一度目は身動きできないときで、二
度目は意識がないとき。……そんなのばっかりというのは男としてどうよ? って、違うだ
ろ!
 ………。
 くそっ、何でこんなことになってるんだ? そうか、お昼につられて来てしまったのが悪
かったんだな。お昼をご馳走になっても、結局は買い物に行かないと夕食に困ることには変
わりないじゃないか。迂闊。
 ………。
 ………。
 ………。
 あー、僕、もうなんかぐだぐだだな。
(兎に角、無心で撃つんだ……)
 ごくり、と唾を飲み込む。
 そして――、
「………」
「あ〜らら」
 無心どころか雑念入りまくりのシュートは、別の意味でリングにノータッチだった。
「残念無念、また今度〜♪」
 唄うように先輩が言う。
 僕はというと残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちだった。
 はたしてご褒美のキスはいったいどこまで本気だったのだろうか?
 勿論、そんなの怖くて聞けないけど。
 
 
2005年2月26日公開
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