月曜日の朝――
「あれは円先輩、かな?」
 駅を降りて学校に向かっていると、すっかり夏服一色になった生徒の流れの中に見覚えの
ある後ろ姿を見つけた。
 正体に自信が持てなかったのは円先輩が見慣れたジャージ姿ではなくて制服で、しかも、
いつもなら頭の高い位置でくくっている長めの髪を今は下ろしていたからだ。
 聖嶺学園体育科はわりかし大らかな種族だ。平均して日に二限くらい体育の授業があるの
で、登校後、最初の体育で着替えてしまうと、後はずっとジャージのままの生徒が多い。さ
らに、そのジャージも別にクラブのものでもいいときている。だから円先輩の制服姿はあま
り見かけたことがない。
 でも、まあ、あの背の高さは円先輩で間違いないだろうと思い、早足で歩を進めて声をか
けてみる。
「円先輩」
「んお? ああ、なっちか。おはよう」
 やっぱり円先輩だった。
 
 
Simple Life
 #2−3 ちょっとおかしい一日
 
 
「ん? そう言えば確かになっちとは制服姿ではあんまり会わないかもね」
 円先輩と並んで学校を目指す。
「ですね。それ以前にこの時間に会ったことも初めてです」
「そっか。あたしはたいてい朝練だからね。普段なら今頃はもう体育館にいるわ」
「てことは、今日は朝練なしですか?」
「昨日ね、練習試合があったんだ。勝ったら今日はオフ。負けたら朝練開始をいつもより一
時間早めるって発破かけたら、もう、みんな頑張る頑張る」
 そう円先輩は楽しそうに言った。
 こんな主将じゃ女バスの部員も大変だろうなあ。心から同情させてもらおう。
「で、勝ったわけですね」
「そゆこと。……で、どうよ。あたしの制服姿は? 見惚れたか?」
 そんなことを言われたので、改めて円先輩を見る。
 円先輩はスタイルがいい。ブラウスの裾をスカートの下に入れ込んでるもので、出てる胸
が強調されている。しかも、背が高いせいでただでさえ短いスカートがよけい短く見えて、
そこから伸びてるすらっとした足もけっこう目に毒だ。
「………。
 ………。
 ………危険ですね」
「何がだ!?」
「あ、いや、そうじゃなくてっ。ほら、何ていうか新鮮です。髪下ろしてるのとか」
「そっか。そう言うなっちは髪の毛、立ってるけどね」
「うぇい?」
 言われてびっくり。頭に手を当ててみる。が、よくわからない。
「ほら、てっぺんのところ」
「てっぺん……」
 手で頭を探りながら、年上とは言え女の子に頭のてっぺんを見られる僕って何なのだろう
な、と意味のないことを考えてしまう。
「うは、本当だ。立ってる。朝バタバタしてたもんだから、ちゃんとできてなかったんだ」
「そんなもん手で押さえてても直るもんでもないでしょうが。やってあげるから」
 そう言って円先輩は鞄からブラシを取り出した。
「あ、止まんなくていいよ」
 そうして僕の後ろに回り込む。
 僕は登校する生徒の流れに乗ったまま、その中で円先輩に髪を梳かしてもらいながら歩い
た。
 何だか頭を撫でられているようで気持ちがいい。
「でも、すっごい恥ずかしいんですけど」
「この程度のこと人に見られたくらい気にするんじゃないの。人に何をどう見られようが、
アンタは見るべきところをちゃんと見てたらいいんだから」
「………」
 見るべきところ、か。
 それがどこかなんてわざわざ聞く必要もないし、円先輩もいちいち言わなかった。
「そう言えばさ、なっちって中学ンときのバスケでレギュラじゃなかったんだよね?」
 ふいに円先輩が明るめの声で訊いてきた。
「いったいドコ情報ですか、それ」
「んなものすぐ集まるって。……あたしが見た限りじゃ充分にレギュラ張れる実力があると
思ってんだけど。何でさ?」
「実力云々は知りませんけどね、僕、顧問の先生に嫌われてましたから」
 僕がそう言うと、円先輩は少し考え込んでから口を開いた。
「……殴ったか?」
「その節はどうもご迷惑おかけしましたっ」
「そういうつもりで言ったわけじゃないんだけどね」
 苦笑する円先輩。
「いくら僕でも中学生の頃からそこまでバイオレンスじゃないです。まあ、理由については
またいずれ。道端で歩きながら話すようなことじゃないし」
「そっか。言いたくないなら無理に言わなくていいから。しっかし、勿体ない。なっち程の
ガードなんてそうそういるもんじゃないのに。……はい、できた」
 どうやら僕の間抜けな寝癖が直ったらしい。
「あ、ありがとうございます」
「いーえ、どーいたしまして。なっちってば猫毛だからすぐに直ったよ」
 そんなこと話しているうちに、いつの間にか校門に着いていた。
 と、そこに――
「おはよう」
 背後からいきなりの声。
 僕も円先輩も跳び上がりそうなほどに驚いた。いきなり声をかけられたこともあるが、そ
れが片瀬先輩のもので、しかも、普段よりも低かったからだ。
 恐る恐る振り返る僕ら。
「う……」
「ぐ……」
 そして、思わず息をのみ、戦慄する。
 そこにいた片瀬先輩はもの凄い顔をしていた。何とも形容しがたいと言うか、筆舌に尽く
しがたいと言うか。とにかく、「不機嫌な気持ちを具現化したこの表情、めったなことでな
おるものではないわ」とでも言わんばかりだった。
 硬直する僕らを無視するかのように片瀬先輩は突き進む。僕と円先輩は無言で左右に道を
あけ、昇降口に向かう片瀬先輩の後ろ姿を見送った。
(ちょっとしたアルマゲドンだな……)
 先輩の行く先々で何人かの生徒が飛び退いているのを見て、僕は思った。
 そして、隣で円先輩が小さくつぶやく。
「あたし、地雷踏んだかも……」
 
