抜かれた!
 センターライン上に立つ円がそう思って振り向いたときには、もう千秋那智はゴールに向
かってレイアップシュートを放っていた。
 これで三本目。
 一本目は360(スリーシックスティ)のターンで鮮やかに抜かれた。
 二本目は、目の前で急停止したので手を出したところをリバースターンですり抜けていっ
た。おそろしく緩急の差が激しい。
 そして、この三本目は、エンドラインからセンターラインまでの間にトップスピードに達
し、風のように円の脇を駆け抜けていった。フェイクもターンもドリブルチェンジもない。
単純に速さにものを言わせた力業だが、それだけにこれほど圧倒的に差を見せつけるものはな
い。
 
 
Simple Life
  サイドストーリィ3 円
 
 
「やっぱダメかぁ。円先輩には勝てそうもないです」
 ひと通り終わってから那智が言った。
「よく言うわよ。三本は取ったくせに」
「でも、一本は落としましたよ?」
「そりゃアンタが腕力もないのにフェイダウェイでスリーポイントなんか撃つから、ただ単
に届かなかっただけでしょうが」
 ちょっとした遊びではじめたオールコート一対一は、互いに四回ずつオフェンスをやって、
円が四本全てを、那智が三本取る結果に終わった。
「あれは足を止められた時点で勝ち負け決まってたようなもんですから」
「そのお返しが最後のあれ? オールコートの一対一なら無敵なんじゃない?」
「まあ、速攻は得意でしたよ。ディフェンスがふたりまでで、とんでもない奴じゃなければ
抜ける自信ありますね。三人はさすがに無理かな」
「いや、その場合、一対三で味方待たないアンタがおかしいから」
 円が冷静に突っ込む。
 通常、一対三の速攻はあり得ない。だが、彼の口振りではその好機とも言えない状況で速
攻を仕掛けたことがあるのだろう。確かにどこか無鉄砲なところのあるこの少年ならやりそ
うなことだと思う。そして、そんなプレイスタイルが円は嫌いではなかった。
「スピード勝負にもつれ込んだ場合、アタシはなっちに勝てないことがよっくわかったわ。
惜しいのは背か。あと10センチあったらねぇ。……16歳の平均身長ってどれくらいなん
だろ?」
「170センチですね」
 即座に答える那智を見て、円は「気にしてるんだな」と思った。
「10センチも足んないのか」
「む……」
 微かに那智が眉間に皺を寄せた。
「僕、誕生日がまだですから、15歳で考えてくれます?」
「じゃあ、15の平均は?」
「……168」
「あんま変わんないじゃん」
 しかし、年齢別の平均を覚えているほど身長を気にしている那智にとっては、それは些細
なことではないのだろう。
 逆に172センチもある円は、バスケットをしている分にはいいのだが、私生活において
は高すぎるのが年頃の女の子としての悩みだ。尤も、それも那智から見たら贅沢な悩みに映
るのだろうとも思う。
「なっち、誕生日いつよ?」
 コート脇の舞台の上に腰掛け、自分の鞄から出した下敷きで扇いでいる那智に訊いた。丁
度いい具合に目の高さが同じくらいになっている。
 単なる興味で訊いたのだが、その質問には奇妙な答えが返ってきた。
「戸籍上では12月の30日ですね」
「戸籍上では?」
「あ……。そうか、円先輩にはまだ話してなかったし、話す約束だった気もするな」
 そう言って那智は体育館を見回した。
 つられて円も目をやる。
 平日の放課後、部活動の時間にはまだ早く、部員もあまり集まっていない。すでに来てい
る真面目な部員はたいてい一年生で、練習の準備に追われていて円や那智に声をかける余裕
はないようだ。
 近くに誰もいないことを確認してから、那智が話しはじめた。
「えっと、僕、いわゆる捨て子なんです」
「……は?」
「僕を引き取ってくれた教会が戸籍を作る上で、母子センターと相談してだいたいこれくら
いだろうって決めたみたいです。だもんで、正確な日にちがわからないんですね、これが」
 そう言って那智は舞台の上であぐらをかき、腕を組んで、うんうん、と頷いた。
「ちょっと待ちなさいよ、アンタ。何をそんな迫力のある生い立ちをしれっと語ってるの
よ!?」
「え? そうでもないですよ。いちおう真面目に語ったつもりですけど?」
 笑顔で那智が言う。
 真面目に、というのは先程の神妙な顔つきと腕組みのことを言っているのだろうか。だと
