Simple Life
  サイドストーリィ 2 「優子」 (2)
 
 
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 最近、五十嵐優子の周りでよく持ち上がる話題に、『千秋那智の本命は、片瀬司、四方堂
円、遠矢一夜の三人のうち誰か?』というものがある。
 ほぼ同じ疑問を抱えている優子にとって、それは興味深い話題だった。
 確かにこのところこの四人が学生食堂で一緒にいる場面をよく見かけるようになった。千
秋那智の本命を絞り込むなら、ここに名の挙がった三人のうちのひとりである可能性が高い
だろう。
 しかし――、
(遠矢君は男の子だから違うよね)
 少数派に属する恋愛形態にまったく考えが及ばない優子は、可能性のひとつを早くも切り
捨てた。
 
 季節は初夏に入り、気温の上昇とともに学生食堂の自動販売機を利用する生徒も増えてき
た。昼休み、優子が来たときも運悪く人口密度が高い瞬間で、四人ほどが並んでいた。優子
は何も考えず最後尾につき、列をひとり分延ばした。
 やがて三歩ほど列が進んだとき――、
「あ、ゆこりん先輩だ。こんにちはっ」
 元気な声に振り返ると、そこにいたのは千秋那智だった。
 那智には先日、友人に愛称で呼ばれているところを見られ、以来、愛称に敬称を付けると
いう奇妙な呼び方をされている。
 那智も自動販売機に用があったらしく、優子の後ろに並んだ。
「こ、こんにちは、千秋くん」
 優子が挨拶を返す。
 列を作るためいつもより近くなった距離に、優子の顔の表面温度が上がってしまう。
「今日も暑いですね。喉乾いて仕方ないです」
「うん。わたしなんかすぐ脱水症状起こすから、水分ちゃんと摂っとかないとだし」
「あ、そうなんですか。うん、水分補給は大事です」
 神妙な顔つきで那智が頷く。
「そう言う僕は三限目が体育で、終わってから何か買いに来ようと思ったのに、時間がなく
てできなかったんですけどね。もうバテバテで四限目は机に伏せて死んでました。授業の内
容なんてさっぱりです」
 那智の言ったことをそのまま頭に思い浮かべると思わず吹き出してしまった。
「あ、先輩、前、前」
 可笑しくてくすくす笑っていると、那智が前を指さしていった。
 見ると優子の前に並んでいた生徒が皆いなくなっていた。幸い後ろは那智しか並んでいな
くて、文句を言われずにすんだ。
「………」
 自販機を見つめて考える。
「どうしたんですか?」
「えっと、なに飲もうかと思って」
「いや、そういうのは並んでる間に考えておきましょうよ」
「ご、ごめんなさい……」
 それからしばらくの間、ふたりで他愛もない話をしていた。
 場所は自販機からいちばん近いテーブルの席に移っていたが、椅子には座らず立ち話だっ
た。
 やがて那智が先に飲み終えた丁度そのとき――、
「あら、千秋くん、本当にここにいたのね」
 それはあまり聞き慣れない声だったが、声の主を見ればすぐに正体がわかった。
 片瀬司――
 この学園で彼女以上に有名な生徒はいないだろう。 “ 学園一の美少女 ” と呼ばれるほどの
容姿で、男子生徒の憧れの的となり、女子生徒からは羨望の眼差しと多少の妬みを集めてい
る。これで性格も良く、社交的とくれば、誰が言い出したか知らないが “ 学園のアイドル ”
などというセンスの欠片もないような呼び名にも頷けてしまう。
 そして、優子の個人的感情を観測要素に加えた場合、特に重要なのが千秋那智の本命と見
られている点である。
「片瀬先輩、僕がここにいるってよくわかりましたね」
「ええ、円に聞いたの。でも、どうしてかしら。わたしより円の方が詳しいなんて」
 そこで司は一度呆れたようにため息を吐いた。
「それに……」
 と、横目で優子の方を見る。
 対して優子は、後ろに何かあるのかと思って振り返ってみた。が、特に目を引くようなも
のは何もなく、頭に『?』を浮かべただけだった。
 そんな優子を見て司はくるりと那智へと向き直った。
「ふふん〜♪ 千秋くん、この子、面白い子ねぇ」
「先輩、牙みたいなのが見えてますけど……」
「八・重・歯、です」
 ぴしゃりと言い放つ。
 それから司は再び、今度は身体ごと優子に向いた。顔には上級生らしい余裕のある笑みを
浮かべている。
「ごめんなさい。楽しくお喋りしているところ悪いのだけど、少し千秋くんをお借りしてい
いかしら?」
「あ、はい、どうぞ。わたしも楽しかったので、つい長話しちゃって……」
 次の瞬間、司の顔が凍りついた。
 そして、素早く那智に向きを変えると――、
「……ふん」
 足を踏みつけた。
「じゃあ、遠慮なく “ 返して ” もらっていくわね?」
 そう言いながら振り返ったときには、もう元の笑顔に戻っていた。
 司は、つま先を押さえて蹲っている那智の二の腕を掴んで立たせると、そのまま引きずる
ようにして歩き出した。
 その様子を見て、何となく『連行』という言葉を連想した優子だった。
(何だか仲悪そう。片瀬さんじゃないのかな……)
 
