1.一日目・昼
2年ぶりに日本に帰ってきた翌日――
僕は懐かしの我が家のリビングでくつろいでいた。
父さんの転勤はまだ続いていて、母さんともどもいなかった。帰宅の報告は、昨日、電話ですませた。相変わらず忙しいらしく、すぐには戻ってこられないとのこと。早く顔を見たかったけど仕方ない。
結局、以前の半分ひとり暮らしの状態に戻ったようなもので、これはこれで懐かしくはある。
玄関チャイムの音が耳を打った。
僕はソファから立ち上がり、インターホンを手に取る。
「はい」
『あ、那智くん? わたし』
司先輩だった。
「すぐに開けますから」
そう返事をしてから玄関へと向かう。今日はまだ外に出ていないのでかかったままになっていた鍵を開け、ドアチェーンを外す。
「どうしたんですか、急に……って……」
ドアを開けると司先輩がいた。
――でっかいカバンを持って。
「……」
今僕が見ている映像と、二年前の夏休みの思い出が重なった。
「大丈夫よ、心配しなくていいわ。お義父さまとお義母さまの許可は頂いているわ」
「……アア、ソウデスカ」
いつも通り無駄に積極的で、いらんところで段取りが良かった。
呆気にとられる僕の横を、先輩は涼しい顔ですり抜けて家の中に入っていった。
「……」
この感じだと前みたく一日だけってわけじゃなさそうだし、そろそろ僕も覚悟を決めた方がいいですか? ……てか、ぜんぜん心の準備ができてないんですけどもー。
これからどうなるんだろうな……?
2.一日目・夜
夜が更けていく。
「………」
ヤバい。むちゃくちゃに緊張してきたぞ。
夕食はすでに終えて、今はリビングのTVを見ている。実際に見ているのは僕だけで、司先輩は家から持ってきた雑誌を読んでいた。その僕にしても、極度の緊張からTV番組の内容なんてぜんぜん頭に入っていない。
やっぱり男として僕からアプローチした方がいいですか? いや、それ以前に先輩がどういうつもりかわからない以上、相手の出方を待つ……って、それもどうだろうな?
ううむ……
結局、先輩の様子を窺いつつ柔軟(フレキシブル)に対応するのがいいのだろうけど、それが簡単にできるようなら苦労はないわけで。
「那智くん、お風呂に……」
「おお、そうか。風呂! その手があったかっ」
って――
なに言ってるんだ、僕。外部刺激に脊髄反射したせいで、先輩がきょとんとした顔してるじゃないか。
「いえ、何でもないです」
お騒がせしました。
「そう。わたし、先に入ってくるわね」
「えっと、じゃあ、僕は……」
僕は……、何だ?
ここで待ってます、なんてわざわざ言うようなことじゃないし。部屋に戻ってます、だといらぬ誤解を招きそうだ。
で、結局――
「どうぞ。ごゆっくり」
さっき言いかけた言葉はなかったものとした。
リビングから先輩に姿が消える。
先輩が戻ってくる様子がないことがわかると、僕はようやく緊張から解放されて深い安堵のため息を吐いた。
とは言え、問題はこれからだ。
まあ、なるようにしかならない、というのが結論なんだろうけど。
ソファの上で胡坐を組んで、クッションを抱えたままTVを睨む。考え込んでいるとも、TVを見ているともつかない状態だ。
そして、まもなく時計が一周回ろうかという頃、
「お待たせ」
先輩が風呂から上がって、リビングに戻ってきた。
お待たせ? お待たせって何ですかっ!?
