最近、僕は少しおかしい。
 先輩と会うと心が乱れる。
 そんなこと前からだったけど、最近、加速度的にそれが酷くなってきている。
 先輩が男と一緒にいるのが嫌だと感じる。
 そんなこと前はなかったのに、最近、そういう光景を見ると気持ちがささくれ立つ。
 先輩にだって男の友達もいれば、クラスの男子と話だってするだろう――そう頭では理解
しているのに、感情が納得しようとしない。
 思考と感情が上手くリンクしないのだ。
 何だか苛々してくる。かと言って、その感情を上手く処理できるわけでもなく、結局は散々
持て余した挙げ句、まったく関係のないところに理由をこじつけてぶつけてしまう。要する
に八つ当たりだ。
 そんな自分がたまらなく嫌で、先輩と会うのを無意識に避けるようになっていた。
 なのに、気がつけば先輩の姿を目で追い、先輩の目がこちらに向きそうになったら慌てて
隠れる。そんなことを繰り返した。
「なにやってるんだろうね、僕は」
 いい加減自分で自分のやってることがわからなくなって遠矢一夜にこぼす。すると、一夜
はいつも通り本から顔も上げず、無感動な声で淡々と答えた。
「ああ、そら嫉妬や。お前は片瀬先輩のことが好きで、近くにおる男に嫉妬しとるだけや」
「………」
 直球だった。
 なるほど。
 直球は直球でも、剛速球だと打ち返すことができないものらしい。
 
 
Simple Life
  第八話 変化?
 
 
「せっかくやからひとつアドバイスしといたるわ」
「なになに?」
「いくら那智でも、こいつ嫌いや、て思たことあるやろ?」
 いくら僕でもってどういう意味だ?
 確かに今まで生きてきた中で、どうしても好きになれなかった人は何人かいた。
「そういうときはたいがい向こうもお前のこと嫌いやわ」
「つまり、逆もまた真なり。 ん? この場合は裏かな? いや、それはいいや。つまり、僕
が好きなら、向こうも僕を好いてくれているってこと?」
「と、思い込むとストーカーのはじまりやから気ぃつけえよ」
 アドバイスってそれですか。
「いちや〜」
 僕は脱力して一夜の机に突っ伏した。一夜が素早く本を避ける。
「どけ、邪魔や」
「そう思うなら、もっとマシなアドバイスして」
 僕は机を不法占拠したまま言う。
「なに駄々こねとんねん。敵に塩を送るようなことはせん」
「………」
 んー?
 何だろう? 何か今、とんでもない爆弾発言を聞いたような気がするぞ。
 机に伏せたまま考え込む。
 一夜は、そんな僕の頭に上に本を置くと、何事もなかったかのように読書を続けた。
 
 今、学園にひとつの噂が流れている。
 曰く「片瀬司は妹尾康平と付き合ってるらしい」――
 
「妹尾康平って、誰……?」
 ある日の放課後、化学実験室の掃除をしながら僕は友人に訊いた。
「なに、お前、知らないの?」
 友人は呆れたようにそう言ってから、簡単に説明してくれた。
 妹尾康平(せのお・こうへい)――
 3年4組、普通科通常クラスながら陸上部に所属。種目は走り幅跳び。
 ルックスはまあまあだけど、ユーモアと親しみやすいキャラで人気があるらしい。つまり、
容姿よりも性格で人を寄せ付けるタイプ。この対極にあるのが圧倒的なルックスと恐ろしく
愛想のない性格の一夜だろう。ただ、妹尾康平の場合、主に女子生徒中心に人気があり、男
子生徒にはあまり人気がないとのこと。
「しかも、誰かがその噂の真偽を確認したら、片瀬先輩は否定しなかったって話だ」
「へえ……」
 誰かって誰だよ?
「へえって、お前ね、本当に噂には疎いのな。俺もその辺のこと那智に訊きたかったんだけ
ど、その様子だと知らないみたいだな」
「何で僕?」
「だって、お前、片瀬先輩と仲いいじゃん。那智なら何か聞いてるかと思ってさ」
「ああ、そういうことね。そりゃあ会えば話はするけど、特別仲いいわけじゃないよ」
 さらりと嘘を言う自分に詐欺師の才能を感じた。
 新しい自分発見。これからは僕のことをネオ那智と呼んで下さい。
「それにね、仮に親しかったところで、それはまた別の話じゃない? その手の話は突っ込
んだこと聞けないよ」
「そうか」
「うん、そう。それよか早く終わらせようよ」
 僕はあまり楽しくない話題に切りをつけ、黒板消しを持って窓へと向かった。両の掌にひ
とつ装着し、バンバン叩くとチョークの粉が舞った。
 僕はこのときほど目の良さを呪ったことはなかった。それとも、見たくないものほど目に
入ってくるというアレか。
 と言うのは、窓から見える渡り廊下を、片瀬先輩が歩いていたのだ。
 そして、その横には男子生徒の姿も。
 ふたりは大量の本を平積みにして持ち、こちらの校舎に向かってきていた。
 通り過ぎていく先輩を黙って見送る。手は僕の意識とは乖離して、機械的に黒板消しを叩
き続けている。
 やがてその姿が見えなくなった。
 ………。
 ………。
 ………。
「はい、僕の分終わりっ。後は任せた」
 僕は黒板消しを元の場所に戻すと、置いていた鞄をひっ掴んで教室を飛び出した。後ろで
友人が何やら喚いていたような気がするが聞かなかったことにする。今日の耳はお休みです。
あしからず。
 