したらあんなもの、円にはふざけてやっているようにしか見えなかった。
「まあ、昔のことを今、殊更深刻に語っても仕方ないですから」
「………」
 さらに那智は語る。
 養護施設も兼ねた教会で育ったこと。
 小学生のとき今の両親と出会い、そのまま千秋の家に引き取られたこと。
 施設育ちであることへの蔑みと、一転して裕福な家の子になったことへの妬みで、周りか
らの風当たりが強かったこと。
「てことは、中学ンときのバスケの顧問も、そんなくだらない差別意識でなっちを使わなかっ
たってこと?」
「なのかなあ?」
 那智が首を捻る。
「かなあって、明らかにそうでしょうがっ」
「嫌われてた理由は確かにそこだと思うけど、それと僕が試合で使ってもらえなかったこと
とは別に考えるべきじゃないかと。単純に僕が下手だったかもしれないし」
「ア、アンタねえ……」
 円は少しばかり唖然とした。
 この千秋那智という少年に関しては、親友の片瀬司を介して知り合ったときから素直な子
だと思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。ここまでくればもうお人好しと言う
他はないだろう。
「速さもある、技術もある。アンタほどのガードを使わない方がおかしいでしょーが」
「でも、僕、無茶なカットインして潰されることが多いから。その辺が悪かったのかなと思っ
たり?」
「………」
 いったいこの子は何なのだろう――そう思って、円は次第に苛々しはじめていた。
 自分の生まれのことで謂われのない差別を受けたのなら辛かったと言えばいい。好きなバ
スケットボールでレギュラが取れなかったのなら悔しかったと言えばいい。それなのに、こ
の少年はすべて昔のことと笑顔で語る。
「アンタ、バカじゃない?」
「ば、ばかって……。て言うか、先輩、泣いてる?」
「な、泣いてなんか――」
 だが、円はいつの間にかこの少年のために泣いていたらしい。
 可愛い顔をして厳しい生い立ちを持ち、そのために辛い境遇にあったにも関わらず、円が
知る誰よりも素直に育ったこの少年のために。
 不意に――、
 ふわり、と円は那智を抱きしめた。
「……なっち。辛いことがあったら何でもアタシに言いなさいよ。遠慮しなくていいからね」
 突然のことに驚いて那智はきょとんとした顔で動きを止めた。
 が、しばらくしてから、
「……先輩?」
「うん?」
「……汗くさい」
 次の瞬間、鈍い音が体育館の中に響き渡った。
 怒った円に那智が突き飛ばされ、舞台の床に倒れ込んだのだ。打ち所が悪ければ死んでし
まいそうな音だった。実際、下級生に抱きついてる我らが主将を見て見ぬふりをしていた数
人の部員は、一部始終を見て無言で十字を切っていた。
「危ねっ。今、体から魂が抜けてたっ。上から倒れてる自分見てたっ」
 しばらくぴくりとも動かなかった那智だったが、起き上がった途端、文句を訴えた。
「自業自得だ、バカッ」
 吐き捨てて那智に背を向ける。
 そうやって背を向けたはいいが、困ったことに再び向き直ることができなくなってしまっ
た。今更になって気恥ずかしさを覚えはじめたのだ。
 やがて那智が言う。
「ありがとうございます、先輩。そう言ってくれて嬉しいです」
「………」
 返事をしなかったのは、無論、怒っているからではない。
「でも、ぶっちゃけ、実は今も昔も特に辛いと思うことはないんですよね。不幸に対する感
覚が鈍いのかな? 人から見たら大変だなあって思うのかもしれない。でも、僕、不思議と
人間関係には恵まれてるから。まあ、中には嫌な人もいますよ。だけど、それと同じくらい
かそれ以上に僕のことを思ってくれる人がいるから。それこそ先輩みたいにね」
「それはみんなアンタのことが――」
「あ、片瀬先輩が来たっ」
 円の言葉が途中で遮られる。
 体育館の入り口を見ると親友の片瀬司が中を覗き込んでいた。自分の用事が終わり、帰る
ために那智を迎えに来たのだろう。
「じゃ、先輩、僕はこれで」
 そう言って那智は学生鞄を掴むと舞台から飛翔した。危なげなく着地すると、そのまま入
り口に向かって駆け出す。途中、転がっていたバスケットボールを拾ってワンステップでジャ
ンプし、振り向きざまのパスで投げてよこした。
