今ひとつ意味の感じられない入学式が終わり、遠矢一夜は教室に戻ってきた。尤も、こ
の教室に入るのは初めてなので、“戻ってきた” という表現は今日だけは正確ではない。
 黒板に張られた座席表を見て自分の席を探す。順に辿っていると、先に千秋那智の名が
現われ、直後に自分の名があった。席は前後に並んでいる。
 千秋那智――
 彼とは、入学試験のときに席が隣同士となり、その後、街の書店でばったり再会した仲
である。一夜から見て彼は、無闇に明るくて子どもっぽく、そして、わけもなく気になる
存在だった。本来希望していなかったこの特別進学クラスに進んだのも、彼がいるからだ
と言っていい。
 
 
Simple Life −past time−
  01 Who's that boy?(2)
 
 
 その千秋那智が教室に入ってきた。
 一夜同様、黒板の座席表を見てから自分の席へと向かう。席に辿り着く数歩手前でつい
に一夜に気がついた。
「ああっ! キミはあのときの親切な消しゴムでサングラスの人!」
「………」
 その言い方は大雑把すぎるが間違っていないこともない。正確な表現に戻すには訂正箇
所がありすぎてどこから指摘したものか迷い、結果、黙り込んでしまった。
「え〜っと……」
「……遠矢」
「ああ、そうだったそうだった。遠矢だったよね」
 そう言うと那智は机の上に鞄を投げ出し、椅子に横向きに座った。
「遠矢って通常クラスじゃなかったっけ?」
「繰り上げ合格。入試のときの成績が良かったらしいな」
「うおぉ、マジ? すごいなぁ」
 那智は盛大に感激した。
 どうやら彼はその時どきの感情を表現することに躊躇いのない性質らしい。反対に一夜
はそれを表にすることを好まない質である。
「僕はどうだったんだろ? 点数が出るわけじゃないからわからないけど。きっとギリギリ合
格だったりするんだろうなぁ」
「入ってしまえばそんなもん関係ないわ。繰り上げもギリギリも補欠合格も一緒。いちい
ち言わん限りわからん」
「そりゃそうだ」
 一夜の言葉に同意すると、那智は子どもっぽい笑顔を見せた。
「因みに、その他の特典は?」
「……もれなく入学金免除」
「げ。それってほとんど特待生扱いじゃん」
 今度は目を丸くした。本当にころころと表情がよく変わる。
「ホンマの特待やったら学費も免除になっとるわ」
「いや、それでもタダになる額は大きいよね。バカにできない」
「そうか?」
「そうかって……。もしかして遠矢の家って、お金持ち?」
「らしいな」
 思わず吐き捨てるように言ってしまった。
 一夜にとって家の話題はどう転がっても面白いものにはならないので、どうしてもそれ
が態度に出てしまう。
 しかし、那智にはそれは気にならなかったらしい。
「なに、その無関心さ」
 代わりに目が向いたのはこちらだった。
「俺、愛人の子やから」
 一夜はさらりと言った。
「母親が死んで、父親のところに引き取られたのがちょっと前。そんなんで家に愛着も感
心もあったもんやないわ」
 しかし、これはイーコール一夜が父親を軽蔑しているという意味ではない。正妻に隠す
ことなく堂々と愛人を三人も作っている男ではあるが、正妻ともども愛人たちもしっかり
養っているし、できた子に愛情を注いでもいる。勿論、それが立派だとは思わないが、軽
蔑するつもりもない。
「それはまたちょっぴりハードな感じの家庭の事情だよね」
 那智は困ったような顔をして苦笑いを浮かべた。
 直後、担任の教師が入ってきて、一夜の高校初の那智との会話は打ち切られた。
 
