僕には好きな人がいるから――
 そう言われて五十嵐優子は振られた。
 優子が好きになったのは千秋那智という下級生だった。本当に中学から上がってきたばか
りといった感じの可愛らしい容姿で、快活な性格と無邪気な笑顔が印象的な少年である。事
実、優子の周りでもよく話題になるし、三年の間ではさらに人気が高いという話だ。
 優子は振られる前からこの結末は予想していたように思う。それでも想いを告げたのは、
気持ちにけじめをつけたかったからに他ならない。
 だから、今はもう未練はない。
 ただ心を占めるのは、彼が誰を好きなのかという一点だった。
 
 
Simple Life
  サイドストーリィ 2 「優子」(1)
 
 
 −1−
 放課後――、
 優子は机に両肘をつき、手の上に顎を乗せたままぼうっとしていた。
「ゆーこりんっ♪ なに放心してるの?」
「ふぇ!?」
 愛称を呼ばれようやく我に返る。
「あ、あれ? ホームルームは? わ、わわ?」
 どうやら気分はまだホームルーム中だったらしい。だが、それが終わったことにも気づい
ていなかったのだから、その内容もどこまで頭に入っているか疑わしい。
 きょろきょろと教室を見回す。
 ホームルームはとっくに終わっている。声をかけてきたのはいち早く帰り支度を整えた友
人の郭良子(かく・りょうこ)と牧場翠(まきば・みどり)だった。
「ぼーっとして。好きな人でもできた?」
「うん……」
「お?」
 正直すぎるほど正直に答えた優子の言葉に翠が反応する。
「でも、もう振られたから……」
「なにーーーっ!?」
「きゃっ」
 今度は郭良子だった。
「うちのコロポックルちゃんを振るとはどんな奴だい。ここにつれて来ーいっ」
 喚きながら握り拳を頭上で回転させて良子が怒りを露わにする。子どもっぽい感情の表現
だが、バレーボール部に所属する長身の良子がやるとたいそう迫力がある。
 ちなみにコロポックルとは、アイヌの伝説に出てくる知恵と幸福の小人である。
「落ち着け、カク」
「これが落ち着いてられるかーっ」
 すぐに翠が取り押さえに入ったので、優子は再び思考に没入した。
 僕には好きな人がいるから、と彼は言った。
 彼が好きになる相手とはいったいどんな人なのだろう。そして、その相手もまた彼のこと
が好きなのだろうか。
 それが気になって仕方なかった。
 彼には女の子の友達がたくさんいる。一緒にいるというだけで条件とするなら、かなり範
囲が広がるだろう。もし年下なら学内にいない可能性だって出てくる。
「うるさいっ」
「きゅう……」
 いったいどこの誰だろう?
 どうせなら振られたときにでも聞き出しておけば、こんなにも悩むことはなかったのにと
思う。
 無論、今となってはそれもできない。
 ふと気づくと暴れていた良子が机を抱えるように突っ伏して伸びていた。
「翠ちゃん、やりすぎだよぉ……」
「いや、カク張り倒したの、あんただから」
「え……」
 