(あの様子だと図書室かな?)
 本をたくさん持っているから図書室というのも安直な発想だが、この校舎の二階から上は
図書室も含めた特別教室が集まっているので、おそらく間違っていないと思う。
 図書室にはほとんど人がいなかった。貸出カウンターに図書委員が二名、閲覧席で勉強し
ている生徒が数名。あわせて十人もいない。沈黙と静寂を美徳とする室内は足音が立たない
ように絨毯が敷かれていて、とても静かな空間を維持している。
 その中でかすかに話し声が聞こえた。書架の方からのようだ。僕は勉強している生徒の邪
魔をしないように注意しつつ近寄る。
 話し声はやはり片瀬先輩たちのものだった。僕はそこから書架をひとつ挟んで隣の通路に
隠れる。
 書架は枠組みだけのありふれたスチールラックで、そこに本を背中合わせに収めてある。
僕は書架の隙間から隣を窺った。
(って、端から見たら、今の僕、すっごい怪しいな)
 どうやら一夜が言ったのとは別方面からストーカーに近づきつつあるらしい。……ちょっ
とショックだ。
 さて、問題のお隣さんはというと、全体像はわからないが本を片づける先輩と、それに話
しかける男子生徒という構図のようだ。
 ここまで近寄れば会話の内容も聞こえてくる。
「あ、そうだ。知ってる? 俺たち、つき合ってるんじゃないかって噂があるらしいよ?」
 あー、この人が今話題の妹尾康平氏なわけね。
『あ、そうだ。知ってる?』なんて切り出してるけど、聞いてる僕からしてみれば話したく
てウズウズしていたようにしか思えない。
「ええ。そうらしいわね」
 先輩は極めて冷静に返事をする。
 カタン、とスチールラックが音を鳴らした。先輩がまたひとつ本を片づけたようだ。
「まあ、ほら、誤解なんだけどさ。どうせならいっそのこと、俺たち、つき合わね?」
「………」
(あ、こんにゃろ。外堀から埋めてきやがった……)
 だいたい察しがついた。
 例の噂を流したのは他でもない妹尾康平自身だ。それが学園中に浸透したのを見計らって
今みたいな提案をし、片瀬先輩を墜としにかかったのだ。
 もうひとつ推測を重ねさせてもらえば、『誰かがその噂の真偽を確かめたら、片瀬先輩は
否定しなかった』という部分もこいつの仕業だ。それを聞けば“誰かが確認したこと”をも
う一度本人に確認しようと思う人間はいないからだ。
 基本的にこういう小細工をする奴は好きくない。
 悪いけど極めて原始的手段に訴えさせてもらおう。
 そう、鉄拳制裁あるのみ。
 僕は握り拳を固め、思いっきり殴ってやった。
 ……本を。
「どわっ、何だ!? 本がっ!?」
 僕が殴りつけた本は向こう側の本を押し出し、そして、飛び出した本が妹尾康平に命中す
る。書架の向こうでドサドサと音がした。
「悪いけど、わたし、回りくどいことする人は嫌いなの」
 慌てる妹尾康平を尻目に、先輩はぴしゃりと言った。
 さすがだ。しっかり見抜いていたらしい。
「今日は手伝ってくれてありがとう。そのことには素直に感謝するわ。それからその本はちゃ
んと片づけて帰ってね。図書室のマナーよ?」
「ま、回りくどいって何だよ!? それにこの本は勝手に飛び出してきて……って、ああっ、
くそっ」
 妹尾康平は何やら反論しようとしたみたいだが、先輩がさっさと帰ってしまい、最後には
悪態をついていた。
 小物らしい最期だ。いや、死んでないけど。
「おい、そこに誰かいるのかよ」
 おっと、やば。
 早々に退散するとしよう。
 