 それから数日後の昼休み――、
 一夜はいつも通り家から持ち出してきた文庫本を読んでいた。昼休み終了の予鈴五分前
のことである。
「遠矢、遠矢。ついに見ちゃったよ」
 やや興奮気味に那智が教室に戻ってきた。一夜の前の自分の席に、これまたいつも通り
横向きに腰を下ろす。
「UMAでもおったか?」
「そんなんいるかっ。……まあ、もうすぐUMAの域に到達しそうなでぶ猫はいるけどね」
「ほう」
「いや、それはおいといてさ」
 開始直後に早くも脱線の兆しを見せた話を、那智は自ら元に戻した。
「片瀬先輩だよ、片瀬先輩。知らない? 今日初めて見たけど、すっごい可愛いの。もう
人形みたい」
 そう言うと少し前に見た映像を頭の中でリピートしているのか、那智は夢見心地な表情
を浮かべた。
「……それ知らんかったわ」
「うそっ!? けっこう有名な話だよ。知ってる奴は入学前から知ってて、片瀬先輩目当
てに受験したって奴だっているらしい。しかも、先輩、受験日当日に何かの用事で学校に
来てて、うっかり見てしまった奴は試験に手がつかなかったって話だ」
「やっぱりUMAか」
 そこまでいくと立派な都市伝説である。
「失礼なこと言うなっ」
 那智がやけに喰ってかかる。
「いいから一度見てみろって。ホント可愛いから。あれで愛想もいいっていうし、僕も一
度挨拶だけでもしてみようかな。そしたら……」
 不意に那智が言葉を止めた。
 代わりに、微かに妙な音が聞こえる。
 チキチキチキチキ――
 何かと思えば、那智の隣の席、今現在の彼の正面にいる女子生徒がカッターナイフの刃
を出している音だった。いったいどう使うつもりなのか、通常の使用方法では考えられな
い長さにまで刃が伸びている。
「………」
「………」
「………」
 おもむろに那智が座る向きを百八十度変えた。その女子生徒に背を向ける形になる。
「どうした?」
「い、いや、別に」
 不可解な行動の意味を問う質問だったのだが、返ってきたのは曖昧な返事だった。
「兎に角、見ておいて損はないから」
「興味ない」
 那智の言葉を突っぱねるように一夜は応えた。
「えー、何で? 女の子が気になったり、好きになったりしない?」
「しない」
 またも一夜は間髪入れず返した。
「前に言うたやろ? 俺の家の話。そのせいで周りからあまりええ扱いは受けてこんかっ
たしな。そんなんで他人に興味なんか持つ気にもならんわ」
 愛人の子だ何だと後ろ指を差されてきた一夜は、小学六年のときに母親と死別すると、
その土地の旧家であり、事業家の父親に引き取られた。しかし、そうなったところで今度は
嫉妬とやっかみが加わるだけで、陰口を叩かれることには変わりはなかった。
「あー、そりゃ軽い人間不信だね。気持ちはわかる。半分くらいは」
 那智は腕を組んで、うんうん、と頷いた。真剣なのかそうでないのか判じがたい態度で
ある。
 そして、当然、一夜はそれをふざけていると判断した。
「……わかられてたまるか」
「わかる」
 互いの主張が真っ向から対立し、しばし睨みあう。
 やがて――、
 すっ、と那智が顔を寄せてきた。まるで内緒話をするように声のトーンを落とし、口を
開いた。
「実は僕は捨て子だ」
「………」
「疑うなら教会に聞いてくれてもいいぞ。僕、あそこに小五の途中までいたから」
 そこまで言って那智は離れた。
「幸い僕は最初から親の顔を知らないから、遠矢みたいに死に別れることもなかったけど、
差別と偏見はあった。そこは一緒だ」
 だから、気持ちはわかる。と、そう繋がるのだろう。
「でもさ、周りにそういう奴がいたからって自分以外の人間をひと括りにするのはどうな
んだろ。敵と同じくらい味方はいると思うんだよね。実際、僕はそうだったし」
「………」
 なんなんだ、こいつは。それが一夜に素直な感想だった。
 親を知らないから死に別れる辛さも知らない。だから、自分の方がまだマシだと言うの
か。そんなバカな。どう考えたってそっちの方が不幸ではないか。
 その那智が周囲に味方を見出せるのなら、今までの自分は何だというのだろう。
 一夜にはそれができなかった。
 周りは程度の低い奴らばかりだと、そう決めつけてしまった一夜にはそういう考えに及
ばなかった。考えることすら放棄していた。
「………」
 そこまで考えてようやくわかった。
 那智は、一夜がなれなかったものなのだ。
 一夜がならなくてはいけない姿を、似た境遇である那智はしっかりと捉え、それになっ
ていたのだ。
 でも――、
「今更そんな気にはならんわ」
「諦めるの早っ。この歳でもう諦めるのかよ。見た目は年上っぽいのに、中身はさらに老
成してやがるな、さては」
「……ほっとけ」
 確かに今更周囲に対する見方を変えようとは思わない。
 しかし、この那智だけは大事にしたいと思う。彼を自分以上に大事にできたなら、そこ
から何か変われるような気がしていた――
 
 
2006年4月5日公開
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コメントへのお返事は、後日、日記にて。