同じ部屋に司先輩がいる。
 たぶん僕は今、考え得る限り最も贅沢な時間を過ごしているのだろう。
 ある時間において、好きな人と極めて近い座標に存在していることはそういうことだと
思う。
(しかし、まあ、それなのに何だろうな、この緊張感は)
 いや、緊張しているのは僕だけか。
 先輩は極めてリラックスしている。不思議時空産カレーを食べた後、八時台のバラエティ
番組を見て、今は九時台のドラマを見ている。感情移入するわけでもなく、逆に笑い飛ば
すわけでもなく、ただ黙って見ていた。
 
 
Simple Life
  #4 第四話 「苦悩 −夜−」
 
 
「先輩、お風呂入れますよ」
 普段なら僕ひとりだし、ついでに夏ってこともあってシャワーですませているのだけど、
今日は先輩がいるので久々にお風呂にしてみた。
 ドラマが終わるのに合わせてお風呂を入れ、湯加減を見て帰ってくると、丁度エンディ
ングだった。
「あら、もうこんな時間ね。じゃあ、そうさせてもらうわ」
 そう言うと先輩は僕と入れ違いにリビングから出て行った。……凄いな。当たり前のよ
うに行っちゃったよ。
 何時間ぶりかのひとりの時間を得て、僕はソファに座ってため息を吐いた。
 先輩と一緒にいることそれ自体は楽しい。でも、夜はダメだ。何だか余計なことを考え
てしまうから。
 出て行った先輩の足音が二階に上がっていく。きっと寝室に置いた鞄に着替えでも取り
に行ったのだろう。その音を追うように僕はソファの背もたれに首を乗せ、天井を仰ぎ見
た。
「………」
『着替え』というフォルダの中にどういうデータが入っているかは考えず、思考はその階
層で止めておいた。
 すぐに二階から下りてくる足音が聞こえた。そのままバスルームに行くかと思いきや、
ガチャリとリビングのドアが開けられた。
「覗いたらダメよ」
 ……バタッ。
 僕の身体はソファに横倒しに落下した。もう言い返す気力もない。
 先輩はそんな僕を置いて去っていった。もう戻ってこないのを確認してから僕はよろよ
ろと上体を起こした。
 リモコンを手に取り、TVのチャンネルを報道番組にあわせる。ついでに頭のチャンネ
ルもTVにあわせようと思ったが上手くいかなかった。かといって、思考はどこかにフォー
カスされるわけでもなく、ただぼんやりと画面を見ているだけだった。
 それから四十分ほどが経って、スポーツニュースがはじまった頃――、
 ドアの開く音に意識が現実に引き戻された。先輩がお風呂から上がってリビングに戻っ
てきたのだ。
「先に入らせてもらったわ。那智くんも続けてどうぞ」
「うい。そうします」
 そう言って立ち上がり、振り返る。
 と、そこには――、
「☆×■◎※△ーーーー!?」
 バスタオル一枚の先輩がいました。
 おう、じーざす。
「あら、どうしたの、那智くん?」
「………」
 いや、どうしたのじゃねーって……。
「なんつー格好をしてるんですかっ!?」
「お風呂上がりなんだから当然じゃない?」
「当然じゃない!」
 間髪入れず僕は否定した。
 ああ、何か目眩がしてきたぞ。僕は後ろに倒れ込むようにしてソファに座り込み、くら
くらする頭を抱えた。
「いや、先輩が先輩の家でする分には当然かもしれませんが、うちでやっちゃマズいでしょ
う」
「ふうん、那智くんったらそんなこと言うんだ」
 先輩が笑みを浮かべる。
 久しく見ていなかった悪戯っ子の笑顔だ。この後、決まって先輩はあまり望ましくない
行動に出てくれる。
 それを表すように先輩は僕の方へ歩み寄ってきた。
「那智くんはぁ、自分のカノジョがこういう格好をしてるのに嬉しくないんだ」
「いや、嬉しくないことは決してないこともない……かな?」
 そんなわけのわからないことを言っているうちに先輩はもう僕の目の前まで迫ってきて
いた。
 困ったことに僕の目は先輩の顔を見てくれない。剥き出しになった肩とか、胸のふくら
みとか、露わになった太ももとか、そんな女らしい部分にばかり目がいってしまう。
「那智くんも、男ならはっきりするべきじゃなくて?」
 妖しく、艶のある声で先輩は言う。
 先輩が片膝をソファの上に乗せた。バスタオルが上に持ち上がり、さらに太ももが露出
する。それから先輩は片手で濡れた髪を掻き上げ、もう片手で胸のバスタオルを押さえる
と、前屈みになって顔を寄せてきた。
 ボディソープの匂いが鼻をくすぐる。そして、不思議なことに、それに混じって微かに
雪の香りがした。
「ねぇ……」
 誘うような声で囁く。
 わかった。基本方針変更。
 対応は臨機応変に。
 理由。
 状況に応じて判断する柔軟性は重要。あと、僕も男だから。……って、いや、違う違う。
そうじゃないだろ!
 またも目が胸の方にいってしまう。
「……っ!」
 結び目が緩み、重力に従って垂れ下がったバスタオルの奥に何かが見えた。途端、僕の
頭は瞬く間にクリアになり、冷静さを取り戻した。
「先輩……。先輩がそういうつもりなら……」
 僕は先輩の身体を包むバスタオルに手をかけると、それを一気に取り去った。
「あ……」
 先輩の口から小さな悲鳴が漏れる。
「………」
「………」
 そこにあったのは、ショートキャミにホットパンツのリゾートセットだった。ブルーグ
レー&ホワイトのボーダ柄。ご丁寧に紐結びのストラップは解いてバスタオルの下に隠し
ていたらしい。
「やっぱり……」
「バレてた?」
 今度は悪戯を見つかった子どものような照れ笑いを浮かべて僕から離れると、ソファの
上のバスタオルを拾った。
「隙間から見えましたから」
「ちぇっ」
 拗ねたようにそう言うと、先輩はバスタオルで濡れた髪の水分を吸い取りはじめた。
 ちなみに、冷静に見ると今の格好も凄く刺激的なのだが、先ほどに比べるとインパクト
は薄い。
「と言うことは、那智くん、胸ばかり見てたんだ。……えっち」
「ぶっ……。だああっ、くだらないことばかり言ってないでとっとと寝て下さい。僕も風
呂入って寝ますからっ。いいですねっ」
 これ以上つき合っていたら身がもたん。
 僕は言い捨てると、どっすどっすとできる限りの音を立てて怒りを表現し、リビングを
後にした。
 脱衣場で服を脱ぎ、バスルームという安全圏に飛び込む。基本的に烏の行水である僕に
してはいつもの三倍くらいの時間をかけて風呂に浸かっていた。先輩がもういい加減、寝
室に引っ込んでくれたであろうことを期待して風呂から上がる。
「うあ゛……」
 着替え持ってくるの忘れた……。
 普段は僕ひとりだから、それこそバスタオル一枚で部屋まで戻ってるからなあ。
 仕方ない。先輩と出会わないことを祈りつつ走るか。
 