 ボールはワンバウンドして綺麗に円の手の中に収まる。そのときにはもう那智は司のそば
に辿り着き、邪気のない顔を向けていた。
「仲のよろしいことで」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 那智が辛いことを打ち消すほどに人間関係に恵まれてると感じているのなら、その最大の
理由はきっと司なのだろうと円は思った。
 
「マズいよなあ……」
 自室でひとり円はつぶやいた。
 円には弟妹が三人もいる。
 まず、三つ下、現在中学三年生の二卵性双生児、由香(ゆか/女)と流夏(るか/男)。
双子だからだろうか、この年頃の姉弟にしては仲が良い。それはいいのだが、なぜか結託し
て円を罠に嵌めようと考えているのが悩みの種である。
 さらにその五つ下に小学四年生になる弟、幸隆(ゆきたか)がいるが、これがまた何を餌
に釣られたのか、双子の仲間に入ってしまい、さらに悩みを増やしてくれた。
 だが、いちばんの悩みの種は、それでも弟妹を可愛いと思っている自分なのかもしれない
と円は思う。
 そんなひと癖ある弟妹に比べると、千秋那智という少年は非常に素直でまた違った可愛ら
しさがある。
(だから、それがマズいんだって)
 ああ見えても那智は名実ともに司の恋人なのだから。
 しかし、どう考えてもアンバランスなふたりだと思う。那智の方が年下で、しかも、背が
低くて、ひたすら司に振り回されているときている。
(ま、アタシならもっとアンバランスなんだろうけどさ)
 と、そこではたと思考を止めた。
 ワンテンポ遅れて顔が熱くなるのを感じる。
「………。
 ………。
 ………さ、勉強しよ」
 誰に言うわけでもなくそう言って、円は勢いよく立ち上がった。
 日曜日の午後、いつもならクラブの練習で学校に行っている時間だが、水曜日からの期末
テストに向けて部活そのものが今は禁止されているのだ。
 何のための休みか。いい加減勉強に取りかかろうと机に近づいたとき、何気なく窓から外
を見下ろすと、たった今意識から振り払ったばかりの千秋那智の姿があった。
「何やってんだ、あいつ……って、決まってるか」
 言ってる途中で答えに思い当たる。
 向かいは司の家。当然、司に会いに来たのだろう。実際、那智はインターホンの前で反応
を待っているようだった。
 だが、次第に様子が変わってきた。いつまでたっても司が出てこないし、那智も首を傾げ
ながらついに携帯電話のディスプレイを開いた。
 司はいないのだろうか。
「おーい、なっち。何やってんだー?」
 見ていても仕方がないので、円は窓を開けて呼び掛けた。
「わあっ! 円先輩、何でそんなところに!?」
「いや、ここ、アタシん家でアタシの部屋なんだけどね。……ちょっと待ってて、今、そっ
ち行くから」
 そう言って円は一旦窓を閉め、床にある出口に向かう。
 円の部屋は屋根裏部屋である。末弟の幸隆が小学校に上がり自分の部屋が欲しいと言い出
したので、円は自分の部屋を譲ってこの屋根裏部屋に移ったのだ。故に出入り口は床にある。
 壁に立て掛けた脚立並みに傾斜のついた階段を下りる。
 二階の廊下に出るとなぜか床が濡れていた。ふと見ると双子がそれぞれの部屋からこちら
を窺っていて、あろう事か由香の手には電気コードが握られていたので、どこまで本気かわ
からないが、とりあえず一発ずつ頭に拳骨を落としておいた。
 余計なことに二分ほど費やして外に出る。
「なあに? 司に用があって来たけどいなかったってとこ?」
「それだったら僕がお間抜けさんってことで丸く収まるんですけどね。僕が行くことは連絡
済みなんですよ」
「じゃ、来るのわかってて出かけたってこと? なかなか考えにくい状況ね」
 司が那智に熱を上げていることはよく知っているので、このタイミングで不在にするのも
不可解な話だ。
「ケータイは?」
「持って出てないみたいです。……ほら」
 那智が携帯電話を操作すると、片瀬邸の二階の窓から微かに着信メロディが聞こえてきた。
なるほど。自室の机の上にでも放置しているのだろう。
「てことは、すぐ帰ってくるつもりか。……うちに上がって待ってる?」
「え? いや、それってマズくないですか?」
 せっかくの提案に那智は戸惑いを見せた。言いたいことは何となくわかる。
