昼休みも終わりに差しかかった頃――、
 あいかわらず遠矢一夜は本を読んでいた。
 前の席では千秋那智がクラスメイトと一緒に喋っている。メンバは宮里晶と、男子生徒がもうひとり。そっちの方はまだ名前を覚えていない。もう入学して1ヶ月が経つが、顔と名前が一致しないクラスメイトが何人かいる。彼もそのひとりだ。
 一夜は本を読みながらその会話を何となく聞いていた。
 一夜はいくつかの作業を同時に処理することができる。読書とヒアリングの同時進行は比較的容易い部類の組み合わせだ。
 
 
Simple Life −past time−
  01 Who's that Boy?(4)
 
 
「やっぱ片瀬先輩だろ、文句なく」
「それは僕も同意だ」
「男子は圧倒的に片瀬先輩よね。確かに悪くはないと思うけど」
「サトちゃん的には違うんだ」
「サトちゃん言うなっ。……そうね。同性なら可愛いよりは美人で、大人っぽくて、背が高い人に憧れるわね」
「因みに、該当者はいるの?」
「女バスの主将。スタイル抜群の迫力美人だから一度見ておきなさい」
「よし。今度チェックに行くか」
「お前は誰でもいいのか……。僕は誰がなんと言おうと片瀬先輩だなぁ」
「ふふん〜。千秋ったら、自分が小さいから背の高い女の子にコンプレックスがあるのね」
「うるせぇ。そりゃあ気にしてないわけじゃないけど、そんなこと言い出したらサトちゃんとだって歩けなくなるぞ」
「俺はぜんぜんオッケーだっ」
「いや、もうわかったから……」
 と、そこで昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。本鈴までまだ5分あるが、彼らはそれぞれ自分の席に戻っていった。
 残ったのは元から着席している那智だ。
「くだらん話しとんな」
 一夜が言うと、那智は椅子に横向きに座りなおした。一夜と那智がおしゃべりをするときのスタンダードな体勢だ。
「何を言うか。実に高校生らしい会話じゃないか」
「……かもな」
 口先だけで同意する。
 実を言うと先のような話は一夜の理解の範囲外だった。男女間の好きだ嫌いだ恋愛だといった話に興味が向かないのだ。
 その一夜が初めて好意を抱き、何よりも大事にしたいと思った相手が目の前にいる少年なのだが、勿論、それを誰かに言ったことはないし、それが見方によっては平均よりもやや離れていることも自覚していた。
「因みに、遠矢の好みの女の子ってどんなタイプ?」
「さぁな。考えたことないわ」
「遠矢ならそれこそ大人っぽい女の子が似合いそうだよね。いっそのこと年上でもいいかもしれない」
 うん、と那智は満足げに頷く。
「興味ないわ」
「む。面白くない奴」
「ほっとけ」
 そこでついに本鈴が鳴った。
 それを合図に那智が身体を前に向け、おしゃべりは終了した。
 那智の背中を見ながら、一夜は軽い自己嫌悪を感じていた。
 もう少し話を合わせられないものか、と我ながらに思うのだが、自分がそんな器用な性格ではないことも充分に理解していた。
 面白くない奴。
 その言葉を一夜は自らの口で繰り返した。
 
 その翌日だった。
 いつものようにその日の日直よりもやや遅れて教室に入り、本を読んでいるとしばらくしてから那智が登校してきた。
「おはよう、遠矢」
「ん。おはようさん」
 ふたりの間で交わされる朝の挨拶の標準的なパターンだ。
 が、しかし、そこからが少し違っていた。
 いつものように制鞄を机の上に投げ出し、横向きに座る。そして、これまたいつものように何か他愛もないことを話し出すのだろうと思いきや、一夜の予想に反して那智の口は開かれなかった。
 ほんのわずか異質な空気が流れる。
「…………」
「…………」
 やがて那智は沈黙に耐えかねたように立ち上がると、他のクラスメイトのところに行ってしまった。
「…………」
 確かな違和感。
 しかし、一夜は不思議に思いはしたものの、たいして気に留めなかった。
 
 だが、それは昼休みにも続いた。
 那智が椅子を後ろに向け、一夜の机で向かい合って弁当を食べる。表面上はいつも通りだ。
 だが、会話が絶対的に少なかった。
 普段なら那智が話題を切り出し、それに一夜がひと言ふた言返し、また那智が話を広げる。そういうパターンなのだが、今日は一夜が返事をした段階で、那智が「そ、そうか……」「ああ、うん。それならいいんだ」などと力のない言葉を返して、風船がしぼむように話が終わる。そして、また思い出したように那智が話題を振ってくるのだった。
 ふたりの間に滑らかでない空気が確かにあった。
 何がそうさせているのかはわからない。
 そんなぎこちない会話を間欠的に繰り返しながら昼食は進み、食べ終わると那智は早々に宮里晶と食後の運動に体育館へと出かけた。
 
「じゃ、じゃあ、遠矢。また明日っ」
 放課後、終礼が終わると同時に那智が言った。
 いつもなら「一緒に帰ろうか」「遠矢、帰れる?」と訊いてくるのに、今日はそれもない。返事らしい返事がないのがデフォルトと思われているせいか、一夜が言葉を返す間もなく那智は足早に教室を出て行った。
 しかし、果たしてその時間が与えられていたとして、一夜は何を言っただろうか。
 いつもと様子の違う那智に、やはりいつもと同じ返事をする自分しか想像できなかった。
 一夜も制鞄を掴み、教室を出る。
 横に那智がいないので本を読みながら歩いた。しかし、目は字の上を滑るばかりで、まったく内容が頭に入ってこなかった。
 すぐにこれは無駄な行為だと判断。本を閉じた。
 こうしてひとりで帰るのは初めてのことではない。読書をキリのいいところまで進めるために那智を先に帰らせることもあるし、どちらかが掃除当番に当たっていると待たずに先に帰るのが常だ。それを考えると一緒に帰るのは二日に一回といったところか。
「…………」
 しかし、一夜は今初めて隣に那智がいないことを寂しいと思った――
 