 さて、どうしたものか――と僕は思った。
 無事、部屋に戻ってきてパジャマに着替えて、ようやく人心地ついた。ベッドの上であ
ぐらをかいて考える。
 司先輩は少し離れた父さんたちの寝室に寝ている。座標としてはとても近い。少なくと
もz軸は無視できそうだ。こう近いとどうしても余計なことを考えてしまう。余計なこと
を考えて、自分が男だと思い知らされる。
 要するに、僕は先輩に触れたいと思っている。
 だけど、自分のそういう部分を見せて先輩に嫌われたくないとも思っている。
 何と言ってもまだつき合いだして二ヶ月程度。それでそんなことしたら、とてつもなく
ケダモノっぽい。
「っていうのに、先輩にはまいるよなあ……」
 ああ、もうっ。僕の理性が吹っ飛んでも知らんもんね。
 身体を投げ出すようにベッドの倒れ込む。
 もう何も考えずさっさと寝てしまおう――そう僕は思った。
 
 / the other side
 さて、どうしたものか――とわたしは思った。
 使ってもいいと言われたお義父さまたちの寝室の中、ベッドの上にぺたりと座り込んで
考える。
 今この瞬間、わたしは那智くんととても近い場所にいる。この部屋のドアを開け、廊下
を歩き、もうひとつドアを開ければ那智くんがいる。
 そこにいって那智くんの顔を見たいと思う。
 いや、そうじゃない。
 わたしはもっと直接的に那智くんと触れ合いたいのだと思う。
 でも、それはできない。さっき怒られたばかりだし。これ以上積極的すぎて嫌われてし
まってはどうしようもない。
「わたしがこんなにも悩んでるっていうのに、那智くんときたら……」
 あまり可愛いと、いつか強引に奪うんだから。
 ばふっ、とベッドに倒れ込む。
 もう何も考えずさっさと寝てしまおう――そうわたしは思った。
 
 僕はまたひとつ大きな欠伸をした。
 朝起きてからずっとこんな調子だ。と言うか、寝てない。
 結局、夕べは寝られなかった。いろんなことを考えすぎて眠ることができず、ようやく
睡魔に襲われた頃にはもう朝になっていた。
 普段ならいざ知らず、司先輩がいるから寝なおすわけにもいかない。つーか、そもそも
先輩がいなかったらこんなことになっていない。睡眠を要求する体に鞭打ってベッドから
立ち上がると、普段着に着替えた。
 廊下に出る。また欠伸が出た。
 廊下の先を見ると、丁度先輩も部屋から出てきたところだった。
「おはよーございます……」
「んー。おはよ……」
 途端、先輩の口から欠伸が漏れた。
 とても眠そうだった。眠くて思考が働いていないのか、欠伸を隠そうともしない。やは
り人の家じゃぐっすり寝られないんだろうな。
 僕たちはダラダラと階下に降りると、手分けして朝食を用意した。
 欠伸をかみ殺しながらの朝食。
 その後、お互いついに限界が来たらしい。結局、僕たちはエアコンの効いたリビングで
午前中いっぱい昼寝をして過ごした。
 
 
2005年9月10日公開
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。