「そんなの心配してないっての。なっちが何かすると思ってないし。それに、ほら、それ以
前になっちのこと、男だと思ってないから」
 言いつつ円は、我ながら欺瞞の詰まった言葉だと思った。
「………」
「どした?」
「いや、耳痛ぇと思いまして。……あ、こっちの話なんで気にしないで下さい」
 結局、那智は言葉を濁した。
 家の中に那智を招き入れ、玄関を上がる。
「司ン家には何しに来たの? 顔が見たかったなんて言い出すんじゃないでしょうね」
「まさか。うちに忘れ物をしていったから、それを届けに来たんですよ」
「へえー。そっか、司、昨日なっちのところに行ったんだ」
 ほんの少しだけムカッときた。こっちはずっとふたりの仲を心配してきたのだ。進展があっ
たのなら教えてくれてもいいのにと思う。
「そんで、司、なに忘れていったの?」
「下着」
「ちょっと待て」
 思わず円は那智の襟首に掴みかかっていた。
「や、やだなぁ、先輩。冗談ですよ、冗談」
 えらい剣幕の円に驚き、那智は降参無抵抗とばかりに両手を挙げて言う。
「ア、アンタ……、いつからそんなおもしろ恐ろしい子になった……」
 ため息ひとつついて二階へ上がる。
 濡れていた床はもう掃除済みだった。それでもやっぱり視線を感じるので廊下の先を見る
と、また双子が顔を覗かせていて、しかも、同じタイミングで親指を立てた拳を突き出して
妙なサインを送ってきた。が、とりあえず意味は考えないことにした。
「司先輩から聞いてたけど、ホントに屋根裏部屋なんだ」
 梯子のような階段を見上げて、那智が感嘆の声を上げる。
「はいはい。いいからまず上がる」
 尻を叩いて先に上がるように促した。
 那智に続いて円も階段を上る。ふたりとも部屋に入ると円は蓋のような扉を閉めた。
「屋根裏部屋って不便じゃないですか?」
「そうでもないよ。慣れればどってことないし、アタシはわりと好きかな」
 屋根裏部屋は天井が低くて、多少圧迫感がある。しかも、家の構造上、東西方向では端に
行くほどさらに天井が低くなっていく。屋根の形がそのまま反映されているのだ。ただし、
最初から部屋として設計されているため、南北に大きな窓がある上、サンルーフまでついて
いて、採光にまったく問題はない。
「実はこの家のどの部屋よりも広かったりするんだ」
「それはお得ですね。それにしても円先輩が司先輩の真ん前に住んでるとは思いませんでし
た」
 通りに面した窓から外を見て那智が言う。
 そこからは司の家が見える。
「司から聞いてなかった?」
「ないですね。何でだろ?」
「さあ? ……ま、やりそうなことではあるけど」
 司は妙な部分を那智に伏せる癖があるようだ。那智が三年生の女子の間で人気があること
も未だに本人に伝わらないようにしている。理由まではよくわからないが。
 那智が次に興味を持ったのは、本棚に収められていたバスケットボールの教本だった。
「そんなの散々見たんじゃないの?」
「でも、指導する側に立った本って見たことないし」
 そう言って真剣な顔で本をパラパラとめくりはじめる。それを円はベッドの上であぐらを
かいて眺めていた。
(なるほどね。こーゆー顔か……)
 以前、司が言っていた。那智のボールを持ったときの顔が格好いいのだと。今もそれと同
じ顔をしている。そして、今の円なら心を打たれた司の気持ちがわかる気がした。
「ねえ、なっち」
「んー?」
 本に意識が向いたままの返事が返ってきた。
「司のこと、名前で呼ぶようになったんだね」
「え? ああ、あれね」
 ようやく顔を上げた。司という単語に反応したのだろうか。
「昨日、急遽方針の変更がありまして……」
 照れたように笑う。
「変ですかね?」
「……かもね。まるでつき合ってるみたい」
「うへっ。つまりそれは学校とか人の多いところじゃ言わない方がいいってことか。……円
先輩の前ならいいですよね?」
「今更何を言うか」
「ですよね」
 那智は嬉しそうに笑った。
 そのとき、那智の携帯電話が鳴った。
「あ、先輩? いったい今どこにいるんですか? ……家? じゃあ、いままで……。ああ、
そうだったんですか。それは楽しみです。……え? 僕ですか……?」
 ちらりと那智が円に目を向けてきた。おそらく今どこにいるかと訊いてきたのだろう。円
は首を横に振って見せた。
