一夜の授業態度はすこぶるよろしくない。
 いつでもどんな授業でも本を読みながら聞いているのだ。読んでいないのは、体育の時
間か小テストのときくらいなものだろう。
 こういう態度が許されているのは単に半特待生という立場のためだけではなく、先生に
名指しされたらちゃんと正解を答え、小テストなどでも文句のない成績を出しているから
だ。当然、これで一度でも「わかりません」と答えようものなら好き勝手をやれる立場は
失うだろうし、自分でもそんな資格はないものと思っている。
 
 
Simple Life −past time−
  01 Who's that Boy?(3)
 
 
 ふと本から顔を上げた。
 目の前に千秋那智の頭がある。柔らかそうな猫毛。しかし、その頭は今、ゆらゆらと揺
れていた。
 現在、7限目。
 授業は英語のリーダ。
 教壇に立つは発音も怪しい定年間際の老教師。教科書をただなぞるだけの授業は面白く
ないと評判だ。那智が眠くなるのも無理はない。
 そういえば授業がはじまる前、那智が「僕が寝ていたら起こしてくれ」と言っていたの
を思い出した。
 一夜は読みかけの本に栞を挟んだ。
 ペンケースを覗き込んでみる。が、小学生ではあるまいし、残念ながらコンパスは入っ
ていないかった。代わりに輪ゴムを見つけた。何かを束ねるのに使った後、用なしになっ
てここに放り込んだままにしてあったのだろう。
 一夜は輪ゴムを左の親指と人差し指に渡すように引っ掛けた。続けてそこにノートの切
れ端を数回折りたたんだものをセットする。
 即席のパチンコだ。
 そのまま手を伸ばし、ほとんど那智の頭に接触するような状態でゴムを引き絞る。
 そして、指を離した。
 ゴッ――
 さすが零距離射撃。紙の弾にしては重く鈍い音がした。
「でっ!?」
 那智の口から小さなうめき声が吐き出された。
 席が近い何人かが那智の方を向いたが、彼はテキトーに誤魔化したようだ。
 それから、那智が一夜に振り返った。
 しかし、一夜は肩をすくめただけだった。
 