 テキトーな本を持って閲覧席に座り、知らん顔で妹尾康平をやり過ごす。
 座ったばかりですぐに席を立つのも変なのでもうしばらく読書を続けていた。が、仕方な
くやる読書なんて面白くないもので、五分もすれば飽きて欠伸が出てきた。
 もうそろそろいいだろう。そう思ったそのとき、
 どん――
 と、正面の席で大きな音がした。
 見ると机にこれでもかと言うほど大きく、分厚い本が置かれていた。そして、そこに立つ
片瀬先輩――
「………」
「………」
 すでにただならぬオーラ全開だった。普通に怖い。
 先輩はゆっくり座ると、片肘を突いた状態でその本をパラパラとめくりはじめた。せめて
何か言ってほしい。息苦しくて窒息しそうだ。
「那智くん、さっき、向こうの書架にいなかった?」
 やっと先輩が口を開いた。普段より声が低い。
「い、いえ……」
「そう。じゃあ、わたしの勘違いだったのね」
 いえ、おそらく勘違いでも何でもないかと。
 先輩はそれきり黙った。
 僕と先輩の間に流れる空気が密度を増したような気がした。きっと性能のいい圧縮ソフト
を使っているのだろう。生憎、僕は解凍ソフトを持ち合わせていない。
 それからしばらくして、先輩はまた重苦しい空気を裂いて言葉を紡いだ。
「さっきね、本が勝手に飛び出してきたの」
「そ、それは、ほら、あれですよ。ランページ・ゴースト……じゃなくて、ポルターガイス
ト?」
 何で半疑問型なんだ、僕。
 先輩は相変わらず本に目を落としたままページをめくっている。て言うか、今度は聞きっ
ぱなしで返事すらなしですか。
「………」
「………」
 苦しいがここは嘘を貫いて乗り切るしかない。幸い先ほど詐欺師の才能を開花させたばか
りだ。
「ああ、それからね、さっき妹尾君からの交際の申し込みみたいなのがあったけど、きっぱ
り断ったわ」
「そのようですね。僕も聞いてまし、た……。は、ははは……」
「………」
「は、はは……」
 そんな才能はなかったらしい。
 あー、え〜っと……
 もしかして今、僕もの凄くでっかい墓穴掘った?
 空気がさらに重苦しくなって、見えない圧力が身体にのしかかってくる。ただ単に後ろめ
たさからくる自責の念とも言うけど。
 と――
 前触れもなく、ぱたん、と本が閉じられた。そのままその本を押して、僕の方に寄せる。
そして、先輩は静かに言った。
「これ、返してきて」
「……はい」
 さすがにこの頼みを断れるはずもなく、僕はその本を受け取るとそそくさと逃げるように
書架へと向かった。
 次に帰ってきたときが怖いが、そのときのことはそのとき考えよう。
 