 翌日になると状況はさらに酷くなっていた。
 朝に挨拶を交わしたきりで、会話らしい会話は一切ない。昼休みも同じだ。ただ向かい合って一緒に弁当を食べているというだけだった。
 
 そうして、5時間目の授業中。
 前に座る那智の背中を見ながら、一夜はようやく気がついた。
 あぁ、これは避けられているんだ、と――
 理由にもすぐに思い当たる。
『面白くない奴』
 那智はそう言っていた。
 たぶんそれだろう。
 思い返せばこういうことは今まで腐るほどあった。興味を示して近づいてきた同性も、容姿に惹かれて寄ってきた異性も、結局は何ごとにも無関心な一夜の性質についていけず、みんな離れていった。
 そのとき決まって言われた言葉がこれだった。
『面白くない』
 ならば、今回も同じなのだろう。
 那智も気づいたのだ。遠矢一夜という人間に面白味がないことに。
 それで距離を置こうとしているのだろう。だが、その性格故かいきなり掌を返すようなことができず、それがここのところの中途半端な態度になって表れているのだ。
 結末は見えた。
 遅かれ早かれ那智は自分から離れていくだろう。これまでの友人たちのように。
「……別にええけどな」
 一夜は小さくつぶやく。
 だが、そこには自分でも意外な響きが含まれていた。
 強がり。
 虚勢。
 口では状況に納得したようなことを言いながら、その実ぜんぜんよしとしていない自分がいる。
 だから、一夜は自分に問う。
 本当にそれでいいのか、と。
 このまま那智を、初めて理屈抜きで好意を抱けた少年を、離れていくまま黙って見送っていいのか、と――
 しかし、その答えは授業中いっぱい考えても出てこなかった。
 
「以上だ。クラス委員」
「起立っ。礼」
 その日の終礼が終わった。
 結局、一夜は自分に投げかけた問いの答えを出せていなかった。たぶん考えたところでなるようにしかならないのだろう。尤も、それは予想通りの結末を迎えることに他ならないが。
「遠矢っ」
 不意に那智が振り返った。
 硬い表情。
 意を決したような様子だが、どうせ先に帰ると言うつもりなのだろう。
「……なんや?」
「う……」
 思った以上に発音が刺々しかったのか、那智がたじろいだ。
「いや、その、なんだ……」
「はよ言え」
「お、おう……」
 那智はそこで一拍おいた。
「えっと……僕、何かしたかな?」
「は?」
「つまり、だ。遠矢、昨日の朝くらいから怒ってるみたいでちょっと怖いんだけど、僕が何かしたかなぁ、と……」
「…………」
「…………」
「……いや、何もしてへんと思うけど?」
 一夜は少々呆気に取られたように答えた。
「ほんとに?」
「ああ。ついでに言うと、別に俺も怒ってへんし」
「…………」
「…………」
 互いの顔を見て、無言で立ち尽くすふたり。
 が、突然、那智が脱力したように椅子に座り込み、そのまま一夜の机に突っ伏した。
「なんだぁ。僕てっきりくだらない話ばかりしてたから、遠矢が怒ってるのかと思った」
 疲れ切った調子で那智が言う。
「なんだ」は一夜の方だ。
 これですべて氷解した。要するにどちらが先というわけでもなく、相手の様子がおかしいと思いはじめていたのだ。しかも、互いにそう感じる理由に心当たりがあった。
 一夜は、面白味のない自分に愛想を尽かされたのだと思った。
 那智は、くだらない話をしている自分に一夜が呆れているのだと思った。
 しかし、開けてみれば何と言うことはない。単なるすれ違いと勘違いだったわけだ。
「アホくさ……」
 一夜はため息のように言葉を吐いた。
 それから視線を下ろし、未だ机に突っ伏している那智に目をやる。自然と手が彼の頭に伸び、その髪に触れた。
 明確な意志を伴った、初めての接触。
 彼の髪は自分のと比べ、ずいぶんと柔らかい気がした。
 そのままやや乱暴に頭を撫でながら一夜は言う。
「帰ろか」
「んー」
 しかし、返事のわりには那智は動く様子を見せない。
「帰んで?」
 もう一度声をかけて見るが、今度は返事もない。
 やがて――
「……一夜」
 ぽつりと那智が言った。
「…………」
 一夜の反応が遅れた。いや、反応に困ったというべきか。
 いきなり名を呼ばれたのだ。姓ではなく、名を。
 那智が顔を上げた。
 先ほどの強張った顔とは打って変わって、晴れやかな笑顔を一夜に向ける。
「一夜って呼んでいい?」
「……別にええけど」
「そっか。よかった」
 那智は勢いよく立ち上がった。
「一夜?」
「ん?」
「一夜」
「なんや」
「一夜」
「だからなんやっ」
「なんかいいよね、名前で呼ぶのって」
「知るか。用がないんやったら呼ぶな」
 一夜は制鞄を掴むと、教室の出入り口へと身を翻した。
 那智も慌ててそれを追う。
「なんだよー。用がないと呼んじゃいけないのかよー」
「そうや」
「ちぇ。面白くない奴」
「ほっとけ」
 ふたりはバタバタと教室を後にした。
 一夜が那智のことを名前で呼ぶようになるのは、この翌日のことである。
 
 
2007年5月23日公開
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