 直後の放課後――、
「あー。酷い目に遭った」
 ふたりは学食に向けて歩いていた。
 目的は飲みものの調達。
 この後、班の話し合いがあるのだが、今は掃除をしているで教室は使えない。それまで
の暇潰しみたいなものだ。
「いや、起こしてくれと頼んだのも僕なら寝たのも僕なんだから、あまり文句は言えない
んだけどさ」
 それでもやっぱり何か言いたくて仕方がないようだった。
 程なく学食に着いた。
 一夜と那智は、それぞれ缶コーヒーとブリックパックの乳飲料を買った。
「こうなると何か食べたくなるよね」
 とは言っても食堂はもう閉まっている。平日の昼休みと土曜の放課後の昼時しか営業し
ていないのだ。
「そうだ。帰りに例のたこ焼き屋が開いてたら寄って帰ろうか?」
「そうやな」
 一夜は同意する。
 学校に近い駅の前には気まぐれなたこ焼き屋がある。屋台のような小屋みたいな作りの
店で、定休日不明、というよりは、開いているときの方が珍しいので、むしろ営業日が不
明と言うべき状態だ。
 今まで人嫌いのままで生きてきた一夜は、ずっとこのような誘いやつき合いを断り続け
てきた。しかし、那智ならば、と思う。
 つまり、一夜にとって那智はそういう存在だった。
「たこ焼きってさ、ひとりで買いに行っても、爪楊枝2本つけてくれるよね。あれって何
だろ? なんか独特の作法なのかな?」
「あれは2本で食べるのが正しい」
「嘘!? 何それ!?」
 那智は心底驚いたように、悲鳴じみた見た声を上げた。
「1本刺しただけやったら回転するやろ?」
「……するね。口に持っていった瞬間にくるっと回るから腹が立つんだ」
「でも、2本なら回らん。それだけの話」
「うわあ、カルチャショック……」
 なかなか安いカルチャショックである。
 買うものも買ったので一夜は歩き出す。後ろからはしきりに「そうだったのかぁ」「知
らなかった……」と感嘆の声をこぼしながら那智がついてきている。
 そんな那智の言葉にはテキトーに相づちを打っておいて、一夜はブレザーの内ポケット
から本を取り出した。
 足は自然に最短ルートを取る。
 本来、上履きで下りてはいけない場所だが、コンクリートや金属製の溝の蓋の上を通る
ことで罪悪感を軽減する。
 特別教室が集まる校舎付近に差し掛かると、女子生徒の黄色い声が聞こえてきた。上級
生だろう。視界の隅にはこちらに向かって手を振る姿も映った。
 またか……。
 うんざりして一夜はそちらからの聴覚情報をカットした。勿論、視線は本に落としたま
まで、そちらは見ない。
「あいかわらず人気ものだな」
 そして、那智の声だけを拾う。
「ウザいだけや」
「贅沢な奴」
 しかし、一夜は那智の言葉を、ふん、と鼻を鳴らして一蹴した。
 だいたいにしてそう言っている那智にしても一夜とは正反対の要素で上級生からそれな
りに人気があるというのに、本人は未だ気がついていない様子だった。
「ねえ、遠矢。僕の話聞いてる?」
 言いながら那智が顔を覗き込んでくる。
「聞いとるし、ちゃんとこうして返事もしとる」
「まあ、そうなんだけどさ。無視されてるみたいで何かつまんな〜い」
 今度は前に回り込んで、こちらに身体を向けたまま後ろ向きに歩き出す。ちらと顔を上
げると、その顔を尖らせて拗ねているようにも見えた。
「知らん。そこまで面倒みきれんわ」
「むぅ」
 本当に拗ねてしまったのか、那智は黙り込んだ。
 が――、
「こうなったら実力行使だっ」
 そう言うと同時に飛びかかり、一夜の腕にしがみついてきた。足を地面から浮かし、完
全にぶら下がる。
「…………」
「…………」
「…………」
「……おい」
 と言ったのは那智の方。
「そんなふうにぶら下げたまま軽々と歩かれると、僕の立つ瀬がないじゃないか」
「…………」
 決して軽々というわけではないのだが、重くて歩けないほどでもないというだけのこと
である。しかし、このまま教室まで帰るとなると、さすがに疲れそうだ。途中には階段も
ある。
 そう考えている間も足を交互に動かして、那智を釣り下げたまま前へ進む。
 傍から見ると、むしろ足が地面に着かないようにしている那智の方が辛そうなのだが。
「わかった。歩いてるときくらいやめとこか」
「うん。そうして欲しいぞ」
 言うとようやく那智は足を下ろした。
 腕から重さが消える。
 さすがに人ひとりをぶら下げていた腕は疲労していて、一夜は本をブレザーの内ポケッ
トにしまってから肩をぐるりと回した。
 昇降口を通って校舎の中に戻る。
 ふたつあるうちの手前の階段に差し掛かったとき、廊下の隅に段ボール箱が置いてある
のを見つけた。一夜も那智も、見慣れた風景の中の異物に怪訝なものを感じながら歩を進
める。最接近したところで足を止めて観察してみると、中には統一感のない雑多なものが
放り込まれていた。丸めた画用紙も10本近く刺さっている。
 何だこれは、と思い、今度は階段を見上げてみると、疑問の半分ほどが氷解した。
 そこには女子生徒がふたり、協力してひとつの段ボール箱を運び上げている最中だった。
たぶん、ここまではひとりひとつずつ持ってきたのだろう。
 と――、
「これ、上に持っていったらいいんですかー?」
 那智が女子生徒らに向かって声をかける。
 ふたりが同時に振り返った。
 ひとりはショートカットの利発そうな女の子。もうひとりはセミロングの髪に、ふわふ
わした雰囲気の子だ。おそらく2年だろうと一夜は見る。
「え? まぁ、そうだけど……?」
 返事をしたのはショートカットの子。
「だそうだ。遠矢、やるぞ」
「俺もか?」
「当たり前だろ。何だよ、やれない理由でもあるのか?」
 少しむっとした顔で那智が見返してくる。
「……ないな」
「だろ? じゃあ、遠矢はそれを頼む」
 言うが早く那智は階段を駆け上がる。
「手伝いますよ、貸してください」
「え? でも、けっこう重いし」
「大丈夫ですよ。……ほらね」
 那智は階段の中ほどで、やや強引に段ボール箱を受け取った。
 仕方ないので一夜も廊下においたままになっている方を持ち上げた。実際に持ってみれ
ばそれほど重くないことがわかる。ここまで女子生徒がひとりひとつずつ持ってきたのだ
から、当然といえば当然か。ただ、足元が見えないこともあって階段は危険そうだ。
 一夜はそれを抱えて階段を慎重に登る。
「悪いわね。いつもならこんなの片手で持ちそうな大女がいるんだけど、何の冗談か風邪
を引いて休んでるのよ」
「それはあれですか。鬼の霍乱ってやつ?」
「いいね、それ。ぴったりだわ」
 上からそんな会話が降ってくる。
 踊り場までくると、セミロングの子が立ち止まっていた。ぼうっとした様子で先に行っ
たふたりを見上げている。那智の強引さに呆気にとられたのかもしれない。
 一夜はその女子生徒の横をすり抜け、残り半分を上がった。
「ありがとう。助かったわ」
「いえいえ。これくらいどうってことないですから」
 結局、段ボール箱は2階に運んだだけで終わりだった。二、三言葉を交わして上級生ふ
たりと階段で別れた。
 一夜と那智はそこからさらに3階へと上がる。
「いちいち面倒なことに首を突っ込む奴やな、お前も」
 階段の半分、踊り場まできたところで一夜は呆れたように言った。
「そう? 向こうが困ってる。こっちはそれができる。やったところで特に不都合はない。
だったらやらない理由はないんじゃないか?」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ。それに気持ちいいだろ? 誰かのために何かをして役に立つって」
 その言葉を体で示すように、那智は階段を軽快に登っていく。
 しかし、一夜は思う。おそらく那智は教室に辿り着く頃には、たった今施した親切も忘
れているのではないだろうか、と。それくらい当たり前に組み込まれているような気がす
るのだ。
「ん? そろそろ掃除も終わったかな?」
 階段を登りきり、廊下の少し先にある教室を見て那智が言う。
「班の話し合いってのは明らかに面倒なことの類だよね。さっさと終わらせて早く帰りた
いもんだ」
「そうやな」
 その点に関しては素直に同意できた。
「たこ焼きが僕らを待ってるぜぃ」
「店が開いてたらええけどな」
「うあ゛……」
 途端、那智は絶望の淵に突き落とされたような顔になる。
「僕、遠矢のそういう現実的なところが嫌いだ……」
「そうか」
 恨めしそうに言われても、やっぱり一夜は素っ気なかった。
 
 
2006年10月18日公開
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コメントへのお返事は、後日、日記にて。