7月のある日の昼休み――、
 千秋那智はいつも通り遠矢一夜と弁当を食べていた。
 しかし、いつも通りでなかったのがクラスメイトの宮里晶だった。
「居内さーん、砂倉さーん。あたしも混ぜて〜ん♪」
 彼女が毎日一緒に昼食をとっているメンバーが風邪で休みだったり、部活の用事で部室
に行ってしまったりで、軒並みいなかったのだ。ひとりで食べるにはあまりにも寂しいと
いうことで、いつもひっそり食べている居内加代子と砂倉千佳子のグループに合流した。
平面座標としては那智と一夜のすぐ隣である。
「ダメだぞ、サトちゃん。人の弁当に手をつけたら」
「やんないわよ。……あら、居内さんのお弁当箱、小さいのね。砂倉さんも」
 初めて見るクラスメイトの弁当箱に宮里が感嘆の声を上げる。
「そりゃあサトちゃんが標準を越えてるだけだ」
「人の弁当箱が小さく見えるってことは、あたしがよく食べるってことさ。アハハハハ……」
「うるさいぞ、赤い象の女。自虐的なネタに走ってないで、静かに食べろ」
 何かとかしましく、且つ、耳ざとい宮里と、彼女を見るとからかいたくなる那智のせいで、
ふたつのグループはいつもより賑やかな食事となり、どういう経緯か気がつけば那智と宮里
でフリースロー対決をすることになっていた。
 食後、体育館へ向かう。
 那智と宮里のふたりを先頭にして、その後ろを一夜、居内、砂倉がぞろぞろと続く。後
ろの三人は単なる見物。野次馬である。
 昼休みは自由に開放されている体育館に入ると、幸いにしてゴールはまだ空きがあった。
隅には5限目が体育なのだろう、体操服にジャージ姿が女子生徒が早めに来てお喋りをし
ていた。
 と――、
「ここで会ったが百年目よ、千秋那智!」
 気が強そうで、いつも挑戦的な顔のお嬢様。
 姫崎音子だった。
 彼女もまた体操服にトレーニングパンツのところを見ると、この次に体育の授業が控え
ているのは彼女のクラスらしい。
 
 
Simple Life
 番外編2−2 ビクトリー ネコちゃん
 
 
 …………。
 …………。
 …………。
 びしっ、と那智の鼻先に指を突きつけてポーズを決めている姫崎音子を前に、皆一様に
沈黙した。
 那智と宮里はうんざりした様子で。
 一夜は我関せずといった調子で。
 居内はその無表情な顔からは何を考えているか読めず、砂倉は何が起こっているかわか
らなくておろおろしていた。
 やがて最初の口を開いたのは那智だった。
「おい、サトちゃん、呼んでるぞ」
「何であたしなのよ!? しっかり千秋の名前叫んでたじゃないのよっ」
「そうだっけ? 悪い、記憶が飛んだみたいだ」
 どうやら那智内部で何らかのセキュリティが作動したらしい。
「逃げるなんて言わせませんわよ!」
 言うと同時に突きつけていた指が、ぶしっ、と那智の額に突き刺さる。
「ぁうちっ。……何すんだよっ」
「勝負と言っているのですわ!」
「だそうだ。思う存分受けて立ってやれ、サトちゃん」
「だから、あたしに押しつけるんじゃないっ」
「やっぱりダメか」
 ちっ、と那智は舌打ちした。
「あー。じゃあ、こうしよう。今から丁度、宮里と僕がフリースロー勝負をするところだ
から、そこに姫崎さんも加わるってことで」
「フリースロー……? 一対一ではなくて……」
 音子は出された提案を咀嚼するように、ぶつぶつと独り言をつぶやきながら思考を巡ら
せる。
「勝負はできれば個人技全般が問われる一対一でしたかったのですが……。そして、その
最中に激しく接触。そのままふたりは絡まるように転倒し、千秋那智の手が私の胸へ。そ
の感触に思わずひと言、『胸、薄っ』。私が間髪入れず頬を張って、そこからふたりは切っ
ても切れないライバル関係へと発展する……というのが理想で……」
「おい、サトちゃん。あれは一族郎党皆殺しにして、早いうちに根絶やしにしといた方が
よくないか?」
「あたしもそう思うけど、死んでも追ってきそうじゃない?」
「なるほど。確かにそれは困るな。足がないとトラベリングがとれないもんな」