(いや、ホントまいった。しっかりバレちゃってるよ)
 やはりストーキングについては素直に謝っておくべきか。まあ、謝ったところで許してく
れるとは限らないけど。先輩って微妙に暴力主義者(テロリスト)だから、多少の肉体的ダ
メージは覚悟しておかないとな。
 しかし、いったいこの嫌がらせのように巨大な本は何の本なんだろう。そう思って見てみ
ると表紙には『数学事典』とあった。先輩、こんなもの本当に読んでたのか? 実際、今ま
でほとんど使われた様子がなく、うっすらと埃を纏ってる。
 背表紙に貼られてるシールを見て片づける場所を探す。すると、どうだろう。どんどん奥
の方へ入っていって、気がつくと図書室の最奥部まで来ていた。袋小路の突き当たりがこの
本の定位置らしく、そこだけぽっかり空いている。僕はそこに本を戻した。
 本が気持ちよく収まったことに満足して、帰ろうと振り返ると――、
「……っ!」
 そこに片瀬先輩が立っていた。
 僕の行く手を阻むように、通路の真ん中で仁王立ちだ。思わず逃げたくなったが、ここは
袋小路。唯一の逃げ道は先輩が塞いでる。つまり、これは「ここを通りたかったら、わたし
を倒していくことね」というやつか。いや、冗談ですが。
 先輩は相変わらず全力で不機嫌だった。きっと怒っているのだろう。
 なのに、
 僕は先輩に見とれていた。
 吸い込まれそうに綺麗な瞳。
 軽くウェーブのかかったふわふわの髪。
 不機嫌に尖らせていても色あせない桜色の口唇。
 先輩の何もかもが僕を魅了する。
 それと同時に、僕は僕がおかしくなった理由を思い知らされた。
(つまり、僕はマゾだったんだよ)
 て、オチつけてどーする。……見事なまでの欺瞞と誤魔化しじゃないか。ああ、そうだよ、
一夜。君のおっしゃる通りなんだよ。
 でもさ、そんなのダメだろ。先輩だぞ?
「どうかしたんですか?」
「どうもしないわ。ただ……」
 その苛立たし気な声を聞いて“どうもしない”を信じる人間は少ないだろう。
「ただ?」
「面白くないだけ」
 そりゃあ大変だ。
「ここに来たって面白いわけじゃないでしょうに」
「でも、今ここにいるのはわたしと那智くんだけだわ」
 ここなら誰にも邪魔されずに暴力(テロル)を敢行できるという意味だろうか? それな
らさぞかし楽しそうだ。
 しばらくの間、先輩は僕の顔を見つめていた。
 それからおもむろに大きく息を吸うと、それと等量と思われる大きなため息を吐いた。何
だか呆れたような響きを含んだ、聞こえよがしのため息だった。
「ここのところわたしを避けていたどこかの誰かさんについては、追いつめたからこの際お
いておくことにするわ」
「………」
「聞いてくれる? 素朴な疑問よ。さっきの妹尾君もそうだけど、どうしてわたしって好き
でも何でもない男の子ばかり言い寄ってくるのかしら?」
 疲れたようにそう言うと、先輩は書架にもたれた。
 そんなの簡単だ。言うまでもない。この学園には先輩に惹かれ、憧れ、好きになる男はご
まんといるだろう。どこかの誰かさんのように。
「好きな男だけが寄ってきたら楽でしょうね」
 僕も先輩と並んで書架にもたれた。
 肩が触れそうな距離。
 危険な距離。
 どこか懐かしさを感じる、やわらかい雪の香り。
 警告の香り。
「あ、でも、あれか。来る男来る男、みんな好きなんだから、それはそれで大変か」
「あら、失礼ね。わたし、そんな気の多い女じゃないわ」
「それは失礼しました」
 冗談まじりの応酬の後、僕らは笑う。
 が、それも長くは続かなかった。理由はわかっている。僕が先輩を避けていたことで間に
溝ができているのだ。僕も先輩もそれを見て見ぬふりしているから会話が楽しめない。ぎく
しゃくしてくるのだ。
「そう言えば那智くん、好きな女の子はいないのよね?」
「そのようですね」
 まるで他人事のような返事。
 確かに以前、そんなことを言った気がする。じゃあ、今はどうだろう? たぶん、あのと
きとは違う答えなのだろうが、そんなことは言えたはずもない。
「那智くんの好きな女の子って、どんなタイプ?」
「そうきましたか」
「うん。ちょっと、興味あるな」
 自信なげな声で先輩は言う。
 さて、なんと答えたものか。もしかしたらここが本日の山場なのかもしれない。
「好きなタイプ、か……」
 時間稼ぎのようなひと言を挟む。
 そして――、
「例えば、先輩みたいな人、かな」
 沈黙。
 先輩の反応は、ない。
 ただ、僕の体の中で心臓の音だけがうるさかった。
 三十秒? それとも一分だろうか? たっぷりと無音の時間が過ぎてから、ようやく先輩
は口を開いた。
「そう。趣味が悪いのね」
 たったそれだけだった。
 後悔半分。安堵半分。そんなため息を僕は吐く。
「かもしれません。……先輩は? 先輩の好きなタイプはどうなんですか?」
「わたし? わたしは、そうね……」
 そこで一度切って少し間を空けてから、先輩は次の言葉を継いだ。
「那智くんみたいな男の子、かな?」
「それは趣味が悪い」
 そして、再度沈黙。
 ………。
 ………。
 ………。
 静寂の中、僕らは肩を並べて書架にもたれている。
 ふと、
 だらりと下げた手の、その甲の何かが触れた。
 先輩の手だ。
 僕は、その手を、そっと握った。
「………」
 何をやってるんだろう。相手は先輩だというのに。
 ………。
 ………。
 ………。
 ああ、違う。
 先輩だからだ。先輩以外にこんなことするもんか。
 けれど、
 僕の気持ちなんか先輩には関係なくて。
 繋いだ手はあっさりと解かれてしまった。
「………」
 一瞬よぎる後悔。
 が、今度は先輩の方から手を握ってきた。一本一本、指を絡めるようにして。
 僕らは繋いだ手を強く握り合った。
「……か、帰ろうか?」
 先輩が訊いてくる。
「そう、ですね。帰りましょう。……一緒に」
「一緒に?」
「一緒に」
 ほんの少し先輩が考え込む。
「ええ、そうね。そうしましょ」
 僕たちの中で確実に何かが変わった瞬間だった――
 と思うんだけど、どうだろう?
 
 
2005年3月10日公開
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