 昼休み――、
 弁当を食べてから後、片瀬先輩に会うために食堂に行ってみた。
 今朝のことが気になって片瀬先輩の様子を探ろうと思ったのだけど、そこには円先輩の姿
しかなかった。
「司? さっきまでいたけど? でも、何か用があるとかで教室に戻ったみたい」
 と、円先輩。
「どんな様子でした?」
「わりかし普通。ただ、いつもより口数が少なかったな。あたしもさ、朝のことがあるから
テーブルの下で脛ガツガツ蹴られるとか、覚悟してたんだけど」
 何なんだ、そのデンジャラスな食事風景は。
 片瀬先輩と円先輩って、いつもそんな刺激に満ちあふれた昼食を展開してるのだろうか。
わからん世界だ。
「でも、ちょっと拍子抜けしたな。朝のことなんか忘れてるみたいだったから」
「そうですか……」
 何だか変なことになってきたな。
 
 放課後――、
 思い切って片瀬先輩の教室へ行ってみた。
 幸いドアが開いていたので中を覗いてみると、まだ十人くらいの生徒が残っていた。が、
どうやら片瀬先輩はいないようだった。
「あっれ〜? 千秋君じゃない? どうしたの、こんなところで?」
「うぇ?」
 片瀬先輩がいるかいないかだけ確認したらさっさと帰ろうと思ったのだけど、目ざとい人
に見つかってしまった。
 近づいてきた上級生は当然の如く僕の知らない人だった。
「あ、いや、片瀬先輩に用があって来たんですけど、もう帰りましたよね?」
「え? じゃあ、本命はやっぱり司なの?」
 僕が求めた答えとまったく違うものが、しかも質問形式で返ってきた。
「は、はい?」
 さらに数人の女子生徒がわらわらと寄ってくる。
「それってホントなの?」
「でも、体育科の四方堂さんともよく一緒にいるわよ?」
「えー? わたし、それ知らなーい」
 気がつくと半包囲陣の真っ直中。なかなか統率のとれた素早い部隊展開だと感心させられ
た。
「じゃあ、実は四方堂さんなの?」
「やっぱり司よね?」
「遠矢君でしょ?」
 そこから一気に集中砲火。
 て言うか、ちょっと待て。何だ、最後の聞き捨てならない台詞は!?
「え? えっ? いや、えっと、それは……」
 ダメだ、こういうの苦手だ。女の子独特の圧倒的なパワーと理解を超える話題の飛躍に思
考がついていかない。
 だが、救いの手は思わぬところから差し延べられた。
「あのさ、お嬢さん方、そのへんで止めとけよ」
 教室の中から男子生徒がひとり、こちらに歩いてくる。帰り支度が整っているみたいなの
で、見かねて寄ってきたというよりは単に帰るために扉から出たいだけのようだった。
「あ、香椎君」
「だいたい困って訪ねてきてるんだから、先に質問に答えてやるのが上級生ってもんだろ」
 扉付近に陣取っていた女子生徒が道をあけると、香椎という名前らしい先輩は立ち止まり
もせずに出て行った。
「ゴ、ゴメンね」
 香椎先輩の背中を見送ってから、はっと我に返ったようにひとりが言った。
「えっと、司だったよね? だったらたぶん美術室に行ったんじゃないかな?」
「美術室ですか。わかりました。行ってみます。ありがとうございました」
 質問に答えたから今度はこっちの番、などと言われないうちに退散しよう。僕はお礼を言っ
てすぐさまその場を後にした。
 