「先に入らせてもらったわ。那智くんもどうぞ」
ああ、そういう意味ね。なんか、もう、あれだな。僕、完全に思考が全部そういう方向にいっちゃってるな。
「それじゃあ……」
と、僕は先輩に振り返ろうとして、瞬間、思いとどまった。
前回、とんでもない格好で現れた前科があるからだ。
あのときは結論から言って悪ふざけですんだけど、今回も同じ格好だった場合、それはいろいろと本気なわけで。そんなの不意打ちで直視したら、僕、たぶん死ぬぞ。
心の準備をしてから、頭の中で三つ数えて振り返る。
「……」
そこにいた先輩は、薄いブルーのパジャマに、それよりも濃い色のカーディガンを羽織っていた。……あー、うん。今は二月で寒いからね。
「どうしたの?」
きっと僕が複雑な顔をしていたのだろう、先輩は小首を傾げて聞いてきた。
実際、心境としては複雑だった。ほっとしたのとがっかりしたのが、4:6くらい。……がっかりの方が多いな。
「僕はもうちょっとしてから入ります」
なんだか力が抜けて、今すぐに動く気にならなかった。ぶっ飛ぶ準備をしていた理性もすっかり腰を落ち着けて、一気に冷めてしまってる。
と――、
いきなり先輩が僕の横に腰を下ろした。
……近い。
部分的には体表面の距離が零になっている。
「せ、先輩? ちょっと近くないですか?」
「そう? わたしはもっと近づきたいんだけどな」
そう言って先輩は僕の肩に頭を乗せてくる。
つまり、それは……と、言葉の意味するところを考えようとするが、風呂上りの体温とかシャンプーの香りとかが邪魔をして、頭が回らない。
つーか、考えることなんてないじゃないか。
「先輩……」
「那智くん……」
僕らはソファに座ったまま身体をひねり、向かい合った。
そっと先輩の肩に手を置く。
あとはこのまま先輩を引き寄せて……
と思ったそのとき、玄関チャイムが鳴った。なんてタイミングの悪い。僕らは苦笑いをした。
「はい」
僕はインターホンで応対する。
『よっ、なっち。アタシ。遠矢っちもいるよ〜ん』
懐かしい円先輩の声だった。
「円先輩と一夜でした」
そう言って振り返ると、司先輩は脱力したようにソファに倒れ込んでいた。そして、ひらひらと掌を振りながらひと言――、
「もう好きにして……」
3.二日目・夜
司先輩が押しかけてきて二日目――
夕食を終えてリビングで一服した後、僕は自分の部屋へ、先輩は父さんたちの寝室へそれぞれ戻った。先輩は寝室としてあの部屋を、勉強などで必要なときは父さんの書斎を使っている。
お風呂に入る、とドアの向こうから先輩がひと声をかけて階下に下りていったのが一時間と少し前くらい。僕が気づかなかっただけで、もしかしたらもう上がっているかもしれない。
この後はどうするんだろう?
昨日、邪魔が入ったし、今日こそは……ってことになるんだろうか。
と、そのときドアが控え目にノックされた。
あまりにもタイミングが良すぎて、身体がびくっと跳ねた。
「は、はいっ」
応える僕の声はかすかに上ずっている。
「あ、えっと……。ちょっといい、かな?」
そして、先輩の声はノックと同じく控え目だった。
何かするわけでもなくパソコンを触っていた僕は椅子から立ち上がり、無意味な時間稼ぎをするようにゆっくりとした足取りでドアへ向かった。
開けると先輩が立っていて、僕と目が合うとすぐにうつむいて顔を逸らしてしまう。
風呂上りの先輩は当然のようにパジャマ姿だった。正面から見るのは初めてかもしれない。ゆったりめのパジャマの、襟の合わせに思わず目がいってしまう。
「えっと、あのね……」
顔を伏せたまま先輩は言いにくそうに言葉を紡ぐが、すぐに途切れてしまった。
次の言葉を待っている僕はというと、心臓がバックンバックンいっていて、口を開いたらそこから飛び出してしまいそうに思えた。
ふたりとも黙り込む。
僕の背後、部屋の中でつけっぱなしのTVからの音楽番組が唯一の音らしい音だ。
やがて――、
先輩が静かに口を開いた。
「部屋、入ってもいい、かな?」
き〜た〜〜〜!
よ、よし、落ち着け、僕。ここは余裕をもって対応するんだ。
一度、静かに深呼吸する。
「ど――」
どうぞ。そう言いかけた瞬間――、
玄関チャイムが鳴った。そして、少し間をおいて階下から勢いよくドアの開く音が聞こえてくる。
「おーい、那智ー。帰ったってー? 上がるぞー」
紗弥加姉の声だった。
すでに司先輩は、ドドドドド、と脱兎の如く一目散に廊下を走って逃げていった。 |