 数日後――、
 登校の途中、優子は四方堂円と一緒に歩く千秋那智の姿を見つけた。
 那智の髪に寝癖でもついていたのか、円がブラシで髪をといてやりながら歩いている。そ
の姿は仲の良い姉弟にも見えて微笑ましい。
 優子はふと思い至る。
 千秋那智の人気は二年よりも三年の方が遙かに高い。それは二年から見てひとつ年下の、
可愛いだけの男の子は頼りなげで物足りない感があるが、三年から見るとまた違った見方が
できるからなのだろう。
 例えば弟や小動物のような、そういった愛玩と保護欲の対象である。
(やっぱり千秋くんも、どうせ年上なら四方堂さんみたいにスタイルいい方が好きなのか
な……?)
 円に比べると起伏に乏しい自分の身体を優子は嘆いた。
 
 階段を下りる。
 踊り場でターンをして、見下ろした先の廊下に千秋那智を見つけた。彼はまだこちらに気
がついていない。声をかけようかと迷っていると、新たな人影が現れた。
 片瀬司だった。
 彼女はこっそりと音もなく後ろから那智に近づくと、最後にはぴょんと跳ねて――、
「那〜智くんっ♪」
「わあっ」
 抱きついた。
 那智が悲鳴を上げ、慌てて司の腕からすり抜け逃れた。
 それをきっかけに優子は思わず階段の陰に隠れた。しゃがみ込んで、手摺りよりも身を低
くして耳を澄ます。
「びっくりしたぁ。司先輩か、おどかさないで下さいよ。誰か見てたらどうするんですか」
「あら、そんなドジはしないわ。まあ、見られたときは見られたときよね……って、そんな
に怖い顔しないで。冗談なんだから」
 その声は優子が知る司の声とは違っていた。以前に話したときのような年上らしい落ち着
いたものではなく、悪戯っ子のような声。
「ね、それよりも、那智くんのクラス、今日も授業は七限目までよね?」
「そうですけど、でも、今日は掃除当番だからもう少し帰りは遅くなるかな?」
「なら丁度いいわ。終わったら美術室に寄ってくれる? 一緒に帰りましょ」
「うぃ。わかりました。じゃあ、放課後に」
 ふたり分の足音が遠ざかっていく。
 驚きのためか、思わず漏れそうになった声を抑えるためか、優子は口に手を当てたまま、
その場で固まっていた。
(那智くん!? 司先輩!? ……わたし、もしかして見たらいけないもの見たかも……)
 
 それを目撃したのは単なる偶然だった。
 家庭科の授業が終わり、施錠のために寄った窓から下を見ると見知った顔があった。右か
ら千秋那智を含めたグループと、左から片瀬司率いるグループが近づいてくる。
 ふたつのグループは出会うと立ち話をはじめた。
 男子生徒にとって “ 学園のアイドル ” と話せることが嬉しいらしく、少し興奮した様子で
言葉を交わしている。那智と司に特別な関係を窺わせる様子はない。いいところ仲の良い先
輩と後輩といった雰囲気か。
 やがて上級生たちは手を振り、下級生たちは礼儀正しく頭を下げて別れを告げた。互いに
別の方向ヘ去っていく。
 と、そのとき――、
 司が背を向けた那智の手を引っ張った。
 よろめく那智。
 そして――、
 司は那智を引き寄せると、その頬にキスをした。
「―――っ!」
 那智の声にならない悲鳴がここまで伝わってくる。
 司は舌を出すと驚く那智に向かって、子どものように “ あかんべぇ ” をした。それからす
ぐに先に行った友達を追いかけ、駆けていく。
 その場には鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、頬を押さえて立ちすくむ那智だけが残された。
「おーい、なっち。何やってんだー? 先行くぞー」
「あ、うん。今行くー。あと、なっち言うなー」
 那智もまた走って友達を追う。
 まるで盗むような司のキス。そのことに周りは誰ひとりとして気がついていない。
 見ていたのはきっと優子だけ。
 だから、噂の真相を知るのもまた優子だけ。
 突然、優子は片瀬司という上級生が可愛く見えた。いつ誰に見られてもおかしくない状況
で、悪戯のようなキスをする司がとても可愛らしく思う。
「言いふらしちゃおっかなあ〜♪」
 そんな楽しげで可愛らしいふたりを見ていると、こっちまで楽しくなってきて、優子は唄
うように口ずさんだ。

 
 
2005年7月25日公開/同月26日改稿
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コメントへのお返事は、後日、日記にて。