 美術室は片瀬先輩の教室からそう離れていない場所にある。なにせ各学年に美術科はひと
クラス、全校でも三クラスしかないわけで、それならと便利さ優先で全て近くに配置されて
いるのだ。
「ここ、……は美術準備室か」
 似て非なる名称の教室を通り過ぎ、さらに数歩歩いて『美術室』と書かれたプレートを見
つけた。
「え〜っと……」
 扉の前で立ちつくす。
 美術室の扉は来るものを拒むように閉ざされていて、中からは人の気配がしなかった。と
は言え、中も確認しないで誰もいないと決めつけるのも早計のような気がするので、思い切っ
て開けてみることにする。
「たのも〜」
 と、小声で乗り込む小心者の僕。
 美術室の中は通常の教室よりも五割増くらい広く、机などがないのでだだっ広く感じた。
机の代わりイーゼルと椅子が規則性もなく散らばっている。出入り口以外にも扉があり、位
置的に考えるに、どうやら準備室とつながっているらしい。
 その美術室にいたのはただひとり。先程すれ違った香椎先輩だった。
 香椎先輩は石膏像と向かい合い、スケッチブックにデッサンをしているようだったが、僕
の存在に気がつくと一度こちらに目を向けた。
「何か用か?」
 そう訊いてからデッサンを再開する。目が石膏像とスケッチブックを行き来し、手が休む
ことなく走る。
「えっと、片瀬先輩がこちらに来てると教えられたもので……」
「片瀬? いや、見ての通りここは俺ひとりだけど?」
「そう、ですか……」
 靴箱に靴が残っているのは確認したので、どこかで入れ違いになってもう帰ってしまった
のだろうか。それとも別の場所に行ったか。
 何となく物珍しさもあって美術室の中を見回してみた。
「いつもこんな感じなんですか?」
 片瀬先輩から聞いた話だと放課後もキャンバスに向かっている人が多いという話だと思っ
たのだけど。
「今はってところだな。ついこの前、課題の期限があったばかりで、今はみんな新しいもの
をはじめたばかりなんだ。もっと佳境に入ってきたり、期限が迫ってきたら次第に増えてく
る。この時期にキャンバスに向かってる熱心な奴はあまりいないな」
「香椎先輩はその熱心なひとりですか?」
「俺?」
 そう聞き返して、香椎先輩は鼻で笑った。
 香椎先輩の手が止まり、スケッチブックを近くの椅子に置いた。肩の力を抜いて背もたれ
に体重を預け、組んだ足の上で指を組む。
「俺がやってるのは静物デッサン。ただの習慣だな。毎日少しでもやらないと落ち着かない
んだ」
 そんな自分に呆れたように笑う。
「それはそれでやっぱり熱心なんじゃないでしょうか」
「かもな。だけど、熱心という点なら片瀬だって同じだ。ただ、あのお嬢さんは熱心になる
あまり行き詰まってるみたいだけどな」
「先輩が?」
「ああ。……ま、その辺りは片瀬に直接訊いてみるんだな」
 そう言われて自分が片瀬先輩を捜していることを思い出した。
「そうしてみます。それじゃ失礼します」
 僕がそう言ったときにはもう香椎先輩はスケッチブックに手を延ばしていた。あいた手を
軽く上げて僕に挨拶を返す。言葉はなかったけど、僕はその態度が嫌じゃなかった。
 