 こちらで恐怖感に駆られた那智たちが犯罪くさい話をしていると、音子が限りなく妄想
に近い思考から復帰した。
「いいでしょう。今日のところはその勝負を受けますわ」
「できれば今日ですべてを終わりにして欲しいんだけどね。まあ、いきなり多くは望まな
いことにしよう」
 いちおう話がまとまり、那智は体育倉庫からボールをひとつ持ってきた。それを指先で
回しながら、ふと思いついたように訊いた。
「時に、僕が勝った場合は何かいいことあるの?」
「そう言われれば。確かにそのときのことを考えてませんでしたわ」
「うん、あれだ。自分に自信を持つことはいいことだ」
 那智は呆れ気味に皮肉を込めて言った。
「そうですわね……」
 と、お嬢様は顎に指を当てて思案する。その手首には猫の顔がプリントされたリストバ
ンドがはめられていた。
 やがて顔を赤くしながら言いにくそうに――、
「わ、私のことを『ねこちゃん♪』と呼ばせてあげても、よ、よくってよ……」
「おっけ。わかった。負けそうになった舌を噛んで死ねってことだな」
 体育館に入って約5分。ようやくフリースロー勝負がはじまった。
 参加するのは、那智、宮里、音子の三人。
 残りの三人は見学だった。と言っても、一夜は壁にもたれて本を読み、その横の砂倉は
何を読んでいるのか気になる様子でちらちらと本を覗き込んでいる。居内は本当にただ見
ているだけで、誰ひとりとして応援する気はないようだった。
「十本勝負でいい? ……じゃあ、僕からいこうか」
 那智はフリースローラインに立った。
 ボールにバックスピンをかけて自分の足元より少し前へ落とし、バウンドして返ってき
たところをキャッチする。そのときにはもう手はシュートを撃つかたちになっている。ディ
フェンダがいないので、そのままゴールを睨んで狙いを定める。
 そして、シュート。
 ボールは放物線を描いて飛び、ノータッチではなかったものの、ボードに当たってから
リングをくぐった。
「やっぱり高校のボールは重いな。まだ慣れないよ」
 イメージ通りのゴールではなかったのか、那智の口から不満の声が漏れる。
「ま、結果オーライか。じゃあ、次、姫崎さん……って、何やってんの!?」
 振り返った那智の目に飛び込んできたのは、ジャージを脱ごうとして今まさに足を抜い
ている最中の音子だった。
「安心して。履くべきものは履いてるから」
 音子はさらりと答えた。
 と言っても、ジャージの下は高校の女子生徒にしては珍しいブルマだった。
「試合のユニフォームってハーフパンツでしょ? そのせいかジャージだと調子が出ない
の。……ボール貸して」
「あ、うん……」
 その真剣な顔と口調から察するに、捨て身の冗談をやろうとしているわけではないらし
い。
 呆気に取られながら那智はボールをバウンドパスで音子に送った。受け取った音子は脱
いだジャージを行儀悪く足で蹴り出した。滑るように飛んでいったそれは居内のすぐそば
で止まる。少しの間それを見ていた居内だったが、やがて拾い上げて丁寧に畳みはじめた。
 ボールを持った音子がフリースローラインに立ち、真剣そのものの表情でゴールを見つ
める。
 その姿を後ろから那智が見守る。
 と――、
 どげしっ、と宮里がその尻に蹴りを入れた。
「なに女の子のブルマに見惚れてるのよっ」
「誰がだよっ!? 人聞きの悪いこと言うなっ。僕はそんなので喜ぶほどマニアックじゃ
ない」
 やいのやいの言い争う那智と宮里。
 それを見ながら居内が何か閃いたように、ぽん、と手を打ち合わせた。
「あー、こら、そこ。何を思いついたか知らないけど、たぶん確実に何か違ってるはずだ
から、間違っても実行に移さないように」
「…………」
 すかさず那智が釘を刺すと、居内はわずかにむっとした表情を見せた。
 そして、次の瞬間、パシッ、と小気味の良い音を鳴らしてボールがリングを通って、ネッ
トを揺らした。
 