「家に行っても誰も出ないから、その辺をふらふらと……。はい、じゃあ、すぐ行きます」
 電話を切る。
「司、何だって?」
「僕が来るってんで、どこぞの洋菓子屋さんに買い出しに出かけてたそうです。また、ティ
ラミスだったりして。んで、今はもう帰ってるからすぐに来いとのことです。円先輩も行き
ますか?」
「……遠慮しとく」
 円がそう言うと那智は怪訝そうに表情だけで何故と問いかけてきた。だが、円は理由を答
えない。
「だから、思いっきり『司先ぱ〜い』って甘えといで」
「うわ、なんか嫌な言い方」
 かと言って気を悪くした様子もなく、「それじゃ、失礼します」と言うと那智は階段を下
りていった。何となく玄関まで送る気にもなれず、円はそのまま片手を挙げて見送った。
 廊下を軽やかな足音が遠ざかっていく。
「アンタらがベタベタしてるとこなんて見たくないつーの」
 苦笑しながら冗談めかせて言ったつもりだったが、あまり成功しているとは自分でも思え
なかった。
 
 明日から期末テストという火曜日の放課後――、
 円は教室の窓から昇降口を見下ろしていた。
 視線の先には、今まさに帰宅しようと昇降口から出てきた那智と司の姿があった。那智が
すれ違ったクラスメイトの女の子に手を振り、そこに司がブリザードの如き凍てついた視線
を向ける場面を見て、円は思わず「うわあ……」と声を漏らした。
「知ってる? この前からなっち、司のこと名前で呼ぶようになったの」
 やがてふたりが校門から出て行くのを見送ってから口を開いた。
 言葉を投げかけた相手は、今この教室にいる円以外の唯ひとり人間で、且つ、クラスメイ
トではない遠矢一夜だった。
「みたいやな。時々口滑らして言うてるわ」
 一夜は教室の中央付近の机に軽く腰掛けて、円の背中を眺めている。
「なっちさ、アタシと話しててもすぐに司の話になるの。ホントまいるわ」
「最近口開けたら那智の話ばかりしてるどこかの先パイみたいやな」
「ぐふ……」
 頬杖で支えていた頭ががっくりと外れる。思うところがあったのか、立て直した頭は最初
より心なしか低くなっていた。
 普段から口数の多い方ではない一夜はあまり自分から進んで話そうとしない。そして、今
の円は反論の余地もなく口を閉ざしている。
 そんなふたりの間に必然的に生まれた沈黙。
 それを破って再び円が口を開く。
「遠矢っちさ、なっちの小さいときの話って聞いたことある?」
 また那智の名前が出てきて、一夜はわずかに肩をすくめた。
「あるな。あいつと知り合ってから、わりと早い時期に聞かされたわ」
「あんなの聞かされたらさ、守ってやろうとか思わない?」
「……思わんな」
 予想だにしなかった一夜の答えを聞いて円は振り返った。
 驚く円に、一夜は淡々と続ける。
「あいつ、そんな弱い奴やないしな」
「………」
「それに、同情の上に立った友情や愛情やったら、そんなもん、あいつは欲しないんちゃう
か」
 一夜の言葉を受けて円は黙り込む。
 そして――、
「あっちゃあ〜〜」
 突然、片手で顔を覆った。
「アンタの言葉で一気に冷めたわ……」
「そらご愁傷様」
「要するにアタシは勘違いしてたってことか。確かになっちのあの話を聞いた後からだもん
ね」
「何のことかわからんから俺に言われてもしゃーないけどな」
 興味なさそうに一夜は言う。
 円は脱力したように自分の席に横向きに座り込んだ。一夜が腰掛けていた机のすぐ隣だ。
ふたりはほぼ向かい合う形になる。
「しっかし、アタシは、あれか。弱い部分を持った男を見ると守ってやろうと思ってしまう
女なのか?」
 心当たりがあって顔を上げると一夜と目が合った。
 一夜の形の良い眉が不機嫌を示すようにわずかに寄った。円は「あ、しまった」と思った
がもう遅かった。
「夏休みの約束、あれ、キャンセルな」
「うげ……」
 うめき声を上げる円。
 だが、一夜は円にかまわず自分の鞄を手に取ると、歩調も荒く出口に向かって歩き出した。
円も慌てて自分の鞄を掴み、後を追った。
「遠矢っち〜」
「知らん。ひとりで山でも海でも好きなとこ行ってこい」
 結局、一夜は最後まで足を止めようとしなかった。
 
 
2005年7月8日公開
何か一言あればどうぞ(拍手だけでも送れます)
コメントへのお返事は、後日、日記にて。
 
 

 
 

(あとがき)