 
 −2−
 優子はそびえ立つ図書室の書架を見上げ、困っていた。
 先生に取ってくるよう頼まれた本が収められた書架は他のものより高く、しかも、その最
上段が件の本の定位置だった。
 明らかに届かない。
 最初、背伸びして指先に触れた本を何とか取り出したのだが、それは目的の場所より一段
下の本だった。
「………」
 もう一度見上げる。
 やはり階段状の踏み台を持ってくるしかないのだろう。遅まきながら優子はその結論に至っ
た。
 ならば後は行動あるのみと向きを変える。
 と――
「あ……」
 こんな思わぬところで鉢合わせしたのは千秋那智だった。
 彼は頭に百科事典を三冊乗せて、それを手で支えていた。そんなことをして首が凹んだり
しないのだろうかと優子は思ったが、那智を見る限り重たそうな様子はなかった。
「こ、こんにちは、五十嵐先輩」
「……こんにちは」
 何せ振った振られたの関係なのだ。挨拶が歯切れの悪いものになってしまうのは仕方のな
いことだろう。
「千秋くんは……、ほ、本の返却……?」
「そうなんですよ。尾崎先生に頼まれたんですけどね、ほら、見てくださいよ。よりによっ
てこんな重量級を三冊も」
 そこで那智はお辞儀をするようにして頭の本を示した。そう言えばどこかの国の民族に、
こんなふうに頭の上にものを載せて運ぶ女性たちがいたような気がする。
「大変そう……」
「大変ですよ。ホント、尾崎先生って人使いが荒いよなぁ」
 ぼやきながらも那智は本を戻していく。
 書架にぽっかりと空いた、本来、本が収められていた空間にひとつひとつ本を片づけてい
く。幸い本は全て那智の手の届く場所にあったらしく、優子のように困ることはなかった。
「こういうのって決まった順番にはめ込んでいくと、本棚が左右に開いて長年封印されてい
た扉〜みたいなのが出てきそうじゃないですか?」
 本が綺麗に収まったのを見て、那智が楽しそうに語る。
「そうですね。それでその向こうに誰か待ってたりするんですよね?」
「そうそう。“ 待っていたよ、ジョーンズ博士 ” ……って、いや、そんなところに人が待って
たらおかしいでしょう」
「あ……、そ、そうですね……」
 優子は那智のもっともな指摘に顔を赤くしてうつむいた。
 何となく気まずい空気がふたりの間を流れる。
「ところで、先輩は何してるんですか?」
「えっと、あのね、わたしは千秋くんと逆で、本を取りに来た……んだけど……」
 そう言って書架を見上げる。那智もつられて視線を上げた。
「もしかして、いちばん上ですか?」
「うん……」
 ふたりして見上げたところで書架は低くならないし、自分の背は伸びない。
「やっぱり台を持ってくるしかないですね」
「う〜ん……」
 優子の言葉に、那智は何やら考えながら生返事をした。
 那智が胸の高さにある段に触れる。続いて向かいの書架にも反対の手で触れた。書架の間
隔が狭いので同時に触れることができる。つまり、両手を広げた幅よりも狭いということだ。
「よし」
 那智が意を決するようにつぶやいた。
 書架の鹿から二番目の段に足をかけ、続けて反対の足を向かいの三段目にかける。さらに
最初の足をもう一段上に上げて、ついに那智は目的の本に手の届くところまで登ってしまっ
た。
「先輩、どれですか?」
「え? あ、えっと、右から四番目……じゃなくて、五番目。うん。そう、それ」
「ほいっと……」
 那智は優子が指した本を抜き出し、飛び降りた。両足を揃えて優子の前に軽やかに着地す
る。
「はい、先輩。どうぞ」
「………」
 差し出された本を呆然と見つめる。
 あれよあれよという間に本を手にして下りてきたので、呆気にとられてしまったのだ。
 と、そのとき――
「そこのふたり。何をしている」
 馴染みのない先生が中通路からこちらを覗いていた。
 口調が威圧的なのは、きっと人気のないところにいる生徒はこそこそと悪いことをしてい
ると決めつけているのだろう。
 そうではないことを主張しなければと思うが、優子の舌は上手く回らない。
「すみません、先生。この本を返しに来たんですが、僕たちじゃ届かなくて」
 代わりに那智が持っていた本を見せて咄嗟の嘘を吐いた。
 優子はその横でただただ頷いているだけだった。
「だったら台を使えばいいだろう。カウンタの横に置いてあるから取ってきなさい」
「あ、はい。そうします」
 どうやらこの先生は生徒を疑いの目で見ると同時に、従順な姿を見るだけで安心してしま
う性格のようだった。きっとこの可愛い顔をした素直な生徒が書架をよじ登って本を取った
なんて微塵も思わないのだろう。
「………」
「………」
「………」
「………」
 先生が去ってからもしばらくの間、優子は那智とふたりで動かずにいた。が、やがてどち
らからともなくクスクスと笑い出す。
 あっさり騙された先生が何だかとても可笑しい。
 でも、それ以上に優子は那智と小さな秘密を共有したことが楽しかった。
 
 /続く
 
 
2005年7月17日公開
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