 そんなこんなで結果は、那智が6本、音子と宮里が仲良く5本決めて、那智のひとり勝
ちとなった。
「調子がいいときには7本は決めるくせに。いったい何に気を取られてたのかしらねぇ、
この変態は」
「だから違うって言ってんだろっ。それに7本はそれこそ調子がいいときの話で、これく
らいは誤差の範囲だろうが」
 負けたのが悔しかったのか、再び宮里が食ってかかる。
 そして、もうひとりの敗者はというと――、
「ふん。こんなものは所詮単なるシュート勝負。しかも、十本程度では運の要素も絡んで
きて純粋な実力とは言えませんわ。純粋なシュート力を競うなら一万回は投げないと」
 見事な負け惜しみっぷりだった。
 音子はそれを体育館の床に座り込んで、ジャージに足を通しながら言う。そんな珍しい
光景を目の当たりにしているせいか、那智は何となく拍子抜けして強く言い返す気になれ
なかった。
「これくらいで勝ったと思わないことね」
「はいはい。わかったよ。これに懲りずにまたおいで」
 苦笑しながらそう言った。
 
 その日の放課後――、
 那智の本日の下校は普段に比べて随分と遅いものだった。
 なぜそうなったかというと、朝の小テストの結果が悪く、すべて正答できるまで残され
ていたのだ。問題が難しくて手がつけられなかったわけではない。ちょっとした思い違い
にとらわれたままそこから離れられず、ずっと見当違いの解法を用いていたのだ。それに
気がついたときには、すでに最後のひとりになっていた。
 結局、いつもより一時間半ほど遅くなって、時間は五時半を回っていた。初夏の空はま
だ明るいが、雲が多く、今にも泣き出しそうだった。
 こんな時間ではさすがに誰もいない。
 と思っていたら、昇降口で姫崎音子とばったり会った。
 すわ待ち伏せかと身構えたが、靴を履き替えているところを見ると、彼女も今から帰る
ところのようだ。何かの事情で遅くなったのだろう。
 目が合った。
「こんな時間に勝負とか言うなよ」
「言いませんわよ。私も早く帰りたいのに」
 不機嫌そうにそう言った。
 何か気分を害する出来事があったのだろうか。それともハイテンションお嬢様の姿は世
を忍ぶ仮の姿で、実はこれが彼女のデフォルトなのだろうか。さて、どっちだろう、と測
りかねている那智の前で、音子は学校指定の革靴に足を突っ込み、さっさと昇降口を出て
いってしまった。
 那智も続けて外に出る。
 駅までの道。
 前を音子が歩いている。間はもとより、前にも後ろにも人はいない。ふたりだけ。何と
なく微妙な状況(シチュエーション)だった。
 音子とクラスメイトかそれと同等程度に仲が良かったら、もしくは、もう少し彼女の機
嫌が良さそうであれば、駆け寄って横に並んでもいいのだが、今はそれも躊躇われた。結
局、那智が後ろを歩くかたちになっている。
「別に後をつけてるわけじゃないぞ?」
「……わかってますわよ」
 落ち着かない状況に耐えかねて那智が後ろから言ってみるが、返ってきたのはそれだけ。
それ以上の会話は続かなかった。
 と――、
 ポツリ、と那智の頬に何かが降ってきた。
 見上げる。
 雨だった。それも大粒の雨の雫。とうとう降ってきたらしい。雨に打たれたアスファル
トがまだら模様を描いていたのは一瞬で、すぐに雨は本降りになった。
 傘を持っていない那智はと咄嗟に駆け出した。前を歩いていた音子の横をすり抜け、追
い越していく。
「あ……」
 後ろから駆け抜けていった那智を見て、音子がかすかに声を上げた。
 そして、すぐに自分も走り出した。
「さては挑戦ね! これは私に対する挑戦と受け取っていいのね、千秋那智!」
「アホかーっ!」
 走りながら叫ぶ那智。余計な部分を刺激したようだ。
 どうやらかなり凶悪な積乱雲が上空にいるらしい。にわか雨はまるでバケツをひっくり
返したような有様だ。
 那智はここから駅までの道のりを思い浮かべてみた。
 ……ダメだ。雨宿りできそうな場所はない。このまま駅まで走るしかないらしい。きっ