(あ、そうか。こういうときこそケータイ使えばいいんだ)
 美術室を出て数歩進み、ちょうど美術準備室の前に来たところで、ようやくそのことに気
づいた。
 自分の間抜けさ加減に呆れながらポケットからケータイを取り出した。と、そのとき美術
準備室の扉が、ガラリ、と開いた。
「わあっ」
 危うくぶつかりそうになって飛び退いた。
「那智くん!?」
「へ?」
 出てきたのは当の片瀬先輩だった。
「どうしたの、こんなところで?」
 ここでばったり会うこと自体、先輩には思いがけない出来事だったようで、驚いたように
言った。
 僕だってすぐ横の教室に先輩がいたなんて思いもしなかった。
「ちょっと朝のことが気になったもので先輩を」
「朝……?」
 言葉の一部をオウム返しに言って、先輩は小首を傾げた。 円先輩が言っていた通り、ど
うやら本当に覚えていないようだった。
「いや、先輩、朝会ったとき、もの凄い顔して通り過ぎていったから」
「朝会って……、もの凄い顔……」
 再びオウム返し。
 思案。
 そして――、
 ぴしゃり、と右の掌で自分の顔を覆った。
「あ、会ってるかも……」
「かもって、やっぱり覚えてないんですか?」
「うん。ちょっとね……」
 言いにくそうに口ごもる。
「最近、スランプなの、絵の方のね。それで昨日はあまり寝られなくて、やっと寝ついたの
が朝方でしょ。睡眠不足の上、低血圧で……」
 と、恥ずかしそうに告白する。
 なるほど。その三重苦であんな不機嫌な顔していたのか。たぶん、あれだな。知った顔が
あったら、それが誰なのか正体を認識する工程をすっ飛ばして、とりあえず半自動(セミオー
ト)で挨拶していたんだろうな。
「ごめんね、那智くん。無視しちゃったみたいで……」
「いや、まあ、そんなことは別にいいんですけどね。理由もわかったし」
「そう言えば、あのとき……」
 先輩は何かを思い出すようにゆっくりと言葉を運ぶ。
「那智くんと一緒に誰かいなかった?」
「ああ、それでしたら円先輩ですよ」
「円が!? 何でっ!?」
 途端、先輩の目がキッと吊り上がった。……ちょっと怖い。
「何でって、駅降りてから来る途中で会っただけですけど?」
「あ、そっか。そうよね。あはは…」
 そう言って照れたような、それでいて乾いた笑いを漏らすと、今度は一転して考え込みは
じめた。顎を指でつまみ、ぶつぶつと何か言っている。「円め……」とか「よくも……」と
か言ってる辺り何か不穏なものを感じる。
「そうだ、先輩。せっかくだから先輩の絵を見せて下さいよ」
 放っておくとどんどん怖いことを言い出しそうなので、それを止めるためにも言ってみる。
実際、先輩の絵にも興味があった。
「さっきも言ったけど、わたし、今スランプで……」
「朝、先輩に無視られてちょっとショックだったな、僕」
 少し意地悪を言ってみる。
「もぅ。わかったわよ。しようがない子ね。……いいわ。入って」
 呆れたように言ってから、先輩は僕を美術準備室に招き入れた。
 美術準備室は、美術室とは反対に通常の教室の半分くらいの広さしかなかった。そこにス
チールラックが並べられ、雑多なものがところ狭しと置かれている。
 その一角から先輩は布に包まれたキャンバスを引っ張り出した。きっといちいち持ち運ぶ
のは不便だから、完成までここで保管しているのだろう。
「さっきはひとりだったからここで睨んでたんだけどね。狭いから向こうに行きましょうか」
 そう言って美術室につながるドアを開けた。
 そこには先程と同じように石膏像に向かってデッサンをする香椎先輩の姿があった。
「あら、香椎君だけ? 丁度よかったわ。友達が絵を見たいって言ってるの。こっちの方、
使わせてもらっていいかしら?」
「ご自由に」
 一瞬こっちを見ただけで、香椎先輩は興味なさそうに答えた。
「そう。ありがとう」
 それから片瀬先輩は香椎先輩から離れた場所のイーゼルに絵を置いた。
 被せられていた布が剥ぎ取られる。
 そこに現れたのはまだ下書き段階の絵だった。完成するればきっと幻想的な絵になるのだ
ろう。描かれているものは、僕には天使のように見えた。
 だけど――
「これ、翼が足についてる」
「ええ、そうね」
 片瀬先輩がくすりと笑う。
「天使、ですよね?」
「さあ? わたしにもわからないわ。天使かもしれないし、魔法使いかもしれないし。でも、
きっと足についた翼で、見えない階段を上るように空を駆けるのね」
 そう語る先輩は何だか楽しそうだった。
 わけがわからず僕が首を傾げていると、向こうで香椎先輩が立ち上がった。
「俺も見せてもらっていいかな?」
「ええ、どうぞ」
 了解を得た香椎先輩は僕に並んで立って絵を眺める。
 それからしばらくして「なるほど」と意味ありげに頷いた。同じ芸術に携わる人間として
何か納得するものがあったのだろうか。
「ねえ、那智くん? 久しぶりに那智くんがバスケットボールしてるところが見たくなった
わ」
「相変わらず唐突ですね」
 先輩が唐突に思いもよらないことを言い出すのは、芸術家気質に寄るものなのかもしれな
い。右脳人間のインスピレーションとか閃きとか、そういうの。
「そんなもの見てどうするんです?」
「そうね――」
 僕の問いに少し考えてから、
「わたしのスランプ脱出法、かな?」
 そう言って先輩は微笑んだ。
 僕の横では香椎先輩が、やっぱりくつくつと笑っている。
 何が楽しいのかわかっていないは、どうやら僕だけのようだった。
 
 
『#2 ホット・クール・ヒット・アイスクリーム』 終了/
 2005年5月27日公開 同29日改稿
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