08.片瀬司
 
 それは片瀬司がクラスの模擬店である『手作りケーキの店』にいたときに起こった。
「片瀬さん、どうしよう〜」
 司はいきなりクラスメイトの女の子に泣きつかれた。
「な、なに!? どうしたの!?」
「う、うん、あのね。さっき香椎君が逃げちゃったでしょ? だからスペシャルケーキは
出せないって言ったら、お客さんが怒っちゃって……」
「そんなことわたしに言われても困るんだけどね。……で、どんな人? 怖そう?」
「うん。同い年くらいだと思うけど、ちょっと怖そう……」
 そう言ってクラスメイトは、自分は見ないようにして指で入り口を指し示した。司はゆっ
くりとそちらの方を見た。
「あれは……」
 扉を取り外した入り口の向こうに、ひと晩中繁華街で遊び回っていそうな感じの、赤毛
のショートカットの少女が立っていた。何やらぶつぶつと独り言のように文句を言い、周
りにピリピリとした空気を撒き散らしている。
「ああ、あれなら大丈夫。怖くないわ」
 司はさらりとそう言った。
「ちょっと行ってくる」
「き、気をつけてね」
「大丈夫よ。まかせて」
 司はクラスメイトの心配の声を背中で聞きながら、赤毛の少女に近づいた。
「あら、後宮さん。こんなところで会うなんて奇遇ね」
 その少女は後宮紗弥加だった。
 司は紗弥加に幾分かの敵意を込めて声をかけた。
「……げ。片瀬。何でお前がここにいるんだよ?」
 紗弥加は心底驚いたように反応した。
「失礼ね。ここは美術科。わたしのクラスです」
「くそ。マジかよ……」
 今度は消え入りそうな声で紗弥加はつぶやいた。そのまま誰に対してなのか、またぶつ
ぶつと文句を呪文のように唱える。
「でも、意外だわ。あなたがケーキが食べられないくらいで怒って暴れるなんて」
「おい、ちょっと待て。いつ、誰が暴れたよ?」
 もちろん司の悪意ある誇張だ。
「煙草やお酒なら兎も角――」
「黙れよ。迂闊なこと言って那智の立場が悪くなったらどうするんだよ」
 司の言葉を遮るように紗弥加が言い、そして、睨む。
「ご、ごめんなさい……」
 掌で口を覆って司が謝った。
 紗弥加は一喝されてしゅんとなっている司に顔を寄せた。
「だいたい、酒っつったらお前だって一緒だろーがよ。ほら、期末テストのとき。あの後、
酔った勢いであいつを押し倒すくらいのことはしたんだろ?」
「………」
「ここで黙んのかよ!」
「し、してないわよ、そんなこと!」
 司は慌てて否定した。
 実は、押し倒したような、押し倒されたような、どっちだったのか。それとも夢だった
のか、記憶が曖昧なのだ。
(いつの間にか那智くんのベッドで寝ているわ、朝起きたら名前で呼ばれるわで、もうびっ
くりだったわ……)
 ふたりの間に妙な空気が流れる。
「しかし、あれだな。ここはフツーに、制服にエプロンなんだな」
 先に紗弥加が口を開いた。
「ここ来る途中で見た、家庭科部だったっけ? あそこのウェイトレスは凄い格好だった
ぜ? お前、あんなの着ないのかよ?」
「着るわけないでしょ」
 司はあっさりと一蹴した。
「なんだ。那智が喜ぶのに」
「え? そうなの?」
 那智の名前に反応し、司は思考する。
(那智くん、そういうの好きなんだ。やっぱりカノジョとしては希望に応えてあげた方が
いいのかしら?
 ………。
 別に、い、いかがわしいことに使うわけじゃないし、着て見せてあげるだけならいいわ
よね、うん)
 と――、
「嘘だから本気にすんなよ」
「な……っ。あ、あ、あ、あなたねぇ……っ」
 かなり真面目に考えたのに、と司は握り拳を固めた。顔が熱いのは、きっと怒っている
からだけではないだろう。
「でさ――なに? 職人ひとり逃げたの?」
「そういえば話はそこだったわね。……ええ、そうなの。香椎君って言う子なんだけどね。
彼、お菓子作りが趣味で、すごく上手いの。だからいろいろお願いしていたんだけど、さっ
き逃げちゃったのよ……」
「バカほど押しつけるからだろ。反省しろ、反省」
「あなたに言われなくてもわかってます。……で、どうするの? スペシャルケーキは無
理だけど、他のものなら出せるわよ? 寄っていく?」
「いんや。また後で来るわ。……んじゃな」
 しかし、紗弥加はそう言って踵を返し、背中越しに手を振りながら去っていった。
「なによ、あれ。結局、食べたいんじゃない」
 司は腰に手を当て、わけのわからない紗弥加を、ふくれっ面で見送った。
 
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