と着いたときには全身ずぶ濡れになっているに違いない。
 と、目の前に電話ボックスが見えた。
 ここぞとばかりに那智が飛び込む。
「姫崎さんもっ」
「え……? ええ」
 言われるがままに音子も中に入った。
 那智が手を離し、扉が閉まる。
 ここなら雨はしのげる。天気予報でも言っていなかったくらいのにわか雨だから、すぐ
にやむだろう。ふたりは電話ボックスの枠にもたれて、乱れた息を整えた。
 ようやく見つけた雨宿りの場所に、那智はわずかばかりの後悔を感じる。
 電話というものは、回線の向こうの話し相手を除けば、基本的にひとりでするものだ。
ゆえに電話ボックスはふたりで入るようにできていない。要するに狭いのだ。
「近いな……」
 那智は音子に聞こえないくらいの声でつぶやいた。
 音子が扉に、那智がそこから九十度座標を写した位置にもたれているが、肩が触れそう
だった。
 さらに――、
「ッ!?」
 さらに状況を気まずくする事実に気づいて、那智は弾かれたように音子から首ごと顔を
背けた。
「どうしたのよ?」
 そんな那智の様子に不振なものを感じたのか、音子が怪訝そうに訊く。
 那智は黙って、音子を指さした。
「???」
 音子は視線を自身の身体に落とす。
 白のブラウスが雨に濡れて肌に張りつき、高級そうな意匠のブラジャーがうっすらと透
けていた。
「…………」
 音子は右腕で体を抱くようにして、黙って胸を覆った。
「…………」
「…………」
 重い沈黙が狭い電話ボックスを満たす。
 那智の目の前で雨の滴が透明な枠を伝って滝のように流れていく。反対からはじっとこ
ちらを見ている音子の視線を感じた。振り向かないように監視しているのだろうか。これ
ならいっそ開き直って外に飛び出した方が楽な気がしてきた。
「ねぇ、あなた」
 不意に音子が発音した。
「身長、いくつ?」
「……はい?」
 唐突な質問に那智が思わず振り返った。が、すぐにまた戻ってくる。
「160だけど?」
「そう。私も丁度160なんだけど……」
「…………」
「私の方が少し高いように感じたのは、気のせいみたいね」
「…………」
 接近したとは言え、微妙な差異を感じ取るとはなかなか鋭敏な感覚をしている。那智は
黙秘権を行使することにした。あればの話しだが。
「…………」
「…………」
「ねぇ」
「……ん?」
 応える那智は、今度は鉄の意志を持って首を動かさなかった。
「本当に160?」
 視界の隅に音子の顔が現れた。距離が近くなったようだ。無論、那智は動いていないの
で音子の方が近寄ってきたことになる。たぶん、追求のために。
「えっと……」
「本当に160なのね?」
 さらに顔を寄せてくる。
「実は159……かも……」
 それに耐えかねて、ついに那智は白状した。
 瞬間、音子がニヤリと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「勝ったわ、千秋那智! 私の方が1センチ高いわ!」
「うお、危ね……っ」
 音子はいつものように指を突きつけてポーズを決めたかったのだろう。勢いよく腕を伸
ばす。しかし、ここは狭い電話ボックス。那智は顔に向かって飛んでくる手を、身を沈め
て避けた。
 ぐぎょっ、と自らの手を電話ボックスの淵に叩きつける音子。
「いった……。何でよけるのよ!?」
「よけなきゃ当たるだろっ」
「ふ、ふふ、ふふふっ。まあ、いいわ。ついに私が勝ったのですから」
 打ちつけた手を握り締め、痛くて涙を浮かべているくせに嬉しそうに笑っている姿は、
端から見ても壮絶なものがあった。
「いや、そういう努力でひっくり返らない数字で負けても、別に僕は悔しくな……、あー、
まあ、いいか」
 那智は言いかけた言葉を飲み込んだ。
 うまくすればこれで縁が切れるかもしれないと思ったのだ。
 
 
2006年7月8日公開
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。